2018年9月21日金曜日

「効用」とは何か・・・3つの定義

「価値」の定義には3つある、と述べてきましたが、共同主観と個人主観という視点から見ると、「効用」にも3つの定義がある、と言えそうです。

①人間集団が一つのモノを評価する場合、そのもの特有の「有用性=効用=ねうち」という視点と、他のモノと比較するという「相当性=価値=あたひ」という視点の、2つを分けたうえで、両者をクロスさせている。

特定の社会集団は、さまざまなモノの「相当性=効用」を、他のモノの「相当性=効用」と比較して、一定の評価順位である「価値」を定めている。

個人が一つのモノを評価する場合、社会的な「効用」に従って使う場合は「効用1(有用性1)に、独創的な使用を編み出す場合は「効用2(有用性2)になる。

このため、「効用=ねうち」という概念はさらに3つ分かれます。

共効・・・ラング=社会集団が共同主観として認めた有用性であり、「共同効用」、略して「共効」とよぶことができる。

個効・・・パロール1=個人使用において、個人が社会的効用を受け入れた「効用1(有用性1)」であり、「個人効用」、略して「個効」とよぶことができる。

私効・・・パロール2=私的使用において、個人が独自に創り出した私的な「効用2(有用性2)」であり、「私的効用」、略して「私効」とよぶことができる。

この件については、すでに[生活民は「価値」よりも「私効」を重視!](2016年11月22日)などで詳しく述べています。ご参照ください。


以上のように、効用」という概念は、「共効」「個効」「私効」の3つに分割できる思います。




具体的な事例を挙げておきましょう。

食酢の効用・・・「共効」は基本的な調味料であり、多くの使用者はこれを「個効」として、料理の味付け使っています。しかし、一部の人たちは、幾分水で薄めたり、大さじ1~2杯をそのまま洗濯機へ投入し、洗濯ものをふっくらしあげる柔軟剤としても使っています。これは私人が新たに見出した食酢の新たな「ねうち」であり、まさに「私効」とよぶべき有用性でしょう。

冷蔵庫の効用・・・電気冷蔵庫は、食べ物や飲料を保管できるという「共効」を持ち、それを利用する使用者は実際に冷やすという「個効」を享受しています。しかし、ワンルームマンションなどを実態観測すると、冷蔵庫の中には薬品化粧品はもとより、銀行通帳現金まで、食べ物以外のさまざまなモノが入っています。冷凍庫に生ごみ入っているケースもあります。回収日が決まっているため、ゴミ箱では悪臭が立ちますから、冷凍したうえでまとめて捨てる、という生活の知恵です。狭い部屋の中で合理的な収納を望む単身者にとっては、「総合保管庫」や「冷凍ゴミ置き場」などという、大胆な「私効」にかわっているといえるでしょう。

このように「価値」の3定義を見直していくと、「効用」にもまた3つの定義が浮かんできます。

2018年9月10日月曜日

「価値」とは何か・・・3つの定義

これまで述べてきたことを、とりあえず整理してみましょう。

モノやコトの「価値」とは何であるのか、簡単にいえば「人間がモノやコトに対して抱く評価」ですが、その内容については幾つかの説があり、代表的なものは次の3つに集約されます。



①価値とは、有用性と相当性が絡み合った観念、つまり「有用性(使用価値)×相当性(交換価値)」である。

最も常識的な定義であり、古代ギリシャ以来の西欧的「価値」観、あるいはそれを継承・発展させたA.スミスの視点は、このあたりにあったように思われます。

日本人の場合、古くは「ねうち=有用性」と「あたい=相当性」を分けていたようですが、江戸時代に流入してきた西欧的な「価値」観に影響されて、それ以降は両者の複合した観念を受け入れたものと思われます。

②価値とは「相当性(交換価値)を意味する。

モノやコトへの評価を、有用性(使用価値=効用)と相当性(交換価値)に分けた上で、価値とは「相当性(交換価値)」だけだ、という立場です。

スミスを継承したD.リカードK.マルクス客観価値説がこの立場ですが、とりわけマルクスは、「価値」の本質は相当性にあり、有用性その素材にすぎない、と考えています。

言語学者のF.ド.ソシュールも、言葉の「価値」を言葉の「語義」と峻別して、相当性こそ「価値」だ、と述べています。但し、マルクスが「価値」の本質を交換尺度となる労働量の蓄積とみているのに対し、ソシュールは単語やモノの、単なる対立的な関係であり、社会的集団が認めた区分と考えています。

③価値とは「有用性(使用価値=効用)を意味する。

価値の本質は、人間がモノやコトに対して抱く評価内容(効用)そのもの、という立場であり、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガーL.ワルラスらが独自に唱えた主観価値の主張です。

ジェヴォンズによれば、「価値」という言葉は曖昧であるから、モノへの評価の中から購買力=交換比率、つまり相当性を排除し、そのうえで、使用者の立場から見た、モノの有用性のみ抜き出して、改めて「効用」という名称を与えています。

この立場を引き継いだ主観価値説では、「効用」とは個人がモノに感じる、主観的な評価である、というのが定説です。



 
3つの主張は「価値」という言葉の曖昧性をどのように取り扱うか、という立場の違いを示しています。

しかし、この言葉はもともと、有用性と相当性の複合した観念を意味しており、それがゆえに現代社会でもこの両義性が一般用語として生き残っています。

とすれば、やはり原点に立ち戻って、「有用性×相当性」と理解するのが適切なのかもしれません。

つまり、「新たな価値を持った商品」という場合も、その「価値」とは「新たな有用性を持つこと」とともに、「その有用性が従来の商品や他の商品より優れている」という要件を満たしていることが必要だ、ということです。

当たり前のようですが、実はここに重要な条件が潜んでいます。つまり、新しい「価値」が生れるためには、新規の有用性に加えて、比較の対象になる、一群のモノ集団が必要だ、ということです。

そして、もう一つ、新しいモノが従来のモノや他のモノより優れていると評価できるためには、一人ひとりの個人的評価を超えた、一定の社会集団の評価が必要だ、ということです。

一人の人間が「これは有用性が高い」と評価しても、多くの人々が認めなければ、「優れている」という相当性は定着しません。

つまり、有用性も相当性も、一定の社会集団によって認められることが必要なのです。それは、社会という人間集団が共通して抱いている、特定のものの見方、社会学が「共同主観」とよび、通俗的には「共同幻想」といわれているものです。

主観価値説では、個人がモノに感じる主観的な評価を「効用」とよんで、共同主観や客観を重視していません。しかし、個人が感じる「効用」自体もまた、ほとんどの場合は、一定の社会集団が認めた「有用性=効用」を受け入れているケースが多いのですから、完全な個人的主観に基づいている、というのはやや無理があるでしょう

そう考える時、「価値」が生れるには、モノ集団と人間集団という、二重の「集団」が前提になっている、といえるでしょう。

2018年8月29日水曜日

社会的な「ねうち」と純私的な「ききめ」を峻別する!

前回述べたように、私たちは毎日の暮らしの中で、一方ではパロール1によって他人とのコミュニケーションを成り立たせ、他方ではパロール2によって詩や散文などの創造活動を行っています。

パロール2は極めてマイナーな用法ですが、それでも社会的に流布し集積させることで、やがてはラングそのものを変革していくこともできます。

こうした関係は、言葉の使用法の延長線上に生まれる、道具や食べ物などの使用法と当然連動していますから、下図に示したような対応が成り立ちます。




 
どのような対応なのか、説明しておきまましょう。

①言語(ランガージュ:language)で作られた「コト界」と道具(ヰセージュ:usage)が通用している「モノ界」は上下に対応しています。

②コト界で社会的な「語義」に従って話す「パロール(parole:会話)1」は、モノ界では社会的な「使用価値」に従ってモノの「効用1」を使う「ティリゼ(utiliser=使用)1」に対応します。


③コト界で新たな「意味」を創造しながら話す「パロール2」は、モノ界で純個人的に独創的な「効用2」によってモノを使う「ヰティリゼ2」に、それぞれ相当します。

以上のような対応によって、パロール1における「意味1」とパロール2における「意味2」の関係は、「ヰティリゼ1」における「効用1」と「ヰティリゼ2」における「効用2」の関係に変換できます。

つまり、私たちは一つのモノを、一方では社会的な習慣や先例に基づく「効用1」、つまり「ねうち」として使っています。

しかし、もう一方で、私たちは自らの工夫やアイデアを加えた「効用2」としても使用することができ、その使用法が広がることによって、社会的な「効用1」を変革していくこともできる、ということです。

効用=ききめ」とみなせば、「効用2=ききめ2」を独創することによって、効用1=ききめ1」=「使用価値=ねうち」もまた変革できることを意味しています。

以上のように、言語学、とりわけソシュールの言語学を応用すると、モノに関わる3つの評価、つまり社会的な「使用価値=ねうち」や「交換価値=あたひ」と純私的な「効用1=ききめ1」や「効用2=ききめ2」の関係を明確に表すことができます。

同時に、大和言葉における「ねうち」「あたひ」「ききめ」の違いもまた、明らかにすることもできるでしょう。

2018年8月19日日曜日

言語学で「ねうち」と「ききめ」の違いを探る!

ソシュールの言語学の視点に立つと、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係であり、両方とも一定の人間集団によって認められたもの、ということになります。

ところが、有用性には人間集団の認知や共同主観がなくても、一人ひとりの個人が独自に認めるという次元があります。一人ひとりの個人にとっての「有用性」、つまり「効用=ききめ」の方はどのように位置づけられるか、という問題です。

経済学の視点を超えて、言語学の「価値」観をあえて紹介したのは、これを説明するためです。

言語学の視点を広げていくと、「効用」には共同主観的な次元だけでなく、純個人的な次元があり、両者のダイナミックな関係が、やがて有用性の中身を革新し、さらには社会そのものも変革していく可能性が見えてきます。

どういうことなのでしょう? ソシュールを継承した言語哲学者・丸山圭三郎は言葉の示すイメージについて、「意義(signification)」と「意味(sens)」の違いを指摘しています(『ソシュールの思想』)。「意義」という訳語は、先に述べたように、近年では「語義」と訳されていますから、ここでも「語義」を使うことにします。

その「語義」と「意味」はどう違うのか。「語義」とは、一つの言葉が辞書や文法といったラング(langue)の中で使われる場合であり、「意味」とは、それが個人的なパロール(parole)の中で使われる場合です。



ラングというのは、日本語、英語、フランス語など、それぞれの言語圏に属する人々が歴史的に共有している社会制度、共同主観です。この制度の中では、文法と辞書で示されているように、一つの言葉の語義と用法が、共同体の伝統と慣習によって、一定の範囲に定められています。

他方、パロールというのは、個々人がラングを使って実際に行なっている言語活動です。丸山先生によると、このパロールにも、既成のラングに忠実に基づいて会話する経験的使用」=パロール1と、ラングを使って全く新たな関係を作りだす「創造的使用」=パロール2の、2つのケースがあるようです。

他人とコミュニケートするには、互いに意味や用法を共有している言葉を使うのが便利ですが、私的なメモや日記、あるいは独創的な詩歌や創作を書くには、自分だけに通じる意味や用法も許される、ということです。

それゆえ、2つのケースによって、個々の「言葉」の意味もまた変わります。パロール1では「語義」の比重が多い「意味1」となり、パロール2では独創的な内容の比重が濃い「意味2」となります。

この差異、つまりコト次元の「意味1」「意味2」の差が、モノ次元の「ねうち」と「ききめ」の違いを創り出すのではないでしょうか?

2018年8月10日金曜日

「語義×価値」から「ねうち×あたい」へ!

ソシュールの「価値」観をモノ次元に応用すると、言葉の「語義」と「価値」の関係は、モノの「使用価値=ねうち」と「価値=交換価値=あたい」という関係に相当するでしょう。

前提になっているのは、言語次元の「語義」や「価値」が社会集団の慣用と同意によって決まっているのと同様、モノ次元の「使用価値=ねうち」や「交換価値=あたい」もまた、一人ひとりの個人ではなく、社会集団の慣用と同意によって決まっている、ということです。

そのうえで、一つのモノの「ねうち」という言葉を考えてみると、それは「ネウチ」という音声シニフィアンが、ある社会集団にとって「特定の役に立つ」という特性を物的シニフィエとする垂直の関係、つまり「語義」関係ということができます。
 



例えば、パンというモノの「ねうち」は、「食用になる」という特性を示します。毛糸というモノの「ねうち」は、「温かさ」という特性です。両方とも「ねうち=有用性」という語義が「役立つ」という特性を支えるように一体化しています。

他方、モノの「あたい」は、そのモノだけで決まるのではなく、他のモノの「有用性」や「無用性」との〝比較〟や〝対比〟によって定まります。


パンは石よりも「食用になる」度合いが高いから「あたい」があり、毛糸は木の皮より「温かい」比率が高いから「あたい」がある。いずれも有用と無用という比較のうえで、より有用なもの」や「より無用ではないもの」が「あたい」となります。

とすれば、「語義=ねうち」とは一つのモノの有用性がそのモノの特性と一体化している状態、「価値=あたい」とは一つのモノの有用性が他のモノの有用性と比較して決まる状態、ということができます。

いいかえると、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係といってもいいでしょう。

このように、言語学の見解を取り入れると、社会的な意味としての「ねうち」と「あたい」の違いがより明確になり、新たな地平が開けてきます。

2018年7月30日月曜日

近代言語学は「価値」という言葉をどうとらえているのか?

大和言葉で「ねうち」や「ききめ」の意味を考えてきましたので、言語学ではどのように考えているか、を見ておきましょう。

経済学の「価値・効用」観は現代社会に広く浸透していますが、この視点を継承しつつ、より原理的な次元で「価値」をとらえ直しているのが、人間の思考行動の根源を研究する言語学です。

例えば、近代言語学の創始者F.ド.ソシュールは、言葉の「価値(valeur)を「意義(signification=意味作用)との対比によって、明確かつ精密に説明しています(『一般言語学講義』)。

「意義」という訳語は、小林英夫による戦前の初訳によるものですが、近年では「語義」と訳されており、この方が適切だと思いますので、以下では「語義」を使うことにします。

ソシュールによると、一つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=Sa=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=Sé=意味されるもの)が、一体的に結びついたもの(signe=Sé /Sa)です。

この時、あるシニフィアンが特定のシニフィエと結びついて表示するものが言葉の「語義」であり、他のシーニュとの相対的、対立的な関係から決定される立場が言葉の「価値」である、と説明しています。

具体例でいえば、「イヌ」という音声が「四足の小動物・犬」のイメージと結びついて示すものが言葉の「語義」です。

他方、「四足の小動物・犬/イヌ」という言葉と「四足の小動物・猫/ネコ」という言葉が、それぞれ別種の小動物を示す能力が言葉の「価値」です。つまり、言葉の「価値」とは、犬と猫を区別できることです




ソシュール自身の解説によると、図に示したように、言葉の「語義」とは音声や文字が特定のイメージと【↕垂直の矢)】で結びついた状態であり、言葉の「価値」とは他の言葉(イメージ/音声・文字)との比較・対立する【↔(水平の矢)】としての関係を示しています。

垂直の矢というは、一つの音声が一つのイメージと一体的に結びついた、独立的な状態であり、水平の矢というのは、さまざまな音声の地平と、さまざまなイメージの地平が、重層的に広がって、ある音声とあるイメージが上下に対応している、並立的な状態です。

この対比は、言葉(コト)と対象(モノ)の関係を示したもので、モノとコトとの関係を「垂直」コトとコトの関係を「水平」とみなしています。

大和言葉でいえば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、あたい」部分のみに純化させました。その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。


さらにソシュールは、こうした「価値」観は「いずれの科学」にも「あらゆる文化次元の価値」にも適用できると付言し、その実在形として「貨幣」を想定しつつ、価値の成立条件を次の2つに一般化しています。

①その価値の決定を要するものと交換しうるような一つの似ていないものが存在すること。例えば、5フランの貨幣は、貨幣ではないパンやブドウ酒の一定量と交換できることが必要である。

②その価値が当面の問題であるものと比較しうる幾つかの似ているものが存在すること。例えば、前述の5フランが同じ貨幣体系に属する1フラン貨幣や10フラン貨幣と比較できることが必要である。

「価値」を「相当性=あたい」と理解した場合にも、その内容にはさらに2つの条件があり、一つは「交換可能性」、もう一つは「順位比較性」である、ということです。

そして、この「価値」という概念は「秩序を異にする物の間の対当の体系」であり、それを成立させるのは、個人ではなく、社会的な集団の認知だけ、とも述べています。

「(社会)集団は、価値の成立のために必要であって、これの唯一の存在理由は、慣用と一般的同意のうちにある。個人一人ではそれを一つとして定めることはできない」ということです。

以上を大和言葉で説明すれば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、「あたい」部分のみに純化させました。

その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。

しかし、ここでは「効用=ききめ」について、まったく言及していません。

これについては、言語共同体における社会的規約の体系である「ラング (la langue)ではなく、個人がそれを実践する時の発話行動である「パロール (la parole) 」として考察しているようです。 

2018年7月20日金曜日

「価値」と「効用」・・・大和言葉で考える!

これまでの流れをちょっと整理しておきます。

大和言葉で「ねうち(有用性)と「あたひ(相当性)に分かれていた「ありがたみ」という観念は、仏教や西欧思想の流入によって「價値(価値)という翻訳語に吸収され、「有用性+相当性」の二義性を持ったまま、現代日本語の中へ定着しています。

このうち、現代の経済学で使われている「価値」については、客観価値説と主観価値説でその内容が幾分異なっています。

客観価値説では、「価値(value)という言葉に「効用(utility)と「購買力(power of purchasing other goods」の2つの意味を含め、前者を「使用価値(value in use)」、後者を「交換価値(value in exchange」と名づけています(A.スミス)。

主観価値説では、「効用(utility)を「人間の要求から生じる物の状況」と定義したうえで、「使用価値」を「全部効用」、交換価値を「購買力」、そして両者の間で動く有用性の変化を「最終効用度」と、3つに分けています(W.S.ジェヴォンズ)。

両者の関係は、交換価値=購買力使用価値=全部効用+最終効用度ということになるでしょう。



漢字の「價値」と比較してみると、「」が交換価値であり、「」が使用価値または効用ということになります

大和言葉と比較すると、「あたひ」=交換価値、「ねうち」=使用価値、「ききめ」=効用 ということになるでしょう。「ねうち」(使用価値)と「ききめ」(効用)の関係は、客観的な有用性と一人一人の主観的な有用性の違いということになります。

以上の諸関係を、当ブログ、「生活民マテリアリング(LC-Materialing)」の立場で整理するとききめ」=主観的な「効用」をベースとしつつ、客観的な「使用価値」=「ねうち」に対応していかなければならない、ということになるでしょう。