2018年12月9日日曜日

「私効」を実現する生活行動とは・・・

3番めは「差延化という行動」が私的行為の基本になっていることです。

「差延化」という言葉は、24年前、
日本経済新聞・経済教室(1994年4月29日において、生活民自身の「私効」を実現する、最も具体的な方法として、筆者が初めて提唱したものです。

いうまでもなく、フランスの哲学者、J.デリダのキーワード「差延」を応用したものです(『
声と現象』)。

デリダは、フランス語の「différence(差異」の動詞形(différer)に含まれる「延期する」という意味を踏まえて、「différance(差延)という同音異議語を作りました。

「差延」とは、言葉の意味を生み出す「差異」に対して、結果として差異を生み出す〝動き〟のことだ、と述べています。

具体的にいえば、パロール(parole:話し言葉)では、言葉の意味が話し手と聞き手の間で同一性を保っているケースが多いのですが、エクリチュール(écriture:書き言葉)になると、書き手の文章が読み手によって多様に解釈できる場合が増えてきます。


なぜなら、会話で使う話し言葉では、話し手が抑揚や表情やジェスチュアなどを加えますから、単語の意味が一義的に受け手に伝わります。

けれども、手紙や文書で使う書き言葉では、文字でしか表現できませんから、ともすれば曖昧になりがちです。だが、その分だけ、受け手はその意味を多義的に解釈できますから、一つの言葉は新たな意味を持つようになります。

こうした言葉の開かれた機能が「差延」です。つまり、「予め作られた差異」ではなく、「送り手と受け手の間で時間とともに作られていく差異」ということです。

この視点を生活行動一般に拡大すると、モノの用途における「差延」とは、予め作られたモノの共効や個効ではなく、提供者と私用者の間で時間とともに作られていく私効ということになるでしょう。

先に述べたように、「共効」や「個効」は社会的・集団的な有用性ですが、「私効」は純私的な有用性であるからです。

当ブログですでにとりあげた
食酢や冷蔵庫の事例のように、生活民の「私効」行動は、かなり多岐にわたっています。

どのような行動があるのか、さまざまな具体例から考えていきましょう。

2018年11月29日木曜日

生活行動の判断基準は「私効」から・・・

2番めは「私効」というネウチを、さまざまな生活行動を決める時に、生活民は一つの判断基準にしていることです。

生活民の判断基準とは、彼の生きている生活構造の中から生まれてくるものです。

生活構造については、すでに述べたように、「生活体」【
「生活民」の生活構造とは・・・:2016年10月25日】で表わされるものですが、これを構成する、基本的な3つの軸の上で、生活民はさまざまな判断をしています。



➀社会-個人軸の上では、生活民は「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility)」を求めています【
生活民は「価値」よりも「私効」を重視!2016年11月22日】。

生活民は、大熊信行の提唱した「生活者」の、「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」という立場を引き継いで、社会的な「価値(共効)」よりも、純私的なネウチである「私効」を重視します。

②言語-感覚軸の上では、生活民は「言葉(word)」や「記号(sign)」よりも「感覚(sense)」や「象徴(symbol)」を重視しています【
差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】。

生活民は、今和次郎の提唱した「生活人」の、「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を継承しつつ、「農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行など」も含めたうえで、基本的な立場を「感覚」や「象徴」においています

また大熊信行の「生活者」では、その生活願望を「必要」次元である「欲求次元に限っていましたが、生活民の生活願望はさらに
「欲望」や「欲動」次元まで広がってゆきます。

③真実-虚構軸の上では、生活民は「真実」という視点よりも、「虚構」という視点に重点をおいて「日常」や「真実」を眺めています【
生活民は「真実」を超える!2017年8月31日】。

日常の世界とは、コスモスとカオスのせめぎ合う世界、あるいはモノとコトの行き交う「モノコト界」であり、二重の意味で「真実」を保証するものではありません。

それゆえ、生活民には一歩退いた立場から、冷静に「真実」に向かい合うことが求められます。


とりわけ、現代社会のような高度消費社会では、供給側からの、真偽入り混じった、さまざまな情報が押し付けられる以上、生活民は冷静な私人としての立場から、真実と虚構への対応力を向上させていかなければなりません。

以上のように、生活民の判断基準については、社会-個人軸上の「私効」をべ-スとしつつも、さらに言語-感覚軸上の「感覚」や「象徴」真実-虚構軸上の「虚構」を含めた次元から説明していくことが求められるでしょう。

2018年11月20日火曜日

アトモノミクスの基盤を考える!

アトモノミクス(Άτομομικός)を構築する場合、最も基本的な視点として、次の3つをまず考えるべきだと思います。
 
① 生活民という主体
② 「私効」重視という対物態度
③ 差延化という行動

1番めは「生活民という主体」という視点です。


生活民とはどのような人間をさすのか、これまで展開してきた当ブログの趣旨からいえば、2つの要件が求められます。


 一つは【「生活民」とはどんな人?】(2016年10月13日)の中で述べた、最もベーシックな要件です。

「生活民」とは、生活の主体である人間像を、生活学の「生活人」社会経済学の「生活者」を継承しつつ、より統合化したコンセプトであり、主な特徴は次のようなものです。

① 従来の生活学の「生活人」からは、「美学や哲学などの次元にまで幅を広げた、より総合的な人間像」を継承しています。

② 社会経済学の「生活者」からは、「営利主義の対象である“消費者”を抑制する」ことや「自己生産を基本にする」ことを継承しています。

その一方で、「生活人」が否定した「伝統や慣習、あるいは流行を追い求める生活行動」や、「生活者」が排除した「気晴らしや見せびらかしなどを求める願望次元」なども積極的に肯定し、両方とも含めた人間像をめざします。

④ 生活の主体を、市場社会のユーザーの立場を超えて、市場の成立以前から存在した、自立的な人間におきます。

もう一つの要件は、【
「生活民マーケティング」は「LC-Marketing」だ!】(2017年7月30日)の中で提起した、以下の行動主体であることです。

①生活民とは「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility)」を求める主体である。・・・【生活民は「価値」よりも「私効」を重視!:2016年11月22日】

②生活民とは「言葉(word)」や「記号(sign)」よりも「感覚(sense)」や「象徴(symbol」を重視する主体である。・・・【
差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】

③生活民とは「真実」よりも、虚構」から「日常」や「真実」を眺める主体である。・・・【
嘘を作り出す二重の構造!:2017年6月10日】

これらは、オイコノミクスやエコノミクスからみれば、枠外の要件かもしれません。


しかし、「アトモノミクス」では、2つの要件を満たす人格こそを「生活民」と定義したうえで、彼の行う生活諸行動についての様式や原理などを構築していきます。

2018年11月9日金曜日

「オイコノミクス」から「アトモノミクス」へ!

「経済学や家政学を超えよう」と主張してきたところ、「経済学と家政学はもともと同じもので、改めて生活学などを提唱するまでもない」というご批判をいただきました。

確かに「エコノミクス(Economics:経済学)の語源は、ギリシア語の「オイコノミコス(Οἰκονομικός)に由来しています。

ギリシア語では、「オイコス(οἶκος, oikos:家)と「ノモス(νόμος, nomos:法)の合成語が「オイコノミア(Oικονομία)であり、「家政=家庭の管理・運営」を意味しています。

「オイコノミア」の複数形の形容詞が「オイコノミカ(Οἰκονομικά)」、単数形の形容詞が「オイコノミコス(Οἰκονομικός)であり、ともに「家政論」や「家政学」を意味しているようです。

古代ギリシャの歴史家、クセノフォン(Xenophon)がBC430~BC354年頃に著した『オイコノミコス』の中で、「家政とは何か」というソクラテスの問いに対し、クリトブロスなる人物が「良い家政家であるということは、自分自身の家財をきちんと管理できるということだ」と答えています(越前谷悦子訳、リーベル出版)。

これを敷衍すれば、「オイコノミコス」とは「自分の家産や家計をいかに管理するか」という意味であり、日本語に訳せば、まさに「家政」という言葉に相当します。

古代ギリシアでは、こうした「家政」の集合として、ポリス(都市国家)の経済を把握していたようです。つまり、家政の延長上に国家の財政や金融の政策がある、という趣旨です。

こうした思想は、西欧においても、A.スミス(Adam Smith)のを『国富論』(1776年)を経て、A.マーシャル(Alfred Marshall)の主著『経済学原理』(Principles of Economics, 1890年)により経済学」(Economics)という理論名称で定着しました。

以上の経緯を振り返ると、「オイコノミコス」が「エコノミクス」の語源となったことはほぼ間違いありません。

とすれば、経済学の原点は家政学であり、改めて異なる立場を提唱する必要はないようにも思えます。

しかしながら、次の視点に立つと、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。

筆者が必要性を感じるのは、次の3つです。
①オイコノミコスの「自分自身の家財をきちんと管理できる」という守備的な範囲を超えて、生活民自身の生み出す、独創、自給、自足といった、より積極的な生活思考や生活行動を把握する理論が求められます。

②家政学から発展したにもかかわらず、現代の経済学は、個人や家族よりも国家や企業の経済活動を究明することに重点を移しているため、個人や私人の立場に立った、より強力な生活理論が求められます。

③「共効」を前提とする経済学、「個効」に中心を置く家政学に対し、純個人的・私人的な「私効」の立場から市場や財政などに立ち向かう理論が必要になっています。

とすれば、現代の高度市場社会に対応していくには、「オイコノミコス」の原点に戻りつつも、個人、私人といった「生活民」一人ひとりのための生活理論を改めて研究することが必要なのではないでしょうか。

一言でいえば、

アトモノミクス(Άτομο,átomo:私人・原子 + νόμος,nomos:法)
の構築です。

2018年10月30日火曜日

「消費者」論を超え、「生活民」を活かす学問を求めて!

「交換価値」や「共効」を基盤として「市場経済社会」が成立し、急速に発展するとともに、それを説明する理論として、いわゆる「経済学」が誕生し、さまざまな形で発展してきました。

それにつれて、もともと人類に備わっていたはずの「使用価値」や「私効」を重んじる「自給自足生活」は次第に影を薄め、理論的な追及もまた忘れられるようになりました。

経済学の世界では、社会や国家単位の経済構造を究明するマクロ経済学とともに、最小の経済単位である消費者(家計)、生産者(企業)、および両者が経済的な交換を行う場(市場)を分析対象として、ミクロ経済学(Microeconomics)が成立しています。

ミクロ経済学では、家計や消費行動など、個人的な経済生活を対象にして、詳細な分析を行ってはいますが、あくまでも前提になっているのは「交換価値(共効)」であり、ミクロとはいっても、有用性では「個効」の次元までです。

一方、家事や家政を対象とする家政学では、衣食住や育児・教育など、家庭での日常的な生活について、ノウハウや価値観に関する技術の研究が行われてきました。

ここでは、家庭経済学生活経済学という形で、家庭という主体がおもに貨幣を通じて社会と結びつきつつ、構成員それぞれの生活の内容を調整しているという構造について、利点や欠点などを多面的に研究しています。

だが、この分野でも、家政学原論の英訳名が「Principles Home Economics」とよばれているように、大前提となっているのは市場社会と貨幣による交換構造であり、その外縁に広がる、自律的・自給的な生活行動については補充的な位置づけです。有用性の次元でいえば、研究の対象は個効」に留まっているのです

そこで、ミクロ経済学や家政学を超えようとして、新たにわが国で生まれた生活学では、市場社会の交換経済を超えた「自己生産」や経済的生活を超える全体的な生活主体、つまり「生活者」や「生活人」をベースとした理論を追及してきました。

有用性の次元でいえば、ここで初めて「私効」を核とした生活分析の理論的な究明が始まったといえるでしょう。

しかし、その追及はさほどはかどってはいません。「生活者」を提唱した大熊信行も、「生活人」を主張した今和次郎も、すでに述べたように、さまざまな限界を示しています。
大熊信行の提唱した「生活者」像は、「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」というものですが、その生活願望を「必要」次元に限るという点で、やはり経済学の次元に留まっています。

また
今和次郎の提唱した「生活人」像もまた「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行などを厳しく排除している点で、やや狭隘な視点にとらわれています。

とすれば、生活学の今後に期待されているのは、「私効」次元から出発した生活行動論や生活構造論などではないでしょうか。

自立自助」「自給自足」といった立場から、市場社会やミクロ経済学などを軽々と手玉にとって、柔軟な生き方、強靭な暮らし方を展開する学問だと思います。

2018年10月21日日曜日

「価値創造」より「私効復活」へ!

高度市場社会においては、供給者である企業の側が、綿密なマーケットリサーチによって、顧客の需要にきめ細かく応えようとしたとしても、本格的であればあるほど、生活民の真の願望に辿り着くことはほとんど困難でしょう。

さまざまな企業がどれだけ「顧客価値」や「顧客満足」などと唱えたところで、本質的な満足にはほど遠い、ということです。

もし「十分に満足した」との回答があったとしても、それは需要者である生活民の側が、「消費者」の立場に甘んじて、とりあえず妥協した、ということにすぎないのです。

このように書くと、マーケティング関連の学者や業界などから、カスタマイゼーション(customization:顧客個別対応)という、新たな手法があるじゃないか、という反論が必ず出てきます。「個効」を顧客別に修正して、一人ひとりの「私効」を実現する、というマーケティング手法です。

だが、これについても、B.スティグレール(Bernard Stiegler)痛烈に批判しています(『象徴の貧困』)。


「カスタマイゼーション、一対一の個別マーケティング、市場のハイパーセグメント化などとしての個性化(individualization)とは、特異化(singularisation)をデジタル記号化によって特殊化(particulalisation)に変化させることであり、その記号化のコントロールとしての効果には限りなく強力なもの」となる。

「特異なもの(singulier)を特殊なもの(particulier)に変えてしまうカスタマイゼーションとは、前個体的な環境へのアクセスモードを規格統一して画一化すること」にすぎない。                   


昨今、急速に注目を集めているIT技術を駆使したカスタマイゼーション。それですら、需要者の個性を「特殊」という類型にふり分ける、一つの手法にすぎない、というのです。

価値創造」や「顧客価値」という言葉に、どことなくつきまとう虚しさ、うさん臭さの要因の一つは、こうした虚構性にあります。



供給者が新しい価値をどれほど創り出したとしても、顧客側が「個体性の衰退」や「アイデンティティーの喪失」から抜け出すのはかなり困難、といわざるをえません。

では、どうすればいいのか。スティグレールによると、「中毒的消費」や「消費依存症」を解毒するためには、新しい「生の様式」や新たな「生き方」が求められますから「象徴制度」の再構築、つまり「教育の計画」や「政治の計画」の再建、さらには「文明の大言説」の復興が必要だ、と主張しています。

この主張にはそれなりに頷けます。だが、あまりに壮大かつ長期的な改革案ですから、現実の市場社会の方向を直ちに変えるのは難しいのではないでしょうか。

とすれば、現実的な方法は、現状の市場社会を前提にしつつも、需要者と供給者の関係、生活財と商品の関わり方を、より深化させていく方向だと思います。

つまり、生活民の側から、より暮らしに身近なところから始めて、段階的に少しずつ市場社会の構造を転換していくことです。いわば「柔軟型市場社会(flexible market society)」ともいうべき方向ではないでしょうか。

具体的にはどうすべきなのか。一つの方向は、過剰な「共効」支配を抑えて、衰退した「私効」を復活させることです「共効」優先から「私効」重視への転換を図る。あるいは個効」と「私効」のバランスを回復する、という方向です。

生活民としては、マスメディアや消費市場から押し付けられる流行やライフスタイルを一旦棚上げにしたうえで、自分自身の中身や暮らしを見つめ直し、そこから改めて「何が欲しいのか」、生活願望を再構築していくことです。

過剰な消費社会に慣れた身には、簡単なことではないのかもしれません。


けれども、その可能性を探ることから、「消費者」という低位を脱却し、「生活民」の優位を復活させる可能性が生まれ、さらには市場社会そのものの再構築という、大きな方向が見えてくるのではないでしょうか。

2018年10月9日火曜日

マーケティングは何を破壊したのか?

ながながとモノへの評価観を見直してきたのは、「マーケティング」という社会的装置の問題点を根本から見直してみたいからです。

例えば、現代フランスを代表する思想家、B.スティグレール(Bernard Stiegler)は「マーケティングは、家族構造や文化構造といった象徴制度をなしくずしに破壊してきた」と告発しています(『世界』2010年3月号)。・・・【差異化手法を批判する:2016年2月11日】

さらに彼は、マーケティングの横行によって、「個々が得意な物やその特異性に感覚的に愛着を持つということができなくなった」とし、「象徴の生産に参加できなくなって、個体性』が衰退していく」とも述べています(『象徴の貧困』)。

スティグレールの批判を、これまで述べてきた「共効―個効―私効」の文脈に載せてみれば、社会的な「共効」が肥大化して、個人的な「私効」を駆逐した、あるいは供給側の差し出す「共効」に圧倒されて、需要側の「私効」創造力が衰退した、ということになるでしょう。

このようなスティグレールの告発は、単なるマーケティング批判を超えて、現代市場社会、あるいは後期資本主義社会本質的な欠陥を指弾している、ともいえるでしょう。

現代の市場社会とは、供給者と需要者の両方がほとんどの全ての生活財を、市場という社会的な場を通じて交換するという構造を持っているからです。

供給者である企業は、市場の存在を前提にして、商品の有用性を作り出し、かつ供給しています。


その有用性とは、市場を支える多くの需要者が共通して求める、社会的、共同主観的なものですから、いうまでもなく「共効」です。

つまり、商品の「共効」とは、多くの需要者が共通して商品に求める有用性、いわば有用性の〝最大共通素〟とでもいうべきものです。

需要者である個人は、通常はそれらの「共効」に従って商品を購入し、そのとおりに使用して「個効」を享受しています(ヰティリゼ1)。

だが、そうでないケースもあります。個性や独創性を重んじる個人の場合は、純個人的、主観的な「私効」を目的に、既存の商品を購入したうえで、自分なりの手法で使用します(ヰティリゼ2)。

後者の場合、一つの商品の有用性は、市場での最大共通素を前提にしながらも、その中から個人的、主観的に選ばれています。

この時、個性的な需要者が商品に求めるものは「私効」ですが、それは有用性の“最小共通素〟となる場合が多いでしょう。なぜなら、彼らは自分自身の求める有用性の〝最小要素〟を求めて商品を購入し、それらを独自に組み合わせて使いこなしていくからです。

こうした需要が増えてくると、供給側でもそれに対応して、できるだけ多くの人に共通する〝最小要素〟を商品におりこむようになります。

となると、一つの商品の持つ「共効」と「私効」には微妙なズレが出てきます。



企業の側では、できるだけ多くの顧客の求めに共通する有用性を抽出して、商品の「共効」を作り出そうとします。

これに対し、純個性的な個人の側ではできるだけ自分だけの有用性を求めて、商品の「私効」を購入しようとします。



両者は当然重なっていますが、本質的にいえば、最大共通素と最小共通素がぴったり一致するのはごくなことでしょう。

そこで、企業は少数需要者の「共効」の一部を切り捨てることで大量生産を可能にし、また個人は自分なりの「私効」をある程度犠牲にすことで、己の消費行動を実現していきます。

ところが、現代のような高度市場社会では、先に述べたように、ほとんど全ての生活財が生産者の手で生産され、市場を通じて供給されていますから、需要側に立った生活民の一人ひとりは生産側の「共効」に従わざるをえません

つまり、現代社会では、市場性が私用性に優越し、最大共通素が最小共通素に優越し「共効」が「私効」を圧倒しているのです。そこに現代市場社会の、基本的な問題点があるといえるでしょう。