2020年1月29日水曜日

生活民とブランドは対立する!

生活民にとってブランドは意味があるものなのか、3つの視点から検討してきましたが、今一度整理してみると、次のようになります。

①「価値」よりも「私効」を重視する生活民にとって、ブランドは生活行動の内部に入っていくにつれ、次第にそのネウチを低下させていく。

②「言葉」や「記号」よりも「感覚」や「象徴」を重視する生活民にとって、その民度が深まれば深まるほどブランドのネウチは急速に縮小していく。

③「真実」よりも「虚構」から「日常」や「真実」を眺める生活民にとって、ブランドはほとんど無意味なマークとなっていく。

以上の3点を3軸と見なして、立体的に描いてみると、下図のようになります。




これを見ると、私効・欲動・虚構を基盤とする「生活民」と、共効・欲望・真実に依存する「ブランド」は真っ向から対立する関係にあります。

要するに、生活民にとって、ブランドとはまったく不要なもの、さらにいえば排斥すべきものということになるでしょう。

超高額の海外ブランドを買って、これ見よがしにひけらかし、飽きが来たら、さっそく質屋に行って、できるだけ高値で売るという行為は、生活民には全く無縁の、むしろ唾棄すべき行為となるのです。

逆にブランド側からみれば、生活民とは相手にならない顧客層、さらにいえばほとんど存在しない訴求対象ということになります。

高位品質を保証する高級品には目もくれないで、身近な生活用品で満足している買い手などは、初めから客筋とは思ってもいないということです。

このように生活民とブランドは、まったく相容れない対立関係にあります。

・・・とはいいながら、生活民もブランドも、この世の中にはれっきとして存在しています。

もしも生活民とブランドの共立する方法があるとすれば、新たな展望が開けるのかもしれません。

それはいかなる方向なのか、改めて考えていきましょう。

2020年1月21日火曜日

「脱・真実」でブランドは無視される!

生活民の立場からブランドの功罪を眺めていますが、3番めの検証は、生活民とは「真実」よりも、「虚構」から「日常」や「真実」を眺める主体である【供給者は真実言語には介入するな!:2017年12月10日】という視点からです。

このように書くとかなり違和感があると思いますが、当ブログの過去のコラムを読んでいただければ、納得していただけると思います。

例えば【
「脱・真実」へ対応する!2017年5月23日】や【SNSにどう向き合うか?2017年5月11日】などで指摘しているように、生活民という主体は、言語という識知装置によって周りの環境世界を完璧に把握しているわけではなく、不完全なしくみとみなしている、という前提に立っているからです。

こうした視点から見れば、図に示したように、ブランドの立場はかなり不確かなものとなります


①言語を識知用の仮装置にすぎないとする虚構界では、言葉はすべて虚構であることを前提としていますから、商品やサービスの信用や権威を表示するブランドの意味はまったく無視されます。

②日常的な交信が行われている日常界では、言葉はまさに虚実の入り混じったものですから、ブランドの意味もまた信頼性と欺瞞性の入り混じったものとなります

③言語の示すものを全て真実と見なそうとする真実界では、あらゆる言葉が真実を表象していますから、供給者の提示するブランドもまたそのままの形で信頼性を現ことになります。

逆に言えば、ブランドとは、「真実」界では確かに意味を持つものの、日常」界ではまあまあの意義となり、「虚構」界に至ってはほとんど無意味なマークとなる、ということです。

言語空間を曖昧なものと見なしている生活民の立場からみれば、信用や権威を示すブランドという記号は、「言葉の示すものは全て真実だ」という、限られた前提の中でのみ通用するものということになるでしょう。

2020年1月13日月曜日

欲動はブランドを求めない!

生活民の立場からブランドの功罪を眺めています.

2番検証は「言葉(word)」や「記号(sign)」よりも「感覚(sense)」や「象徴(symbol」を重視する生活者【差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】という視点からです。

生活民の生活願望には、【
縦軸・・・3つの生活願望とは何か:2015年3月5日】で述べたように、大別して「欲望」「欲求」「欲動」の3つの次元があります。

欲望(desire)・・・人間が言葉を持ったがために、必然的に生まれる願望。

生理的、生物学的な必要性がなくとも、「言葉(word)」や「観念(idea)」といった「記号(sign)」の刺激を受けて、私たち一人ひとりの内部に発生するもので、物質への願望を越えて、言語的、文化的な願望となります。

例えば、テレビで紹介された料理が食べたい、流行の服が着たい、友人なみマンションに住みたいなど、物質そのものというよりも、その上にのった文化関係や社会関係、あるいはそれらについての観念や表象を求めるものです。

欲求(want)・・・のどが乾いたから飲み物が欲しい、空腹を覚えたから食べ物が欲しい、寒くなったから衣類が欲しいなど、生理的、生物学的な不足状態を意識がとらえた願望。

英語の〈want〉という言葉がいみじくも示しているように、一人ひとりの身体の中で何かが「欠如」してくるため、それを「必要」とする心理として現れます。


このため、欲求の対象になるのは基本的には物質であり、願望の中身もまた生理的、物質的なものになります。

欲動(drive)・・・意識の下の無意識的な願望であり、生死の区別や善悪の分割など日常的な評価基準をはるかに超えた、動物的、衝動的な願望

フロイトが指摘した「生ヘの欲動」や「死への欲動」なども含まれており、最も自然に近い、あるいは自然そのものとしての快楽を求めていくものです。

「言分け」される以前の願望ですから、夢や幻といった”象徴”的なイメージとなって、しばしば私たちの前に現れてきます。

以上に挙げた3つの願望について、生活民の求める比重は、【
生活民は「デザイン」を超える! :2017年8月20日】で述べたように、「言葉(word)」や「記号(sign)」よりも「感覚(sense)」や「象徴(symbol」を重視する、つまり【欲望<欲求<欲動】ということです。

3つの願望の中で、もっともブランドを求めるのは「欲望」です。補足的には「欲求」が求める場合もありますが、その内容はまったく軽いものでしょう。





とすれば、生活民の民度が深まれば深まるほど、ブランドは求められなくなっていきます。いいかえれば、ブランドのネウチは急速に縮小していくのです。