2018年7月20日金曜日

「価値」と「効用」・・・大和言葉で考える!

これまでの流れをちょっと整理しておきます。

大和言葉で「ねうち(有用性)と「あたひ(相当性)に分かれていた「ありがたみ」という観念は、仏教や西欧思想の流入によって「價値(価値)という翻訳語に吸収され、「有用性+相当性」の二義性を持ったまま、現代日本語の中へ定着しています。

このうち、現代の経済学で使われている「価値」については、客観価値説と主観価値説でその内容が幾分異なっています。

客観価値説では、「価値(value)という言葉に「効用(utility)と「購買力(power of purchasing other goods」の2つの意味を含め、前者を「使用価値(value in use)」、後者を「交換価値(value in exchange」と名づけています(A.スミス)。

主観価値説では、「効用(utility)を「人間の要求から生じる物の状況」と定義したうえで、「使用価値」を「全部効用」、交換価値を「購買力」、そして両者の間で動く有用性の変化を「最終効用度」と、3つに分けています(W.S.ジェヴォンズ)。

両者の関係は、交換価値=購買力使用価値=全部効用+最終効用度ということになるでしょう。



漢字の「價値」と比較してみると、「」が交換価値であり、「」が使用価値または効用ということになります

大和言葉と比較すると、「あたひ」=交換価値、「ねうち」=使用価値、「ききめ」=効用 ということになるでしょう。「ねうち」(使用価値)と「ききめ」(効用)の関係は、客観的な有用性と一人一人の主観的な有用性の違いということになります。

以上の諸関係を、当ブログ、「生活民マテリアリング(LC-Materialing)」の立場で整理するとききめ」=主観的な「効用」をベースとしつつ、客観的な「使用価値」=「ねうち」に対応していかなければならない、ということになるでしょう。

2018年7月10日火曜日

「価値」や「効用」という訳語は適切なのか?

価値」という漢字も「効用」という漢字も、ともに大陸の漢字文化の中から、欧州語のValueやUtilityの意味に似た文字を探し出して、当てはめられたものです。

価値」は、古墳時代に「價直(げじき=呉音、かちょく=漢音)」という漢字で導入され、江戸時代になって、欧州語の翻訳語として「價値(かち)」という言葉に置き換えられ、昭和後期に「価値(新字体)」になりました。

効用」の方も、前回まで見てきたように、明治前期に「利用」「実利」という漢字で導入されましたが、明治末期から大正期にかけて「效用(旧字体)へ、そして昭和後期に「効用(新字体)に至っています。

かくして、経済的な意味での「価値」や「効用」という言葉は、代経済学の基本用語となり、日常用語としても定着しているようです。

しかし、2つの言葉を、私たち日本人の基本的な言語感覚である「大和言葉」の立場から見直す時、いささか狭いようにも感じられます。



すでに述べたように、「価値」に相当する大和言葉は「ねうち」であり、「音(ね)を打(う)つ」ことです。ポンポンと西瓜を叩いて、食べごろを推し量るように、モノの音(ね)を聞いて、モノの有用性である美味しさを推測することを意味しています。

一方、「効用」に相当する大和言葉は「ききめ」と、筆者は推定しています。「きき」と「」が繋がったもので、「きき」は「きく(聞く)」の変形、「め」は「めやす(目安)」の略語です。つまり、「音(ね)を打っ」た音(ね)を「聞」いて、「目(で計る)」ことだと思います。

大和言葉は私たち日本人の言語感覚のベースとなるものです。それは、日本人が感覚で把握した現象世界を、最も元始的な言語である「オノマトペ(擬声語)を基礎にして作りあげた言葉です。

それゆえ、「言語阿頼耶識」と井筒俊彦先生が定義された通り、無意識次元から意識次元の言葉を作り上げていく力を持っています。

この立場から見る時、移入用語である「価値」や「効用」という言葉は、どのような位置づけになるのでしょうか。

2018年7月9日月曜日

Utility は「効用」より「致用」と訳すべきだった!

小島祐馬先生(京都帝国大学教授)の前掲論文「Utility ノ訳語ニ就イテ」が、「京都大学学術情報リポジトリ」で公開されていますので、その要旨を載せておきましょう(原文は旧文体表記のため、筆者が現代文表記に翻案しています)。


  

●この論文ではUtilityの意義を「財物が人間の欲望を満足させうる力」と定めておいて、然る後にこれが訳語の富否を検することとしたい。

●Utilityの訳語として従来用いられたものは数種あるが、今日最も勢力のある学者問で用いられ、かつ問題となっているのは、「利用」と「効用(原文では效用」との二つであると思うから、今回はこの二つについて研究するに留める。よって、まず「利用」の語を吟味し、次に「効用」に及ぶことにする。

●(『尚書』『左伝』『荘子』『漢書』などでの古人の用法)を要約すれば、文字の本来の意味より見て、「利用」とは「人(または他の人格者)が事物の用を利する」という意味であり、「事物が人の用を利する」という意味ではない。従ってUtilityを以て「財物が人の欲望を満足せしむる力』と解する以上、これを「利用」と訳するのは妥当でない(以下・略)。

●Utilityの訳語として「利用」よりも更に勢力を有する「効用」という文字が果して妥当なるか否か(中略)。「効用」の出典については、余の浅學なるか、末だこれを経傅の中に見出すことができない。余の知れる範囲において、その最も古きものは『後漢書』の事例(中略)であり、この場合の「効用」は「人が国家のために用を効する」を意味している。

●「効用」の(中略)「何のために用を効するか」という目的物は、あるいは國家であり、社会であり、あるいは君主、あるいは政府と、場合によって異なることあるが、その用を効する意味においてはどれも同じである。(中略)別の意味に使用せられていることを、かつて見たことがない。

●「効用」の「効」はもとより「致す」の意味であって、「効用也」とか「効猶致也」とかいう訓詁は『左伝』『国策』『史記』『漢書』など多く散見しておるところである。されば「効用」という代わりに、「致用」といってもまた同義であって、かかる用法も随分多い。

●「致用」もやはり、「効用」と同じく、「人が国家若くは社会のためその能力を尽くす」ことをいったものである。

●しかし、『荀子』(中略)の注には「物皆豊其美、而来為人用也」とあり、ここでは「物が人に役立つ」ことをいうものである。

●即ち、この「致用」の意味こそUtility の意味によく適応するものということができよう。

●なお「効用」の用例については、未だ『荀子』中の「致用」の如きものを見出さざるは甚だ遺憾であるが、併し前に君国の為めに力を尽くす意味においては、「効用」と「致用」が全く同様に用いられることを明らかにし得たのであるから、物が人の用に役立つ能力を指す場合に於いても、かつて用例なき「効用」を、かつて用例ある「致用」と同様の意味に用いて行くということは己むを得ざる場合の造語としては、甚だしき不条理ともいえない

●よって、「効用」という訳語も文字本来の意義より見て決してUtilityの意味に全然適応したものということは出来ないのであって、新たに訳語を選定する場合であつたならば、今少し訪求の余地なきかと思うのであるが、之を「利用」という訳語と比較して文字の意義上その優劣を定めんとならば、それは「効用」の「利用」に優ること数等であると思う。

 
●何となれば両者ともに現在訳語として使用している意味においては、正確なる出処を欠くことは同一であるも、造語の上より考へて、「利用」は他に紛らわしき意味あり、かつ之を訳語とするについて相当の根拠を欠くのに反し.「効用」は他に紛らわしきおそれなく.かつUtilityの訳語とするについて相当の根拠を有するがためである

●「利用」と「効用」以外において、如何なる文字が果してUtilityの訳語として最適当なるものなるかということを、今少しく述べてみたいが、従来〈用い慣れたる〉「効用」が字義の上より見ても、甚だしき不都合なき以上、実際上には最早必要なき穿鑿であり、かつこの上無味乾燥なる引用語を羅列することも如何と思うが故に、今は暫く省略する(後略)。


 
以上を整理してみますと、次のようにまとめられます。

➀Utilityの意義を「財物が人間の欲望を満足させうる力」と理解する。

②「利用」という言葉は、中国の古典では「人(または他の人格者)が事物の用を利する」という意味であり、事物が人の用を利する」という意味ではないから、Utilityを「利用」と訳すのは妥当でない

③「効用」という言葉は、中国古典ではほとんど使用されておらず、使用されている場合でも「人が国家、社会、君主、政府などのために用を効する」を意味している。

④「効用」の「効」は「致す」の意味であるから、「効用」の代わりに「致用」ということもできるが、その意味もまた「人が国家や社会のためその能力を尽くす」ことである。

⑤しかし、『荀子』では「致用」が「物が人に役立つ」ことも意味しているから、これこそUtility の意味によく適応している。

⑥「効用」と「致用」が同様に用いられるケースがある以上、物が人の用に役立つ能力をさす場合、かつて用例なき「効用」を、かつて用例ある「致用」と同様の意味に用いることはやむをえない

⑦「利用」という訳語が他に紛らわしい意味があるのに対し、効用」の方は紛らわしき使用のおそれがない点で優れている。

⑧「効用」という言葉がすでに用い慣らされており、字義の上でも甚だしき不都合がない以上、これ以外の訳語を探すのは無意味である

小島先生としては、本来なら「致用」の方が望ましかったのですが、すでに使用が広がっている以上、効用」という訳語でやむをえなない、ということでしょう。

要するに、「効用」という言葉もまた「価値」と同じく、大和言葉の中からではなく、大陸の漢字文化の中からは探し出されたものだ、といえるでしょう。

2018年6月19日火曜日

utilityの訳語論争があった!

英語の「utility」の翻訳経緯については、小林武教授(京都産業大学・東アジア思想史)がその論文「清末におけるutility と功利観」の中で詳しく述べられています。

要点を紹介しておきましょう。



➀utilityの概念をいかに訳すかをめぐって,かつて福田徳三(東京商科大学教授)河上肇(京都帝国大学教授)との間で論争があった。福田が「利用」の語をあてたことを,河上が批判している。


以上は、河上肇「『内外経済名著』ノ刊行」(『京都法学会雑誌』第8 巻第6 号,1913 年6 月),福田徳三「『利用』及ヒ『非利用』ナル述語ニ付テ河上教授ニ答フ」(同誌第8 巻第7 号,1913 年7 月),河上肇「福田博士ニ答フ(Utility ニ相当スル述語ニ就イテ)」(同誌第8 巻第7 号、同上),小島祐馬「Utility ノ訳語ニ就イテ」(『経済論叢』第4 巻第6 号,1917 年)による。

②河上肇によると,経済的概念としてのutilityに対して,明治30年以前は訳語が一定せず,「利用」以外に「実利」「実用」「需要」「用便」「功用」「有用性」などがあった。10~ 20年代では「利用」が多く,ついで20年代になると,「実利」が多い。20年代後半から「効用」が用いられはじめたが,田島錦治『最近経済学』(1898)がジェヴォンズのmarginal utilityを「限界的効用」と訳して以降,「効用」の語が主流となったようである。

以上は、河上・前掲「福田博士ニ答フ(Utility ニ相当スル述語ニ就イテ)」による。


③「利用」「効用」という漢語の意味と用例を詳しく検討した小島祐馬(京都帝国大学教授)によると,「利用」の語は,大体において為政者が人民のために財用を有利にする意味で用いられるから,人が物の用を利することに他ならず,物が人を満足させる力という意味をもつutilityとは,意味の方向が違う。ところが「効用」の語は,経伝の中にはあまり見られないが,「致用」とほぼ同義であって,人が国家のためにその能力をつくすことである物が人の役に立つ意味の「致用」は,わずかに『荀子』王制篇に見えるだけという。


以上は小島祐馬・前掲「Utility ノ訳語ニ就イテ」による。

④明治前期にはutilityを「利用」「実利」と訳すことが多かったが,後期になると,経済的概念の理解が進んで,漢語としては用例の少ない「効用」が用いられるに至ったことと分かる。

以上のような経緯を知ると、utilityへ「効用」という、聞きなれない漢字が当てられた背景には、utilityという英語の意味そのものへの理解や解釈の違いがあるようです。

とすれば、大和言葉の「ねうち」や「ききめ」との差異についても、もう一度考えてみなければならないでしょう。

2018年6月11日月曜日

誰が「効用」と訳したのか?

主観価値説が提唱した「効用(utility)という言葉は、「限界効用」や「効用関数」などと、現代日本ではほぼ日常的な経済用語として使われています。

しかし、実際のところは、これまた明治末~大正時代に現れた翻訳語にすぎません。

英語の「utility」の翻訳歴を振り返ってみましょう。




 幕末
英和辞書『英和対訳袖珍辞書』(堀達之助著、文久2年=1862年)・・・「要用、利益

明治期
『英和字彙・増補訂正改訂二版』(柴田昌吉, 子安峻著、明治15年=1882年)・・・「利益、裨益、功利
『富国論』(A.スミス著・石川暎作訳、明治17年=1884年)・・・「実用
『惹氏 経済論綱』(W.S.ジェヴォンズ著、嵯峨正作・古田新六訳、明治22年=1889年)・・・「有用、利用
『最近経済学』(田島錦治著、明治31年=1898年)・・・ジェヴォンズのmarginal utilityを初めて「限界的効用」と訳す。

大正期
『哲学字彙 英独仏和』(井上哲次郎・元良勇次郎・中島力造著、大正元年=1912年)・・・「功利、利用
『経済学純理』(W.S.ジェヴォンズ著、小泉信三訳、大正2年=1913年)・・・「利用
『経済学原論』(W.S.ジェヴォンズ著、小田勇二訳、大正11年=1922年)・・・初めて単独で「効用」と訳す。
『資本利子及企業利得論』(トマス・フオン・アキノ等著、高畠素之・安倍浩訳、大正12年=1923年)・・・メンガーの説を「功用説」と紹介。
『理論経済学の若干問題 』(川西正鑑著、大正14年=1925年)・・・ジェヴォンズの説を「効用」で説明。

以上のように、「utility」という英語には、幕末から明治中期まで「要用」「利益」「実用」「有用」「利用」「功利」「利用」などと極めて多様な訳語が充てられてきましたが、明治30年代~大正10年代(1890~1920年)に至って、ようやく「効用」に辿り着いたものと思われます。

要するに、経済用語としての「価値」の歴史は約120年前後、「効用」の歴史もまた約100年前後にすぎません。

大和言葉の「ねうち」や「ききめ」に比べる時、どちらも1世紀前後の歴史しか持っていない、外来的な観念といえるでしょう。

2018年5月30日水曜日

“効用”という“あたひ”とは・・・

W.S.ジェヴォンズ、C.メンガー、L.ワルラスがそれぞれ独自に創始した「主観価値説」は、モノや商品の価値はもっぱら消費者の主観的な評価である「効用(utility)」に基づく、という「ねうち=直」中心理論です。

これに対し、W.ペティ、A.スミス、D.リカードらの古典派経済学や、K.マルクスのマルクス経済学などが主張する客観価値説は、モノや商品の価値はそれを作り出す労働に基づく、という「交換価値(value in exchange論、つまり「あたひ=價」論が中心でした。


両者の違いは、A.スミスの立てた命題「水は有用であるが通常は安価であり、宝石はさほど有用ではないが非常に高価である。これはなぜなのか」に対する、それぞれの回答によって鮮明になります。

客観価値説・・・

価値」という概念を提起したうえで、それを「使用価値」と「交換価値」に分け、使用価値の大小はモノの属性によって決まり、交換価値の大小は供給量=労働量によって決まる、と説明します。

「水ほど有用なものはないが、それでどのような物を購買することもほとんどできない」のに対し、「ダイヤモンドはどのような使用価値もほとんどないが、それと交換できるきわめて多量の財貨をしばしばえることができる」から、ダイヤの交換価値は「その商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい」というのです。

主観価値説・・・

効用」という概念を提示したうえで、消費量の変化によって「全部効用(基本的な満足度)」と「限界効用(一つ増えることで得られる主観的な満足度)」が分かれるとし、供給量の増減による両者の違いが価格の上下を作り出す、と説明します。

「水の全部効用は高いが、無限供給に近いから、限界効用が低くなって安価となる。一方、宝石の全部効用は低いが、供給に限界があるから、限界効用が高くなって高価となる」というのです。

以上のように、経済学の歴史を振り返ると、「有用性」という概念を現す言葉では、客観価値説の「使用価値=あたひ=價」論と主観価値説では「効用=ねうち=直」論が対立しています。

だが、いずれの立場においても、「使用価値=効用=ねうち」的なものと「交換価値=価値=あたひ」的なものを区別し、それぞれの比重の差によってモノや商品の「有用性」を現している、といえるでしょう。

2018年5月21日月曜日

L.ワルラスの “価値”観

フランスの経済学者、レオン・ワルラス(Leon Walras 1834-1910)は『純粋経済学要論』(Éléments d'économie politique pure; ou. théorie de la richesse sociale ,1874~77、手塚寿郎訳、1933)の中で、商品の“効用”や“価値”について、次のように述べています(抜粋・要旨)

 

●物は何らかの使用に役立ち得ときから、すなわち何らかの欲望に適い、これを満足し得るときから効用(元訳では“利用”)がある。
 
●通常の会話では必要と贅沢との間に快適とならべて有用を分類するのであるが、ここではこれらの語のニュアンスを問題としない。必要・有用・快適・贅沢これらすべては我々にとっては程度を異にする効用を意味するに過ぎない。
 
効用のある物はその量の制限せられている事実によって稀少となるのであるが、この結果として3つの事情が生れる。 
  1. 量において限られかつ効用のある物は、専有せられる。無用の物は、専有せられない。
  2. 効用があって量において限られた物は、価値がありかつ交換せられ得る。
  3. 効用があって量において限られた物は産業により生産せられ得る物であり、または増加し得られるものである。 
交換価値、産業、所有権、これらは物の量の制限すなわち稀少性によって生ずる3つの一般的事実であり、3つの系列または種類の特種的事実である。そしてこれら三種の事実が動く場面はすべての社会的富であり、また社会的富のみである。
 
●よって、交換価値稀少性に比例する。
 
以上のように、ワルラスは【個人の欲望に対する稀少性の上下】という視点から、【ねうち:効用】と【あたひ:価値】を考察しています。

2018年5月10日木曜日

C.メンガーの “価値”観

オーストリアの経済学者、C.メンガー(Carl Menger)もその著『一般理論経済学』(Grundsätze der Volkswirtschaftslehre,1923,八木紀一郎他訳,1982)の中で、商品の”効用”や”価値”について、次のように述べています(要旨)。


効用性とは・・・
「ある物が人間の欲望の満足に役立つという適正(Tauglichkeit)を示すことができるのは、もっぱら、その物の性質によってだけである。

けれども効用性(Nützlichkeit)というのは、何ら物の客観的な性質ではなくて(個体的もしくは種属的に)規定された事物の人間に対する関係すぎない。」

価値とは・・・
「価値は、財に付着したものでも、財の属性でもなければ、自立的な、それだけで存立している物でもない。

価値とは、具体的財が経済活動を行なう人々にたいしてもつ意義であり、この財がそれを獲得するのは、自分たちの欲望の満足いかんがその財(の支配)に依存していることを彼らが意識しているからである。
それゆえに、人間の意識の外には存在していない(後略)。」

価値とは、具体的な財または具体的な財数量が、われわれにたいして獲得する意義、自分の欲望を満足させることがこれらの支配に依存していることをわれわれに意識させることによって、それらがわれわれにたいして獲得する意義である。」

価格とは・・・
価格、いいかえれば交換において現れる財の数量は、たとえそれがわれわれの感覚に鮮明に訴えるために科学的観察のもっとも慣行的にとりあげられる対象をなしているにせよ、決して交換という経済現象にとって本質的なものではない

本質的なものはむしろ両交換者の欲望満足のための交換によってより良好な先慮がもたらされるということのうちに横たわっているのである。」

以上のように、メンガーは極めて主観主義的な「ねうち」観に立って、価値や価格は交換経済の本質的なものではないとし、アリストテレスからアダム・スミスに至る古典派経済学の【「あたひ=相等性」×「ねうち=相当性」】二元論を厳しく批判しています。

2018年4月30日月曜日

W.S.ジェヴォンズの“価値”観

マルクスは「価値」を「使用価値=ねうち」と「交換価値=あたひ」に分けたうえで、後者の方に比重をかけていきました。

これに対し、1870年代に欧州各地で台頭した「主観価値説(効用価値説)」では前者、つまり「使用価値=ねうち」の方に力点をおいた理論を展開していきます。

「主観価値説」とは、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガー、L.ワルラスがそれぞれ独自に創始した理論ですが、商品の価値はもっぱら消費者の主観的な評価である「効用(utility)に基づく、というものです。彼らの主張はどんなものだったのか、順番に見ていきましょう。

最初はイギリスの経済学者W.S.ジェヴォンズ(William Stanley Jevons)。その著『経済学の理論』(The Theory of Political Economy、1871)の中で、次のように述べています(要旨)。



➀商品は「効用」という性能を持つ。

「財なるものには、人の物質的生活に関係ある種々なる欲望を満足せしむるを得る性能(がある。中略)。換言すれば、財には人の欲望を満たすに足るだけの有用性ありて、然もそが人々に依りて認めらるるが為である。財の此の性能を『効用』といふ」(小田勇二訳、1922)

② 「効用」視点から見ると、「価値」という言葉には3つの意味がある。

  ⑴使用価値=全部効用(value in use = total utility)
  ⑵評価=最終効用度(esteem =final degree of utility=限界効用)
  ⑶購買力=交換比率(purchasing power = ratio of exchange)

③ 「価値」は「効用」に依存するのであって、「労働」に起因するものではない。

「価値はまったく効用に依存する(中略)。いまひろくおこなわれているかんがえは、効用よりはむしろ労働を価値の起源とするものであって、なかにははっきりと労働は価値の原因であると主張するものさえあるのである。これに反してわたしは、満足な交換の理論に到達するため、われわれがもっている財貨の量に依存するものとしての効用変動の自然法則を注意ぶかく追求すればそれでいい(後略)。」

「労働はしばしば価値を決定するものとみられるが、しかしそれはただ間接的なしかたによってのみ、すなわち供給の増加または制限を通じて財貨の効用度を変動させることによってのみそうなのである。」(岩松繁俊訳、1958)

以上のように、ジェヴォンズは「人間の要求から生じる物の状況」を「効用(utility)と名づけたうえで、従来の「使用価値」を「全部効用」、交換価値を「購買力」、そして両者の間で動く有用性の変化を「最終効用度」と、3つに分けています。

彼はこの立場から、スミス、リカード、マルクスなどの“価値”観を厳しく批判しています。

まさしく「使用価値=ねうち」論からの逆襲といえるでしょう。

2018年4月20日金曜日

マルキシズムの”価値”観

生誕200年でK.マルクスに注目が集まっています。

マルクスは商品の“価値”をどのように考えていたのでしょうか。

リカードの「投下労働価値」説を引き継いだマルクスは、その著『資本論』(Critique of Political Economy,1867~1894)で、次のように述べています(要旨)。



➀商品の価値には「使用価値(use-value)と「交換価値(exchange-value)がある。

②「使用価値」とは「人間の欲望をみたすもの」あるいは「人間が、その活動によって自然素材の形を人間に有用なように変える」ものである。

③使用価値は、あくまで潜在的なものであって、本物の「価値」ではなく、いわば「価値」の“素材”であり、それが他の物との交換可能性を生じて「交換価値」となった時、初めて本物の「価値」になる。

④空気、処女地、自然の草地や樹木などの自然物、あるいは自家消費用の生産物など明らかに「使用価値」を持つが、交換の対象とならない限り、本物の「価値」を持つことはない。

⑤それゆえ、「商品の交換こそが、商品を互いに価値として関係させ、価値として実現するのである」から、「商品は使用価値として実現される以前に、価値として実現されなければならない」のである。

⑥「価値を作り出す実体は、その物に込められた労働の量である」から、商品の交換価値は労働力によって決まる

⑦賃銀と交換されるのは労働ではなく労働力であり、労働力の価値の補填分を越えて労働が生み出す価値が「剰余価値(surplus-value)である。

以上のように、マルクスは「使用価値×交換価値」論の延長線上に、労働価値説に基づく「剰余価値」をおいて、これこそ「価値」の本質だ、と主張しています。

当ブログの立場でいえば、「ねうち=有用性=使用価値」と「あたひ=均等性=相当性=交換価値」を分けたうえで、「相当性=あたひ」の方に比重をかけ、あたひ」の本質を考察した、といもいえるでしょう。

「ねうち=有用性=使用価値」の方は「商品学に任せるなどとまで述べていますが、新たな経済学は間もなくその周辺から始まってきます。

2018年4月11日水曜日

A.スミスからD.リカードへ:価値=あたひ論は進展した!

A.スミスの「価値=あたひ」論は、どのような形でK.マルクスへ引き継がれていったのでしょうか。

A.スミスは、商品の有用性を「使用価値(value in use)と「交換価値(value in exchangeに分け、そのうえで、「労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度である」という「労働価値説(labor theory of value)を提唱しました(『富国論』1776)。

この「労働価値説」は、人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという学説ですが、もともとは17世紀にW.ペティによって主張されたものでした。





W.ペティは『租税貢納論』(A Treatise of Taxes & Contributions, 1662)の中で、商品の「自然価格」はそれに費やされる労働によって決まという視点を初めて提起しました。

この説を継承して、A.スミスは「労働こそは、すべての物にたいして支払われた最初の代価、本来の購買代金であった。世界のすべての富が最初に購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである」(『富国論』)と述べ、労働価値説を確立したのです。

しかし、スミスのこの見解には、2つの観点が混在していました。

一つは「あらゆる物の真の価格、すなわち、どんな物でも人がそれを獲得しようとするにあたって本当に費やすものは、それを獲得するための労苦と骨折りである」と表現されているように、商品の生産に投下された労働によって価値が決まる、という主張(投下労働価値説)です。

もう一つは、商品の価値は「その商品で彼が購買または支配できる他人の労働の量に等しい」という主張(支配労働価値説)です。

2つの労働価値説は40年後、D.リカードに引き継がれましたが、その著『経済学および課税の原理』(On the Principles of Political Economy, and Taxation、1817)において投下労働価値説」は肯され、支配労働価値説」は否定されています。

リカードは「商品の生産に必要な労働量と商品と交換される労働量は等しくない。例えば、ある労働者が同じ時間に以前の2倍の量を生産できるようになったとしても、賃銀は以前の2倍にはならない」と述べて、支配労働価値説は正しくない、と述べています。

これに代えてリカードは、資本の蓄積が始まってからも、道具や機械に間接的に投下された労働量と直接に投下された労働量の合計によって商品の価値が決まる、という見解を示しています。

リカードの投下労働価値説は半世紀後に、K.マルクスに引き継がれ価値=交換価値」説となっていきます。

こうして経済学の本流では、「価値=あたひ」論が主流となり値=直=ねうち」論の方は後回しにされました

2018年3月31日土曜日

アダム・スミスも分けていた!

古代ギリシア以来の「有用性・均等性」論は、中世のスコラ哲学を経て、18世紀にイギリスの経済学者A.スミスへと引き継がれました。

スミスは1776年にその著『富国論』(『諸国民の富』大内兵衛・松川七郎訳、岩波文庫版『富国論』)の中で、「価値(value)ということばには二つの異なる意味がある」と述べています。





一つは「ある特定の対象の効用(utility)を表現し、もう一つは「その特定の対象を保有することによってもたらされるところの、他の財貨に対する購買力(power of purchasing other goods)」を意味しています。

そこで、前者を「使用価値(value in use)」、後者を「交換価値(value in exchange)と名づけました。

両者の違いを説明するため、スミスは水とダイヤモンドをとりあげ、「水ほど有用なものはないが、それでどのような物を購買することもほとんどできない」のに対し、「ダイヤモンドはどのような使用価値もほとんどないが、それと交換できるきわめて多量の財貨をしばしばえることができる」と述べています。

水の使用価値は極めて高いけれども交換価値は低く、ダイヤモンドの使用価値はかなり低ものの交換価値は高い、ということです。

その理由として「交換価値の実質的尺度とはどのようなものであるか」と問いかけ、ある商品の交換価値とは「その商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい」から「労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度である」と述べています。

ダイヤモンドの交換価値が高くなるのは「希少性」、つまり「それをかなり大量に収集するためには多量の労働」が必要であるからだ、というのです。

これこそ「交換価値は労働に準拠する」という、古典派経済学の「客観価値説(労働価値説)の原点となった理論です。

売り手・買い手という立場から「価値」を見て、人間の労働が「価値」を生み、労働が商品の「価値」を決める、という発想であり、スミスからD.リカードを経てK.マルクス、さらには近代経済学にまで至っています。

こうした理論を生活学の立場から見ると、「ねうち・あたひ」論を「有用性=使用価値・相当性=交換価値」論に置き換えたということであり、「あたひ=相当性=交換価値は労働の量から生まれる」という方向へ、価値論の重点が移されています

いいかえれば、一人の人間にとっての「ねうち」よりも、他人と交換する時の「あたひ」の方に重点が移行している、ともいえるでしょう。

さらにいえば、西暦200年代に中国で使われた「價直」の、「價=あたひ」と「直=ねうち」の二重性がほぼ1500年後のイギリスにおいて再認識された、ともいえます

あたひ=價」論を中心にして古典派経済学が成立し、マルクス経済学から近代経済学へと発展してくるという経済学の立場はそれなりにわかります。

 
だが「ねうち=直」論のほうは、一体どうなってしまったのでしょうか

2018年3月21日水曜日

アリストテレスは分けていた!

大和言葉では「ねうち(有用性)と「あたひ(相当性)に分かれていた「ありがたみ」という観念は、仏教や西欧思想の流入によって「價値(価値)」という翻訳語に吸収され、「有用性+相当性の二義性を持ったまま、現代日本語の中へ定着しています。

それでは、西欧においても、両者は混合して使われていたのでしょうか。

西欧思想の一つの源、古代ギリシア哲学を振り返ってみると、必ずしも混合されているわけではなく、大和言葉と同じように分けられていました。




例えばアリストテレス(B.C.384年~B.C.322年)は、『ニコマコス倫理学』の中で、「財貨(χρήματα:クレーマタ)とはおよそその価値(Αξία:アクシア)が貨幣によって測られるものの謂いである」という表現を使いながらも、『政治学』(第1巻第9章)では、「財産の獲得術」の前提として、次のように述べています。

「物には各々二通りの用途がある。二通りの用途とは、いずれも物をそれだけで使う場合でも、その使い方が違っており、一つの用途はそのもの本来の用途で使うこと、もう一つはそうではない使い方をすることだ。例えば、靴は足に履くために使う別の物との交換に使うこともある。つまり靴には二通りの用途があるのだ。」

二つの用途について、『ニコマコス倫理学』の中では、「有用(χρήσιμος:クリシモス)」と「均等(ίσος:イソス)」という言葉を与え、次のように説明しています。

有用」とは「それによって何らかの善または快楽が生ずるところのもの」であり、「均等とは「(二人の取引者が)交換を行なったあげくにこれを比例に導くもの」である、と。

こうしてみると、古代ギリシアでも、様々な事物の「ありがたみ」については、「有用性」と「均等性」の2つの形があることが明確に理解されていた、と思われます。

その区別は、時代が下る中で、どのように変わっていったのでしょうか。

2018年3月10日土曜日

幕末~明治初期には「價直」と「價値」が混在!

江戸時代に蘭語や英語から翻訳されて普及したと思われる「價値」という言葉は、幕末から明治時代初期になると、また「價直」へ戻っています。

幕末の文久2年(1862年)、幕府の通辞・堀達之助が編纂した、日本初の本格的な刊本英和辞典『英和対訳袖珍辞書』では、「value」を「價直(かち)」と訳して、「價値」から「價直」へ戻しています。

この時代、「直」という漢字は「値」と同義語と見なされ、「ちょく」ではなく「ち」と読まれており、その意味するところも、翻訳語として「有用性+相当性」を示していた、と思われます。

明治維新後の明治2年(1870年)、明治政府の官僚・若山儀一と箕作麟祥が、アメリカの経済学者A.L.ペリーの” Elements of Political Economy”を共訳した『官版経済原論』でも、「value」は「價直」と訳されており、維新後も「價直」が使われていたようです。

ところが、明治6年(1873年)に出版された、『経済新説』や『経済入門』になると、再び「價値」が復活しています。

経済新説』は社会学者で翻訳家の室田充美がフランスの経済学者J.B.Say派の著作を、また『経済入門』は司法省翻訳官の林正明がイギリスのM.G.フォーセット夫人の政治経済学入門書"Political Economy for Beginners"をそれぞれ訳したものです。

これが定着したのか、明治15年(1882年)に通訳の柴田昌吉と子安峻が編纂した、わが国最初の活字印刷による英和辞書『英和字彙・増補訂正改訂二版』でも、「value」を「價格、價値、位價、貴重、緊要、算数、同数」と訳しています。

この訳語の意味では、貴重・緊要=「有用性」と、価格・同数=「相当性」が完全に混合されています。

そして、2年後の明治17年(1884年)に大蔵省翻訳局の石川暎作と瑳峨正作が訳した、イギリスの経済学者A.スミス『富国論』(”An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations”,1776年)では、「value」は「價値」と訳されて、経済学でも「價値」という表現が定着したようです。


以上のような経緯を振り返ると、大和言葉ではねうち(有用性)」と「あたひ(相当性)に分かれていた、「ありがたみ」を示す言葉は、翻訳語の「價値」という言葉の受容によって「有用性+相当性」の二義性を持ったまま、明治初期から現代日本語の中へ定着したものと思われます。

2018年2月27日火曜日

江戸中期には「價値(かち)」へ変わった!

江戸時代に入ると、「價直(げじき・かちょく)という言葉は、約200年前に移入してきた欧州語の翻訳語として「價値(かち)」という言葉に置き換えられました。

最初の蘭日辞典波留麻和解』(寛政8年=1796年)では、「waarde(ワアルデ)」の訳語として「價値」が与えられ、「高價」「利潤」も併記されています。

この辞典は、長崎通詞の西善三郎が着手し、その後、蘭学者の稲村三伯、宇田川玄随、岡田甫説らによって編纂されたものです。

18年後に出た、最初の英和辞典諳厄利亜語林大成』(文化11年=1814年)でも、「value(ヘルユー)の訳語が「價値」とされています。

この辞典は、和蘭・和英通辞の本木庄左衛門(正栄)を中心に、同じく通詞の馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保らが編纂した、日本初の英和辞典です。


蘭語の「waarde」も、英語の「value」も、ともに原語の意味には「相当性」と「有用性」の両方が含まれています。

このため、翻訳語の「價値」もまた「あたひ+ねうち」、つまり「相当性+有用性」の二義性を持つことになりました。

なぜ「直」が「値」に変わったのか、詳しくはわかりませんが、「直」の字が「十:正面、まっすぐ」+「目:見る」+「―(線)」を組み合わせて「線をまっすぐ見る」ことを表すのに対し、「値」の字では「亻:人」が「線をまっすぐ見る」ことになりますから、「ねうち」よりも「あたひ」にやや近づくからかもしれません。

いずれにしろ、江戸時代の人々もまた、大和言葉の持っていた、「あたひ」と「ねうち」の区別を捨て、両者の複合化した「價値」を使うようになっていたのです。

2018年2月18日日曜日

中国から漢字「價直(げじき・かちょく)」が渡来した!

中国大陸から日本列島へ漢字が渡来したのは、古くは1~2世紀といわれています。とりわけ7世紀に遣隋使が派遣されて以降は、仏教文化律令制度などの渡来に伴って、大量の漢字が日本へ輸入されました。

そこで、「役に立つか否か(有用性)」や「あい対するかどうか(相当性)」という観念についても、漢字が使われるようになったのです。

幾つかの事例を振り返ってみると、すでに古墳時代から「價直」という漢字が導入され、「げじき(呉音)あるいは「かちょく(漢音)と発音されていたようです。


例えば、5世紀初頭に受け入れられた『妙法蓮華経(法華経)』には、「即解頸衆宝珠瓔珞。價直(げじき)百千両金」(首にかけていた、美しい宝珠の首飾り、百千両に相当するものを外して)と書かれています。

また7世紀初頭に渡来した『根本説有部律』にも、「白拂價直(げじき)百千兩金」(百千兩金のあたひの白い払子=ほっす)と記されています。

平安~鎌倉時代(8~14世紀)になると、「價直」は渡来の仏典だけでなく、日本の文献でも使われるようになりました。

8世紀末の『続日本紀』(延暦16年=797年)には、「天平元年、孟春正月、(中略)宜給京及畿内官人 已下酒食價直(かちょく)(酒食相当が支給される)と書かれています。

11世紀の『私聚百因縁集』(正嘉元年=1257年)には、「東城国送るに價直(かちょく)浮檀金(えんぶだんごん=砂金金)の百億両と云ふ」との表現が見られます。

このように漢字が導入されて、仏教界や大和政権から一般庶民へと普及していく過程で、「相当性」という観念は「價直(げじき、かちょく)」という言葉で表されるようになりました。



しかし、字源を辿ってみると、「」は「亻:人」+「西:うつわ」+「貝:貨幣」が組み合わされた文字であり、「器の中に入った貨幣を人が持つ」状態を表していますから、「価格」、つまり「あたひ」を意味しています。

一方、「」は「十:正面、まっすぐ」+「目:見る」+「―(線)」を組み合わせた文字で、「線をまっすぐ見る」ことを表しており、これは「ねうち」に近い観念と思われます。

とすれば、「価直」という漢字は「真っすぐ見たそのもの」に「価格をつける」、つまり有用性」と「相当性」の複合化を意味する言葉ということになります。

ところが、古代日本において「」の字が「あたひ/あたへ」と読まれたことから、「あたひ」に相当する言葉となってしまいました。字源の意味する「ねうち」が「あたひ」に置き換わったのです


以上のような推移から考えると、「價直」という漢字は、「あたひ」と「ねうち」を統合した便利な言葉として日本人に受け入れられたものと思われます。

だが、便利さゆえに、大和言葉で分けられていた「ねうち」と「あたひ」、つまり「有用性」と「相当性」の区別は曖昧にされてしまった、ともいえるでしょう。

2018年2月8日木曜日

生活民はアタヒよりネウチを重視!

日本列島に住み着いた人々は大和言葉で、モノの「役立ち」度(有用性)を「ねうち」という言葉と「あたひ」という言葉で、大きく分けてとらえてきました。

当ブログで展開してきた生活学から見ると、「ねうち」の方が「あたひ」よりもずっと大事だ、というのが基本的な立場です。

例えば「
生活者」を提唱した大熊信行は、その人間像を「(生活の基本が)自己生産であることを自覚して」、「営利主義的戦略の対象としての、消費者であることをみずから最低限にとどめよう」とする人々、と定義しています。

「自己生産」で生まれる有用性とは「ねうち」であり、「営利主義的戦略」の基本は「あたひ」ということになります。

また「
生活人」を提唱した今和次郎も、生活人とは「これまでのような没個人的な倫理のうつろなお題目に幻惑されることなく、外回りの倫理でかっこうだけをつけさせようとあせることなく、日常生活を通じての自己生活の倫理」を高めていく人格、と述べています。

「自己生活の倫理」とは「ねうち」を意味していますし、「外回りの倫理」とは「あたひ」重視を示している、といえるでしょう。

そこで、「
生活民」を提唱する当ブログでは、生活民とは「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility)」を求める主体である、と明確に述べてきました。

私効」とはまさに「ねうち」であり、「価値」とは「あたひ」に相当しますから、生活民とは「あたひ」よりも「ねうち」を求める主体ということになります。  

しかし、現在の日本では「ねうち」と「あたひ」はほとんど混合され、「価値」という言葉で通用しています。

そればかりか、「価値創造」とか「顧客価値」というように、プラス用語としても重視されています。

どうしてこのようになったのか、日本と世界の「有用性」史観を振り返ってみたいと思います。 

2018年1月31日水曜日

生活民の求めるネウチとは何か・・・

生活民は自らが生きていくために、衣食住などの生活分野で、さまざまな有用性を求めています。この有用性は、どのように計られているのでしょうか

生活民がモノに感じる有用性とは、個人として感じる感情が基本です。利用したモノに対して「どれくらい役に立ったか」を示す感情の高低です。

この高低を、私たち日本人、日本列島に住む生活民は、古くから大和言葉を用いて「ねうち」とよんできました。

「ねうち」という言葉は「ねうつ」、つまり「音(ね)を打つ」ことに由来しています(日本語源大辞典・小学館・2005)。

真夏になると、私たちは西瓜をポンポンと叩いて、食べごろを推し量ります。モノの音(ね)を聞いて、モノの有用性である美味しさを推測しているのです。

とすれば、「ねうち」とはモノ自体に付随している有用性を意味しています。

生活民自身にとっては、これで十分なのですが、他人に話したり、差し出すとなると、その高低を他のモノと比べられる方がと好都合です。

そこで、もう一つ、「あたひ」という言葉を使います。

「あたひ」は「あた(当)あひ(合)の省略されたものですで、二つ以上のモノを「突き当て」たうえで、それらが「見合っているか」を考えることです(同上)。

西瓜と茄子を交換する場合、西瓜一つに茄子は何本が見合うか、という判断です。

この場合は、2つ以上のモノの「ねうち」の比較、つまり「ねうちの相当性」を意味しています。

以上のように、大和言葉でも、モノの有用性については「ねうち(有用性)あたひ(相当性)を分けて使ってきました。


このブログで述べてきた
生活体の構造でいえば、図に示したように「ねうち(有用性)」は縦軸の上下であり、「あたひ(相当性)」は横軸の左右ということになります。

有用性につきまとう、この二面性が、生活民から生活者や消費者、さらには生産者へと、生活世界が拡大していくにつれて、さまざまな問題を引き起こします

2018年1月21日日曜日

虚構享楽行動への対応方向とは・・・

生活民の差戯化行動とは、個々の言葉の意味とその対象の関係を積極的にずらしていこうとする虚欲に基づいて、言葉の示す目標を意識的に緩め、自らの行動をあえて弛緩させ、遊びや解放を味わおうとするものです。

この行動には、言葉の持つ規範性を外そうとする行動(言語―感覚軸)と、言葉の虚構性に戯れようとする行動(個人―社会軸)の、2つに大別されます。

虚構性に積極的に戯れようとする行動には、個人次元でいえば息抜きのための遊戯や遊興など、社会次元でいえば大衆的なスポーツやエンターテインメントなどがそれぞれ該当します。




2つの行動分野に対しては、供給側からはこれまで、次のようなマーケティング活動が行われてきました。

①息抜きのための遊戯や遊興に対する戯化・模擬戦略・・・


仮面遊びや着せ替え遊びなどの虚構ルールへ私的に戯れようとする「私戯」戦略を基盤として、娯楽やレジャーなど日常的な虚構を実行しようとする「戯化」戦略や、映画、演劇、音楽、美術など私的な虚構空間を集合的に提供しようとする「模擬」戦略が実施されています。

生活民がこれらの行動を求めるのは、言葉が作り出す、ウソとマコトの二重性を積極的に味わうため、ウソ機能に没頭することで、マコト機能をリフレッシュしていこうとする
虚欲に基づいています。

とすれば、関連する商品やサービスには、単純な虚構提供を超えて、言葉の虚構性を再認識させつつ、真実の曖昧性を再認識させていくような、より大胆なリフレッシュ機能が求められるでしょう。


②大衆的なスポーツやエンターテインメントに対するゲーム・競争戦略・・・


ギャンブルやくじなどの虚構ルールへ私的に挑戦しようという「賭け」戦略を基盤として、囲碁や麻雀などの虚構ルールへ日常的に戯れる「ゲーム」戦略や、競技や競演など虚構ルールへ集団的に戯れようとする「競争」戦略が実施されています。

生活民がこれらの行動を求めるのは、建前としてのマコトが圧倒的に支配している社会空間を見直し、ウソとマコトの二重性を再確認して、社会構造の曖昧性を実感したいという
虚欲のためです。

こうした願望に関連商品・サービスがこれに応えていくには、実体的な生活行動や経済活動の次元を超えて、虚構的な生活行動や経済活動もまた成り立つものであることを、賭け・ゲーム・競争などのシミュレーション体験の中で再認識させるような仕組みが求められるでしょう。

以上のように、生活民の虚構享楽行動に対しては、遊び体験を通じて、言葉の持つウソ・マコトの曖昧性を改めて認識させるような対応が必要になるでしょう。

2018年1月10日水曜日

規範離脱行動への対応方向とは・・・

生活民の差戯化行動は、言葉の持つ規範性を外そうとする行動(言語―感覚軸)と、言葉の虚構性に戯れようとする行動(個人―社会軸)の、2つに大別されます。

前者の、規範性を敢えて外そうとする行動には、日常生活での目標や規律を外した弛緩や緩和などが、また経済生活での節約や貯蓄を無視した浪費や乱費などが該当します。





2つの行動分野に対して、供給側からはこれまで、次のような戦略が行われてきました。

①弛緩・緩和行動に対する虚脱・混乱戦略・・・


陶酔、酩酊、トランポリンなど虚構空間の中で錯乱状態を求める「めまい」戦略を基盤に、温泉や気晴らし旅行など体感次元の発散を求める「虚脱」戦略や、遊園地やカーニバルなどの設備で集団的に虚脱空間を作りだす「混乱」戦略などです。

生活民がこれらの行動を求めるのは、固定した日常生活の枠組みを一旦外し、生まれたままの時点に立ち戻り、新たな視点からそれぞれの暮らしを再構築していこうとする願望のためです。

とすれば、関連する商品・サービスには、単純な弛緩・虚脱機能に加えて、柔軟かつ刺激的な再生・リフレッシュ機能が求められるでしょう。

②浪費・乱費行動に対する浪費・蕩尽戦略・・・


私的な生活次元での無為や惰性などを楽しませる「怠惰」戦略を基盤に、無駄づかいや蕩尽などの「浪費」戦略や、冗費や乱費やなどの蕩尽」戦略などです。

生活民がこれらの行動を求めるのは、日常的な経済生活のしがらみを一旦脱し、金銭にとらわれない、素朴な視点に立ち戻って、それぞれの暮らしを見直していこうとする願望のためです。

このため、関連する商品・サービスには、一時的な浪費・虚脱機能に加えて、私的な生活資源を再構築するための発想や契機を、新たに醸し出す機能が求められるでしょう。

以上のように、生活民の規範離脱行動に対しては、迎合的な弛緩・緩和・浪費・蕩尽提供に加えて、覚醒・再生・リフレッシュなどの刺激提供が必要になると思います。