2018年10月9日火曜日

マーケティングは何を破壊したのか?

ながながとモノへの評価観を見直してきたのは、「マーケティング」という社会的装置の問題点を根本から見直してみたいからです。

例えば、現代フランスを代表する思想家、B.スティグレール
(Bernard Stiegler)は「マーケティングは、家族構造や文化構造といった象徴制度をなしくずしに破壊してきた」と告発しています(『世界』2010年3月号)。・・・【
差異化手法を批判する:2016年2月11日】

さらに彼は、マーケティングの横行によって、「個々が得意な物やその特異性に感覚的に愛着を持つということができなくなった」とし、「象徴の生産に参加できなくなって、個体性』が衰退していく」とも述べています(『象徴の貧困』)。

スティグレールの批判を、これまで述べてきた「共効―個効―私効」の文脈に載せてみれば、社会的な「共効」が肥大化して、個人的な「私効」を駆逐した、あるいは供給側の差し出す「共効」に圧倒されて、需要側の「私効」創造力が衰退した、ということになるでしょう。

このようなスティグレールの告発は、単なるマーケティング批判を超えて、現代市場社会、あるいは後期資本主義社会本質的な欠陥を指弾している、ともいえるでしょう。

現代の市場社会とは、供給者と需要者の両方がほとんどの全ての生活財を、市場という社会的な場を通じて交換するという構造を持っているからです。

供給者である企業は、市場の存在を前提にして、商品の有用性を作り出し、かつ供給しています。


その有用性とは、市場を支える多くの需要者が共通して求める、社会的、共同主観的なものですから、いうまでもなく「共効」です。

つまり、商品の「共効」とは、多くの需要者が共通して商品に求める有用性、いわば有用性の〝最大共通素〟とでもいうべきものです。

需要者である個人は、通常はそれらの「共効」に従って商品を購入し、そのとおりに使用して「個効」を享受しています(ヰティリゼ1)。

だが、そうでないケースもあります。個性や独創性を重んじる個人の場合は、純個人的、主観的な「私効」を目的に、既存の商品を購入したうえで、自分なりの手法で使用します(ヰティリゼ2)。

後者の場合、一つの商品の有用性は、市場での最大共通素を前提にしながらも、その中から個人的、主観的に選ばれています。

この時、個性的な需要者が商品に求めるものは「私効」ですが、それは有用性の“最小共通素〟となる場合が多いでしょう。なぜなら、彼らは自分自身の求める有用性の〝最小要素〟を求めて商品を購入し、それらを独自に組み合わせて使いこなしていくからです。

こうした需要が増えてくると、供給側でもそれに対応して、できるだけ多くの人に共通する〝最小要素〟を商品におりこむようになります。

となると、一つの商品の持つ「共効」と「私効」には微妙なズレが出てきます。



企業の側では、できるだけ多くの顧客の求めに共通する有用性を抽出して、商品の「共効」を作り出そうとします。

これに対し、純個性的な個人の側ではできるだけ自分だけの有用性を求めて、商品の「私効」を購入しようとします。



両者は当然重なっていますが、本質的にいえば、最大共通素と最小共通素がぴったり一致するのはごくなことでしょう。

そこで、企業は少数需要者の「共効」の一部を切り捨てることで大量生産を可能にし、また個人は自分なりの「私効」をある程度犠牲にすことで、己の消費行動を実現していきます。

ところが、現代のような高度市場社会では、先に述べたように、ほとんど全ての生活財が生産者の手で生産され、市場を通じて供給されていますから、需要側に立った生活民の一人ひとりは生産側の「共効」に従わざるをえません

つまり、現代社会では、市場性が私用性に優越し、最大共通素が最小共通素に優越し「共効」が「私効」を圧倒しているのです。そこに現代市場社会の、基本的な問題点があるといえるでしょう。

2018年9月29日土曜日

「限界効用」の限界!

3つの効用を、新古典派経済学の「効用」観と比較してみると、「共効」は一定の社会集団が共通に認めた有用性ですから「全部効用」に、また「個効」は個人が共効に基づいて認め、かつ実際に感じる有用性ですから、概ね「限界効用」に、それぞれ相当するでしょう。

しかし、「私効」は個人が社会的な「共効」とはまったく別個に、純私的かつ独創的に認める有用性ですから、新たに「生成効用」、あるいは「独創効用」とでも名づけるべきものです。

とすれば、同じ個人的な「効用」ではあっても、「個効(限界効用)」と「私効(生成効用)」の間には大きな差異が生まれてきます。

この件については、すでに【
限界効用理論を超えて!】( 2015年10月22日)の中で論じていますが、改めて整理しておきましょう。

個効」は新古典派経済学の「限界効用」にほぼ相当していますから、「全部効用(共効)」という有用性に従いつつ、利用の数が増えることによって個々のモノの有用性が次第に減少していく、という特性を持っています。

それゆえ、効用の量的、時間的な変化においては「全部効用」との差を強調していますが、中味の差、つまり質的な差異についてはまったく配慮していません。

一方、「私効」の方は、個々のモノの中に、使用者が共効とはまったく別の有用性を見つけ出し、自ら生成しつつ愛着を増していくという、能動的な特性を持っています。

これは「全部効用」や「限界効用」とは異なる、質的な差異を意味していますから、必ずしも時間的な逓減傾向を示すものではなく私人の評価や気分によって増えたり減ったりするものです。

その意味で「私効」は「限界効用」という共同主観を超えて、個人主観的な「生成効用」の次元を表出することになります。

いいかえれば、共同主観的な経済学の「効用」観を超えて、新たに個人主観的な生活学の「効用」観を提起しているともいえるでしょう。


大和言葉でいえば、「とも(共)きき(効)」「おの(己)きき」を超えて、「われ(我)きき」が生まれるということです。

もしさまざまな供給者が、このような「私効(生成効用)」を生活民に提供しようとするのであれば、従来の「限界効用(個効)」を前提にした経済学やマーケティングの諸理論を大きく超えて、まったく新たな展開が期待できるでしょう

2018年9月21日金曜日

「効用」とは何か・・・3つの定義

「価値」の定義には3つある、と述べてきましたが、共同主観と個人主観という視点から見ると、「効用」にも3つの定義がある、と言えそうです。

①人間集団が一つのモノを評価する場合、そのもの特有の「有用性=効用=ねうち」という視点と、他のモノと比較するという「相当性=価値=あたひ」という視点の、2つを分けたうえで、両者をクロスさせている。

特定の社会集団は、さまざまなモノの「相当性=効用」を、他のモノの「相当性=効用」と比較して、一定の評価順位である「価値」を定めている。

個人が一つのモノを評価する場合、社会的な「効用」に従って使う場合は「効用1(有用性1)に、独創的な使用を編み出す場合は「効用2(有用性2)になる。

このため、「効用=ねうち」という概念はさらに3つ分かれます。

共効Social Utility・・・ラング=社会集団が共同主観として認めた有用性であり、「共同効用」、略して「共効」とよぶことができる。

個効Individual Utility・・・パロール1=個人使用において、個人が社会的効用を受け入れた「効用1(有用性1)」であり、「個人効用」、略して「個効」とよぶことができる。

私効Private Utility・・・パロール2=私的使用において、個人が独自に創り出した私的な「効用2(有用性2)」であり、「私的効用」、略して「私効」とよぶことができる。

この件については、すでに[生活民は「価値」よりも「私効」を重視!](2016年11月22日)などで詳しく述べています。ご参照ください。


以上のように、効用」という概念は、「共効」「個効」「私効」の3つに分割できる思います。




具体的な事例を挙げておきましょう。

食酢の効用・・・「共効」は基本的な調味料であり、多くの使用者はこれを「個効」として、料理の味付け使っています。しかし、一部の人たちは、幾分水で薄めたり、大さじ1~2杯をそのまま洗濯機へ投入し、洗濯ものをふっくらしあげる柔軟剤としても使っています。これは私人が新たに見出した食酢の新たな「ねうち」であり、まさに「私効」とよぶべき有用性でしょう。

冷蔵庫の効用・・・電気冷蔵庫は、食べ物や飲料を保管できるという「共効」を持ち、それを利用する使用者は実際に冷やすという「個効」を享受しています。しかし、ワンルームマンションなどを実態観測すると、冷蔵庫の中には薬品化粧品はもとより、銀行通帳現金まで、食べ物以外のさまざまなモノが入っています。冷凍庫に生ごみ入っているケースもあります。回収日が決まっているため、ゴミ箱では悪臭が立ちますから、冷凍したうえでまとめて捨てる、という生活の知恵です。狭い部屋の中で合理的な収納を望む単身者にとっては、「総合保管庫」や「冷凍ゴミ置き場」などという、大胆な「私効」にかわっているといえるでしょう。

このように「価値」の3定義を見直していくと、「効用」にもまた3つの定義が浮かんできます。

2018年9月10日月曜日

「価値」とは何か・・・3つの定義

これまで述べてきたことを、とりあえず整理してみましょう。

モノやコトの「価値」とは何であるのか、簡単にいえば「人間がモノやコトに対して抱く評価」ですが、その内容については幾つかの説があり、代表的なものは次の3つに集約されます。



①価値とは、有用性と相当性が絡み合った観念、つまり「有用性(使用価値)×相当性(交換価値)」である。

最も常識的な定義であり、古代ギリシャ以来の西欧的「価値」観、あるいはそれを継承・発展させたA.スミスの視点は、このあたりにあったように思われます。

日本人の場合、古くは「ねうち=有用性」と「あたい=相当性」を分けていたようですが、江戸時代に流入してきた西欧的な「価値」観に影響されて、それ以降は両者の複合した観念を受け入れたものと思われます。

②価値とは「相当性(交換価値)を意味する。

モノやコトへの評価を、有用性(使用価値=効用)と相当性(交換価値)に分けた上で、価値とは「相当性(交換価値)」だけだ、という立場です。

スミスを継承したD.リカードK.マルクス客観価値説がこの立場ですが、とりわけマルクスは、「価値」の本質は相当性にあり、有用性その素材にすぎない、と考えています。

言語学者のF.ド.ソシュールも、言葉の「価値」を言葉の「語義」と峻別して、相当性こそ「価値」だ、と述べています。但し、マルクスが「価値」の本質を交換尺度となる労働量の蓄積とみているのに対し、ソシュールは単語やモノの、単なる対立的な関係であり、社会的集団が認めた区分と考えています。

③価値とは「有用性(使用価値=効用)を意味する。

価値の本質は、人間がモノやコトに対して抱く評価内容(効用)そのもの、という立場であり、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガーL.ワルラスらが独自に唱えた主観価値の主張です。

ジェヴォンズによれば、「価値」という言葉は曖昧であるから、モノへの評価の中から購買力=交換比率、つまり相当性を排除し、そのうえで、使用者の立場から見た、モノの有用性のみ抜き出して、改めて「効用」という名称を与えています。

この立場を引き継いだ主観価値説では、「効用」とは個人がモノに感じる、主観的な評価である、というのが定説です。



 
3つの主張は「価値」という言葉の曖昧性をどのように取り扱うか、という立場の違いを示しています。

しかし、この言葉はもともと、有用性と相当性の複合した観念を意味しており、それがゆえに現代社会でもこの両義性が一般用語として生き残っています。

とすれば、やはり原点に立ち戻って、「有用性×相当性」と理解するのが適切なのかもしれません。

つまり、「新たな価値を持った商品」という場合も、その「価値」とは「新たな有用性を持つこと」とともに、「その有用性が従来の商品や他の商品より優れている」という要件を満たしていることが必要だ、ということです。

当たり前のようですが、実はここに重要な条件が潜んでいます。つまり、新しい「価値」が生れるためには、新規の有用性に加えて、比較の対象になる、一群のモノ集団が必要だ、ということです。

そして、もう一つ、新しいモノが従来のモノや他のモノより優れていると評価できるためには、一人ひとりの個人的評価を超えた、一定の社会集団の評価が必要だ、ということです。

一人の人間が「これは有用性が高い」と評価しても、多くの人々が認めなければ、「優れている」という相当性は定着しません。

つまり、有用性も相当性も、一定の社会集団によって認められることが必要なのです。それは、社会という人間集団が共通して抱いている、特定のものの見方、社会学が「共同主観」とよび、通俗的には「共同幻想」といわれているものです。

主観価値説では、個人がモノに感じる主観的な評価を「効用」とよんで、共同主観や客観を重視していません。しかし、個人が感じる「効用」自体もまた、ほとんどの場合は、一定の社会集団が認めた「有用性=効用」を受け入れているケースが多いのですから、完全な個人的主観に基づいている、というのはやや無理があるでしょう

そう考える時、「価値」が生れるには、モノ集団と人間集団という、二重の「集団」が前提になっている、といえるでしょう。

2018年8月29日水曜日

社会的な「ねうち」と純私的な「ききめ」を峻別する!

前回述べたように、私たちは毎日の暮らしの中で、一方ではパロール1によって他人とのコミュニケーションを成り立たせ、他方ではパロール2によって詩や散文などの創造活動を行っています。

パロール2は極めてマイナーな用法ですが、それでも社会的に流布し集積させることで、やがてはラングそのものを変革していくこともできます。

こうした関係は、言葉の使用法の延長線上に生まれる、道具や食べ物などの使用法と当然連動していますから、下図に示したような対応が成り立ちます。




 
どのような対応なのか、説明しておきまましょう。

①言語(ランガージュ:language)で作られた「コト界」と道具(ヰセージュ:usage)が通用している「モノ界」は上下に対応しています。

②コト界で社会的な「語義」に従って話す「パロール(parole:会話)1」は、モノ界では社会的な「使用価値」に従ってモノの「効用1」を使う「ティリゼ(utiliser=使用)1」に対応します。


③コト界で新たな「意味」を創造しながら話す「パロール2」は、モノ界で純個人的に独創的な「効用2」によってモノを使う「ヰティリゼ2」に、それぞれ相当します。

以上のような対応によって、パロール1における「意味1」とパロール2における「意味2」の関係は、「ヰティリゼ1」における「効用1」と「ヰティリゼ2」における「効用2」の関係に変換できます。

つまり、私たちは一つのモノを、一方では社会的な習慣や先例に基づく「効用1」、つまり「ねうち」として使っています。

しかし、もう一方で、私たちは自らの工夫やアイデアを加えた「効用2」としても使用することができ、その使用法が広がることによって、社会的な「効用1」を変革していくこともできる、ということです。

効用=ききめ」とみなせば、「効用2=ききめ2」を独創することによって、効用1=ききめ1」=「使用価値=ねうち」もまた変革できることを意味しています。

以上のように、言語学、とりわけソシュールの言語学を応用すると、モノに関わる3つの評価、つまり社会的な「使用価値=ねうち」や「交換価値=あたひ」と純私的な「効用1=ききめ1」や「効用2=ききめ2」の関係を明確に表すことができます。

同時に、大和言葉における「ねうち」「あたひ」「ききめ」の違いもまた、明らかにすることもできるでしょう。

2018年8月19日日曜日

言語学で「ねうち」と「ききめ」の違いを探る!

ソシュールの言語学の視点に立つと、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係であり、両方とも一定の人間集団によって認められたもの、ということになります。

ところが、有用性には人間集団の認知や共同主観がなくても、一人ひとりの個人が独自に認めるという次元があります。一人ひとりの個人にとっての「有用性」、つまり「効用=ききめ」の方はどのように位置づけられるか、という問題です。

経済学の視点を超えて、言語学の「価値」観をあえて紹介したのは、これを説明するためです。

言語学の視点を広げていくと、「効用」には共同主観的な次元だけでなく、純個人的な次元があり、両者のダイナミックな関係が、やがて有用性の中身を革新し、さらには社会そのものも変革していく可能性が見えてきます。

どういうことなのでしょう? ソシュールを継承した言語哲学者・丸山圭三郎は言葉の示すイメージについて、「意義(signification)」と「意味(sens)」の違いを指摘しています(『ソシュールの思想』)。「意義」という訳語は、先に述べたように、近年では「語義」と訳されていますから、ここでも「語義」を使うことにします。

その「語義」と「意味」はどう違うのか。「語義」とは、一つの言葉が辞書や文法といったラング(langue)の中で使われる場合であり、「意味」とは、それが個人的なパロール(parole)の中で使われる場合です。



ラングというのは、日本語、英語、フランス語など、それぞれの言語圏に属する人々が歴史的に共有している社会制度、共同主観です。この制度の中では、文法と辞書で示されているように、一つの言葉の語義と用法が、共同体の伝統と慣習によって、一定の範囲に定められています。

他方、パロールというのは、個々人がラングを使って実際に行なっている言語活動です。丸山先生によると、このパロールにも、既成のラングに忠実に基づいて会話する経験的使用」=パロール1と、ラングを使って全く新たな関係を作りだす「創造的使用」=パロール2の、2つのケースがあるようです。

他人とコミュニケートするには、互いに意味や用法を共有している言葉を使うのが便利ですが、私的なメモや日記、あるいは独創的な詩歌や創作を書くには、自分だけに通じる意味や用法も許される、ということです。

それゆえ、2つのケースによって、個々の「言葉」の意味もまた変わります。パロール1では「語義」の比重が多い「意味1」となり、パロール2では独創的な内容の比重が濃い「意味2」となります。

この差異、つまりコト次元の「意味1」「意味2」の差が、モノ次元の「ねうち」と「ききめ」の違いを創り出すのではないでしょうか?

2018年8月10日金曜日

「語義×価値」から「ねうち×あたい」へ!

ソシュールの「価値」観をモノ次元に応用すると、言葉の「語義」と「価値」の関係は、モノの「使用価値=ねうち」と「価値=交換価値=あたい」という関係に相当するでしょう。

前提になっているのは、言語次元の「語義」や「価値」が社会集団の慣用と同意によって決まっているのと同様、モノ次元の「使用価値=ねうち」や「交換価値=あたい」もまた、一人ひとりの個人ではなく、社会集団の慣用と同意によって決まっている、ということです。

そのうえで、一つのモノの「ねうち」という言葉を考えてみると、それは「ネウチ」という音声シニフィアンが、ある社会集団にとって「特定の役に立つ」という特性を物的シニフィエとする垂直の関係、つまり「語義」関係ということができます。
 



例えば、パンというモノの「ねうち」は、「食用になる」という特性を示します。毛糸というモノの「ねうち」は、「温かさ」という特性です。両方とも「ねうち=有用性」という語義が「役立つ」という特性を支えるように一体化しています。

他方、モノの「あたい」は、そのモノだけで決まるのではなく、他のモノの「有用性」や「無用性」との〝比較〟や〝対比〟によって定まります。


パンは石よりも「食用になる」度合いが高いから「あたい」があり、毛糸は木の皮より「温かい」比率が高いから「あたい」がある。いずれも有用と無用という比較のうえで、より有用なもの」や「より無用ではないもの」が「あたい」となります。

とすれば、「語義=ねうち」とは一つのモノの有用性がそのモノの特性と一体化している状態、「価値=あたい」とは一つのモノの有用性が他のモノの有用性と比較して決まる状態、ということができます。

いいかえると、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係といってもいいでしょう。

このように、言語学の見解を取り入れると、社会的な意味としての「ねうち」と「あたい」の違いがより明確になり、新たな地平が開けてきます。

2018年7月30日月曜日

近代言語学は「価値」という言葉をどうとらえているのか?

大和言葉で「ねうち」や「ききめ」の意味を考えてきましたので、言語学ではどのように考えているか、を見ておきましょう。

経済学の「価値・効用」観は現代社会に広く浸透していますが、この視点を継承しつつ、より原理的な次元で「価値」をとらえ直しているのが、人間の思考行動の根源を研究する言語学です。

例えば、近代言語学の創始者F.ド.ソシュールは、言葉の「価値(valeur)を「意義(signification=意味作用)との対比によって、明確かつ精密に説明しています(『一般言語学講義』)。

「意義」という訳語は、小林英夫による戦前の初訳によるものですが、近年では「語義」と訳されており、この方が適切だと思いますので、以下では「語義」を使うことにします。

ソシュールによると、一つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=Sa=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=Sé=意味されるもの)が、一体的に結びついたもの(signe=Sé /Sa)です。

この時、あるシニフィアンが特定のシニフィエと結びついて表示するものが言葉の「語義」であり、他のシーニュとの相対的、対立的な関係から決定される立場が言葉の「価値」である、と説明しています。

具体例でいえば、「イヌ」という音声が「四足の小動物・犬」のイメージと結びついて示すものが言葉の「語義」です。

他方、「四足の小動物・犬/イヌ」という言葉と「四足の小動物・猫/ネコ」という言葉が、それぞれ別種の小動物を示す能力が言葉の「価値」です。つまり、言葉の「価値」とは、犬と猫を区別できることです




ソシュール自身の解説によると、図に示したように、言葉の「語義」とは音声や文字が特定のイメージと【↕垂直の矢)】で結びついた状態であり、言葉の「価値」とは他の言葉(イメージ/音声・文字)との比較・対立する【↔(水平の矢)】としての関係を示しています。

垂直の矢というは、一つの音声が一つのイメージと一体的に結びついた、独立的な状態であり、水平の矢というのは、さまざまな音声の地平と、さまざまなイメージの地平が、重層的に広がって、ある音声とあるイメージが上下に対応している、並立的な状態です。

この対比は、言葉(コト)と対象(モノ)の関係を示したもので、モノとコトとの関係を「垂直」コトとコトの関係を「水平」とみなしています。

大和言葉でいえば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、あたい」部分のみに純化させました。その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。


さらにソシュールは、こうした「価値」観は「いずれの科学」にも「あらゆる文化次元の価値」にも適用できると付言し、その実在形として「貨幣」を想定しつつ、価値の成立条件を次の2つに一般化しています。

①その価値の決定を要するものと交換しうるような一つの似ていないものが存在すること。例えば、5フランの貨幣は、貨幣ではないパンやブドウ酒の一定量と交換できることが必要である。

②その価値が当面の問題であるものと比較しうる幾つかの似ているものが存在すること。例えば、前述の5フランが同じ貨幣体系に属する1フラン貨幣や10フラン貨幣と比較できることが必要である。

「価値」を「相当性=あたい」と理解した場合にも、その内容にはさらに2つの条件があり、一つは「交換可能性」、もう一つは「順位比較性」である、ということです。

そして、この「価値」という概念は「秩序を異にする物の間の対当の体系」であり、それを成立させるのは、個人ではなく、社会的な集団の認知だけ、とも述べています。

「(社会)集団は、価値の成立のために必要であって、これの唯一の存在理由は、慣用と一般的同意のうちにある。個人一人ではそれを一つとして定めることはできない」ということです。

以上を大和言葉で説明すれば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、「あたい」部分のみに純化させました。

その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。

しかし、ここでは「効用=ききめ」について、まったく言及していません。

これについては、言語共同体における社会的規約の体系である「ラング (la langue)ではなく、個人がそれを実践する時の発話行動である「パロール (la parole) 」として考察しているようです。 

2018年7月20日金曜日

「価値」と「効用」・・・大和言葉で考える!

これまでの流れをちょっと整理しておきます。

大和言葉で「ねうち(有用性)と「あたひ(相当性)に分かれていた「ありがたみ」という観念は、仏教や西欧思想の流入によって「價値(価値)という翻訳語に吸収され、「有用性+相当性」の二義性を持ったまま、現代日本語の中へ定着しています。

このうち、現代の経済学で使われている「価値」については、客観価値説と主観価値説でその内容が幾分異なっています。

客観価値説では、「価値(value)という言葉に「効用(utility)と「購買力(power of purchasing other goods」の2つの意味を含め、前者を「使用価値(value in use)」、後者を「交換価値(value in exchange」と名づけています(A.スミス)。

主観価値説では、「効用(utility)を「人間の要求から生じる物の状況」と定義したうえで、「使用価値」を「全部効用」、交換価値を「購買力」、そして両者の間で動く有用性の変化を「最終効用度」と、3つに分けています(W.S.ジェヴォンズ)。

両者の関係は、交換価値=購買力使用価値=全部効用+最終効用度ということになるでしょう。



漢字の「價値」と比較してみると、「」が交換価値であり、「」が使用価値または効用ということになります

大和言葉と比較すると、「あたひ」=交換価値、「ねうち」=使用価値、「ききめ」=効用 ということになるでしょう。「ねうち」(使用価値)と「ききめ」(効用)の関係は、客観的な有用性と一人一人の主観的な有用性の違いということになります。

以上の諸関係を、当ブログ、「生活民マテリアリング(LC-Materialing)」の立場で整理するとききめ」=主観的な「効用」をベースとしつつ、客観的な「使用価値」=「ねうち」に対応していかなければならない、ということになるでしょう。

2018年7月10日火曜日

「価値」や「効用」という訳語は適切なのか?

価値」という漢字も「効用」という漢字も、ともに大陸の漢字文化の中から、欧州語のValueやUtilityの意味に似た文字を探し出して、当てはめられたものです。

価値」は、古墳時代に「價直(げじき=呉音、かちょく=漢音)」という漢字で導入され、江戸時代になって、欧州語の翻訳語として「價値(かち)」という言葉に置き換えられ、昭和後期に「価値(新字体)」になりました。

効用」の方も、前回まで見てきたように、明治前期に「利用」「実利」という漢字で導入されましたが、明治末期から大正期にかけて「效用(旧字体)へ、そして昭和後期に「効用(新字体)に至っています。

かくして、経済的な意味での「価値」や「効用」という言葉は、代経済学の基本用語となり、日常用語としても定着しているようです。

しかし、2つの言葉を、私たち日本人の基本的な言語感覚である「大和言葉」の立場から見直す時、いささか狭いようにも感じられます。



すでに述べたように、「価値」に相当する大和言葉は「ねうち」であり、「音(ね)を打(う)つ」ことです。ポンポンと西瓜を叩いて、食べごろを推し量るように、モノの音(ね)を聞いて、モノの有用性である美味しさを推測することを意味しています。

一方、「効用」に相当する大和言葉は「ききめ」と、筆者は推定しています。「きき」と「」が繋がったもので、「きき」は「きく(聞く)」の変形、「め」は「めやす(目安)」の略語です。つまり、「音(ね)を打っ」た音(ね)を「聞」いて、「目(で計る)」ことだと思います。

大和言葉は私たち日本人の言語感覚のベースとなるものです。それは、日本人が感覚で把握した現象世界を、最も元始的な言語である「オノマトペ(擬声語)を基礎にして作りあげた言葉です。

それゆえ、「言語阿頼耶識」と井筒俊彦先生が定義された通り、無意識次元から意識次元の言葉を作り上げていく力を持っています。

この立場から見る時、移入用語である「価値」や「効用」という言葉は、どのような位置づけになるのでしょうか。

2018年7月9日月曜日

Utility は「効用」より「致用」と訳すべきだった!

小島祐馬先生(京都帝国大学教授)の前掲論文「Utility ノ訳語ニ就イテ」が、「京都大学学術情報リポジトリ」で公開されていますので、その要旨を載せておきましょう(原文は旧文体表記のため、筆者が現代文表記に翻案しています)。


  

●この論文ではUtilityの意義を「財物が人間の欲望を満足させうる力」と定めておいて、然る後にこれが訳語の富否を検することとしたい。

●Utilityの訳語として従来用いられたものは数種あるが、今日最も勢力のある学者問で用いられ、かつ問題となっているのは、「利用」と「効用(原文では效用」との二つであると思うから、今回はこの二つについて研究するに留める。よって、まず「利用」の語を吟味し、次に「効用」に及ぶことにする。

●(『尚書』『左伝』『荘子』『漢書』などでの古人の用法)を要約すれば、文字の本来の意味より見て、「利用」とは「人(または他の人格者)が事物の用を利する」という意味であり、「事物が人の用を利する」という意味ではない。従ってUtilityを以て「財物が人の欲望を満足せしむる力』と解する以上、これを「利用」と訳するのは妥当でない(以下・略)。

●Utilityの訳語として「利用」よりも更に勢力を有する「効用」という文字が果して妥当なるか否か(中略)。「効用」の出典については、余の浅學なるか、末だこれを経傅の中に見出すことができない。余の知れる範囲において、その最も古きものは『後漢書』の事例(中略)であり、この場合の「効用」は「人が国家のために用を効する」を意味している。

●「効用」の(中略)「何のために用を効するか」という目的物は、あるいは國家であり、社会であり、あるいは君主、あるいは政府と、場合によって異なることあるが、その用を効する意味においてはどれも同じである。(中略)別の意味に使用せられていることを、かつて見たことがない。

●「効用」の「効」はもとより「致す」の意味であって、「効用也」とか「効猶致也」とかいう訓詁は『左伝』『国策』『史記』『漢書』など多く散見しておるところである。されば「効用」という代わりに、「致用」といってもまた同義であって、かかる用法も随分多い。

●「致用」もやはり、「効用」と同じく、「人が国家若くは社会のためその能力を尽くす」ことをいったものである。

●しかし、『荀子』(中略)の注には「物皆豊其美、而来為人用也」とあり、ここでは「物が人に役立つ」ことをいうものである。

●即ち、この「致用」の意味こそUtility の意味によく適応するものということができよう。

●なお「効用」の用例については、未だ『荀子』中の「致用」の如きものを見出さざるは甚だ遺憾であるが、併し前に君国の為めに力を尽くす意味においては、「効用」と「致用」が全く同様に用いられることを明らかにし得たのであるから、物が人の用に役立つ能力を指す場合に於いても、かつて用例なき「効用」を、かつて用例ある「致用」と同様の意味に用いて行くということは己むを得ざる場合の造語としては、甚だしき不条理ともいえない

●よって、「効用」という訳語も文字本来の意義より見て決してUtilityの意味に全然適応したものということは出来ないのであって、新たに訳語を選定する場合であつたならば、今少し訪求の余地なきかと思うのであるが、之を「利用」という訳語と比較して文字の意義上その優劣を定めんとならば、それは「効用」の「利用」に優ること数等であると思う。

 
●何となれば両者ともに現在訳語として使用している意味においては、正確なる出処を欠くことは同一であるも、造語の上より考へて、「利用」は他に紛らわしき意味あり、かつ之を訳語とするについて相当の根拠を欠くのに反し.「効用」は他に紛らわしきおそれなく.かつUtilityの訳語とするについて相当の根拠を有するがためである

●「利用」と「効用」以外において、如何なる文字が果してUtilityの訳語として最適当なるものなるかということを、今少しく述べてみたいが、従来〈用い慣れたる〉「効用」が字義の上より見ても、甚だしき不都合なき以上、実際上には最早必要なき穿鑿であり、かつこの上無味乾燥なる引用語を羅列することも如何と思うが故に、今は暫く省略する(後略)。


 
以上を整理してみますと、次のようにまとめられます。

➀Utilityの意義を「財物が人間の欲望を満足させうる力」と理解する。

②「利用」という言葉は、中国の古典では「人(または他の人格者)が事物の用を利する」という意味であり、事物が人の用を利する」という意味ではないから、Utilityを「利用」と訳すのは妥当でない

③「効用」という言葉は、中国古典ではほとんど使用されておらず、使用されている場合でも「人が国家、社会、君主、政府などのために用を効する」を意味している。

④「効用」の「効」は「致す」の意味であるから、「効用」の代わりに「致用」ということもできるが、その意味もまた「人が国家や社会のためその能力を尽くす」ことである。

⑤しかし、『荀子』では「致用」が「物が人に役立つ」ことも意味しているから、これこそUtility の意味によく適応している。

⑥「効用」と「致用」が同様に用いられるケースがある以上、物が人の用に役立つ能力をさす場合、かつて用例なき「効用」を、かつて用例ある「致用」と同様の意味に用いることはやむをえない

⑦「利用」という訳語が他に紛らわしい意味があるのに対し、効用」の方は紛らわしき使用のおそれがない点で優れている。

⑧「効用」という言葉がすでに用い慣らされており、字義の上でも甚だしき不都合がない以上、これ以外の訳語を探すのは無意味である

小島先生としては、本来なら「致用」の方が望ましかったのですが、すでに使用が広がっている以上、効用」という訳語でやむをえなない、ということでしょう。

要するに、「効用」という言葉もまた「価値」と同じく、大和言葉の中からではなく、大陸の漢字文化の中からは探し出されたものだ、といえるでしょう。

2018年6月19日火曜日

utilityの訳語論争があった!

英語の「utility」の翻訳経緯については、小林武教授(京都産業大学・東アジア思想史)がその論文「清末におけるutility と功利観」の中で詳しく述べられています。

要点を紹介しておきましょう。



➀utilityの概念をいかに訳すかをめぐって,かつて福田徳三(東京商科大学教授)河上肇(京都帝国大学教授)との間で論争があった。福田が「利用」の語をあてたことを,河上が批判している。


以上は、河上肇「『内外経済名著』ノ刊行」(『京都法学会雑誌』第8 巻第6 号,1913 年6 月),福田徳三「『利用』及ヒ『非利用』ナル述語ニ付テ河上教授ニ答フ」(同誌第8 巻第7 号,1913 年7 月),河上肇「福田博士ニ答フ(Utility ニ相当スル述語ニ就イテ)」(同誌第8 巻第7 号、同上),小島祐馬「Utility ノ訳語ニ就イテ」(『経済論叢』第4 巻第6 号,1917 年)による。

②河上肇によると,経済的概念としてのutilityに対して,明治30年以前は訳語が一定せず,「利用」以外に「実利」「実用」「需要」「用便」「功用」「有用性」などがあった。10~ 20年代では「利用」が多く,ついで20年代になると,「実利」が多い。20年代後半から「効用」が用いられはじめたが,田島錦治『最近経済学』(1898)がジェヴォンズのmarginal utilityを「限界的効用」と訳して以降,「効用」の語が主流となったようである。

以上は、河上・前掲「福田博士ニ答フ(Utility ニ相当スル述語ニ就イテ)」による。


③「利用」「効用」という漢語の意味と用例を詳しく検討した小島祐馬(京都帝国大学教授)によると,「利用」の語は,大体において為政者が人民のために財用を有利にする意味で用いられるから,人が物の用を利することに他ならず,物が人を満足させる力という意味をもつutilityとは,意味の方向が違う。ところが「効用」の語は,経伝の中にはあまり見られないが,「致用」とほぼ同義であって,人が国家のためにその能力をつくすことである物が人の役に立つ意味の「致用」は,わずかに『荀子』王制篇に見えるだけという。


以上は小島祐馬・前掲「Utility ノ訳語ニ就イテ」による。

④明治前期にはutilityを「利用」「実利」と訳すことが多かったが,後期になると,経済的概念の理解が進んで,漢語としては用例の少ない「効用」が用いられるに至ったことと分かる。

以上のような経緯を知ると、utilityへ「効用」という、聞きなれない漢字が当てられた背景には、utilityという英語の意味そのものへの理解や解釈の違いがあるようです。

とすれば、大和言葉の「ねうち」や「ききめ」との差異についても、もう一度考えてみなければならないでしょう。

2018年6月11日月曜日

誰が「効用」と訳したのか?

主観価値説が提唱した「効用(utility)という言葉は、「限界効用」や「効用関数」などと、現代日本ではほぼ日常的な経済用語として使われています。

しかし、実際のところは、これまた明治末~大正時代に現れた翻訳語にすぎません。

英語の「utility」の翻訳歴を振り返ってみましょう。




 幕末
英和辞書『英和対訳袖珍辞書』(堀達之助著、文久2年=1862年)・・・「要用、利益

明治期
『英和字彙・増補訂正改訂二版』(柴田昌吉, 子安峻著、明治15年=1882年)・・・「利益、裨益、功利
『富国論』(A.スミス著・石川暎作訳、明治17年=1884年)・・・「実用
『惹氏 経済論綱』(W.S.ジェヴォンズ著、嵯峨正作・古田新六訳、明治22年=1889年)・・・「有用、利用
『最近経済学』(田島錦治著、明治31年=1898年)・・・ジェヴォンズのmarginal utilityを初めて「限界的効用」と訳す。

大正期
『哲学字彙 英独仏和』(井上哲次郎・元良勇次郎・中島力造著、大正元年=1912年)・・・「功利、利用
『経済学純理』(W.S.ジェヴォンズ著、小泉信三訳、大正2年=1913年)・・・「利用
『経済学原論』(W.S.ジェヴォンズ著、小田勇二訳、大正11年=1922年)・・・初めて単独で「効用」と訳す。
『資本利子及企業利得論』(トマス・フオン・アキノ等著、高畠素之・安倍浩訳、大正12年=1923年)・・・メンガーの説を「功用説」と紹介。
『理論経済学の若干問題 』(川西正鑑著、大正14年=1925年)・・・ジェヴォンズの説を「効用」で説明。

以上のように、「utility」という英語には、幕末から明治中期まで「要用」「利益」「実用」「有用」「利用」「功利」「利用」などと極めて多様な訳語が充てられてきましたが、明治30年代~大正10年代(1890~1920年)に至って、ようやく「効用」に辿り着いたものと思われます。

要するに、経済用語としての「価値」の歴史は約120年前後、「効用」の歴史もまた約100年前後にすぎません。

大和言葉の「ねうち」や「ききめ」に比べる時、どちらも1世紀前後の歴史しか持っていない、外来的な観念といえるでしょう。

2018年5月30日水曜日

“効用”という“あたひ”とは・・・

W.S.ジェヴォンズ、C.メンガー、L.ワルラスがそれぞれ独自に創始した「主観価値説」は、モノや商品の価値はもっぱら消費者の主観的な評価である「効用(utility)」に基づく、という「ねうち=直」中心理論です。

これに対し、W.ペティ、A.スミス、D.リカードらの古典派経済学や、K.マルクスのマルクス経済学などが主張する観価値説は、モノや商品の価値はそれを作り出す労働に基づく、という「交換価値(value in exchange論、つまり「あたひ=價」論が中心でした。


両者の違いは、A.スミスの立てた命題「水は有用であるが通常は安価であり、宝石はさほど有用ではないが非常に高価である。これはなぜなのか」に対する、それぞれの回答によって鮮明になります。

客観価値説・・・

価値」という概念を提起したうえで、それを「使用価値」と「交換価値」に分け、使用価値の大小はモノの属性によって決まり、交換価値の大小は供給量=労働量によって決まる、と説明します。

「水ほど有用なものはないが、それでどのような物を購買することもほとんどできない」のに対し、「ダイヤモンドはどのような使用価値もほとんどないが、それと交換できるきわめて多量の財貨をしばしばえることができる」から、ダイヤの交換価値は「その商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい」というのです。

主観価値説・・・

効用」という概念を提示したうえで、消費量の変化によって「全部効用(基本的な満足度)」と「限界効用(一つ増えることで得られる主観的な満足度)」が分かれるとし、供給量の増減による両者の違いが価格の上下を作り出す、と説明します。

「水の全部効用は高いが、無限供給に近いから、限界効用が低くなって安価となる。一方、宝石の全部効用は低いが、供給に限界があるから、限界効用が高くなって高価となる」というのです。

以上のように、経済学の歴史を振り返ると、「有用性」という概念を現す言葉では、客観価値説の「使用価値=あたひ=價」論と主観価値説では「効用=ねうち=直」論が対立しています。

だが、いずれの立場においても、「使用価値=効用=ねうち」的なものと「交換価値=価値=あたひ」的なものを区別し、それぞれの比重の差によってモノや商品の「有用性」を現している、といえるでしょう。

2018年5月21日月曜日

L.ワルラスの “価値”観

フランスの経済学者、レオン・ワルラス(Leon Walras 1834-1910)は『純粋経済学要論』(Éléments d'économie politique pure; ou. théorie de la richesse sociale ,1874~77、手塚寿郎訳、1933)の中で、商品の“効用”や“価値”について、次のように述べています(抜粋・要旨)

 

●物は何らかの使用に役立ち得ときから、すなわち何らかの欲望に適い、これを満足し得るときから効用(元訳では“利用”)がある。
 
●通常の会話では必要と贅沢との間に快適とならべて有用を分類するのであるが、ここではこれらの語のニュアンスを問題としない。必要・有用・快適・贅沢これらすべては我々にとっては程度を異にする効用を意味するに過ぎない。
 
効用のある物はその量の制限せられている事実によって稀少となるのであるが、この結果として3つの事情が生れる。 
  1. 量において限られかつ効用のある物は、専有せられる。無用の物は、専有せられない。
  2. 効用があって量において限られた物は、価値がありかつ交換せられ得る。
  3. 効用があって量において限られた物は産業により生産せられ得る物であり、または増加し得られるものである。 
交換価値、産業、所有権、これらは物の量の制限すなわち稀少性によって生ずる3つの一般的事実であり、3つの系列または種類の特種的事実である。そしてこれら三種の事実が動く場面はすべての社会的富であり、また社会的富のみである。
 
●よって、交換価値稀少性に比例する。
 
以上のように、ワルラスは【個人の欲望に対する稀少性の上下】という視点から、【ねうち:効用】と【あたひ:価値】を考察しています。

2018年5月10日木曜日

C.メンガーの “価値”観

オーストリアの経済学者、C.メンガー(Carl Menger)もその著『一般理論経済学』(Grundsätze der Volkswirtschaftslehre,1923,八木紀一郎他訳,1982)の中で、商品の”効用”や”価値”について、次のように述べています(要旨)。


効用性とは・・・
「ある物が人間の欲望の満足に役立つという適正(Tauglichkeit)を示すことができるのは、もっぱら、その物の性質によってだけである。

けれども効用性(Nützlichkeit)というのは、何ら物の客観的な性質ではなくて(個体的もしくは種属的に)規定された事物の人間に対する関係すぎない。」

価値とは・・・
「価値は、財に付着したものでも、財の属性でもなければ、自立的な、それだけで存立している物でもない。

価値とは、具体的財が経済活動を行なう人々にたいしてもつ意義であり、この財がそれを獲得するのは、自分たちの欲望の満足いかんがその財(の支配)に依存していることを彼らが意識しているからである。
それゆえに、人間の意識の外には存在していない(後略)。」

価値とは、具体的な財または具体的な財数量が、われわれにたいして獲得する意義、自分の欲望を満足させることがこれらの支配に依存していることをわれわれに意識させることによって、それらがわれわれにたいして獲得する意義である。」

価格とは・・・
価格、いいかえれば交換において現れる財の数量は、たとえそれがわれわれの感覚に鮮明に訴えるために科学的観察のもっとも慣行的にとりあげられる対象をなしているにせよ、決して交換という経済現象にとって本質的なものではない

本質的なものはむしろ両交換者の欲望満足のための交換によってより良好な先慮がもたらされるということのうちに横たわっているのである。」

以上のように、メンガーは極めて主観主義的な「ねうち」観に立って、価値や価格は交換経済の本質的なものではないとし、アリストテレスからアダム・スミスに至る古典派経済学の【「あたひ=相等性」×「ねうち=相当性」】二元論を厳しく批判しています。

2018年4月30日月曜日

W.S.ジェヴォンズの“価値”観

マルクスは「価値」を「使用価値=ねうち」と「交換価値=あたひ」に分けたうえで、後者の方に比重をかけていきました。

これに対し、1870年代に欧州各地で台頭した「主観価値説(効用価値説)」では前者、つまり「使用価値=ねうち」の方に力点をおいた理論を展開していきます。

「主観価値説」とは、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガー、L.ワルラスがそれぞれ独自に創始した理論ですが、商品の価値はもっぱら消費者の主観的な評価である「効用(utility)に基づく、というものです。彼らの主張はどんなものだったのか、順番に見ていきましょう。

最初はイギリスの経済学者W.S.ジェヴォンズ(William Stanley Jevons)。その著『経済学の理論』(The Theory of Political Economy、1871)の中で、次のように述べています(要旨)。



➀商品は「効用」という性能を持つ。

「財なるものには、人の物質的生活に関係ある種々なる欲望を満足せしむるを得る性能(がある。中略)。換言すれば、財には人の欲望を満たすに足るだけの有用性ありて、然もそが人々に依りて認めらるるが為である。財の此の性能を『効用』といふ」(小田勇二訳、1922)

② 「効用」視点から見ると、「価値」という言葉には3つの意味がある。

  ⑴使用価値=全部効用(value in use = total utility)
  ⑵評価=最終効用度(esteem =final degree of utility=限界効用)
  ⑶購買力=交換比率(purchasing power = ratio of exchange)

③ 「価値」は「効用」に依存するのであって、「労働」に起因するものではない。

「価値はまったく効用に依存する(中略)。いまひろくおこなわれているかんがえは、効用よりはむしろ労働を価値の起源とするものであって、なかにははっきりと労働は価値の原因であると主張するものさえあるのである。これに反してわたしは、満足な交換の理論に到達するため、われわれがもっている財貨の量に依存するものとしての効用変動の自然法則を注意ぶかく追求すればそれでいい(後略)。」

「労働はしばしば価値を決定するものとみられるが、しかしそれはただ間接的なしかたによってのみ、すなわち供給の増加または制限を通じて財貨の効用度を変動させることによってのみそうなのである。」(岩松繁俊訳、1958)

以上のように、ジェヴォンズは「人間の要求から生じる物の状況」を「効用(utility)と名づけたうえで、従来の「使用価値」を「全部効用」、交換価値を「購買力」、そして両者の間で動く有用性の変化を「最終効用度」と、3つに分けています。

彼はこの立場から、スミス、リカード、マルクスなどの“価値”観を厳しく批判しています。

まさしく「使用価値=ねうち」論からの逆襲といえるでしょう。

2018年4月20日金曜日

マルキシズムの”価値”観

生誕200年でK.マルクスに注目が集まっています。

マルクスは商品の“価値”をどのように考えていたのでしょうか。

リカードの「投下労働価値」説を引き継いだマルクスは、その著『資本論』(Critique of Political Economy,1867~1894)で、次のように述べています(要旨)。



➀商品の価値には「使用価値(use-value)と「交換価値(exchange-value)がある。

②「使用価値」とは「人間の欲望をみたすもの」あるいは「人間が、その活動によって自然素材の形を人間に有用なように変える」ものである。

③使用価値は、あくまで潜在的なものであって、本物の「価値」ではなく、いわば「価値」の“素材”であり、それが他の物との交換可能性を生じて「交換価値」となった時、初めて本物の「価値」になる。

④空気、処女地、自然の草地や樹木などの自然物、あるいは自家消費用の生産物など明らかに「使用価値」を持つが、交換の対象とならない限り、本物の「価値」を持つことはない。

⑤それゆえ、「商品の交換こそが、商品を互いに価値として関係させ、価値として実現するのである」から、「商品は使用価値として実現される以前に、価値として実現されなければならない」のである。

⑥「価値を作り出す実体は、その物に込められた労働の量である」から、商品の交換価値は労働力によって決まる

⑦賃銀と交換されるのは労働ではなく労働力であり、労働力の価値の補填分を越えて労働が生み出す価値が「剰余価値(surplus-value)である。

以上のように、マルクスは「使用価値×交換価値」論の延長線上に、労働価値説に基づく「剰余価値」をおいて、これこそ「価値」の本質だ、と主張しています。

当ブログの立場でいえば、「ねうち=有用性=使用価値」と「あたひ=均等性=相当性=交換価値」を分けたうえで、「相当性=あたひ」の方に比重をかけ、あたひ」の本質を考察した、といもいえるでしょう。

「ねうち=有用性=使用価値」の方は「商品学に任せるなどとまで述べていますが、新たな経済学は間もなくその周辺から始まってきます。

2018年4月11日水曜日

A.スミスからD.リカードへ:価値=あたひ論は進展した!

A.スミスの「価値=あたひ」論は、どのような形でK.マルクスへ引き継がれていったのでしょうか。

A.スミスは、商品の有用性を「使用価値(value in use)と「交換価値(value in exchangeに分け、そのうえで、「労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度である」という「労働価値説(labor theory of value)を提唱しました(『富国論』1776)。

この「労働価値説」は、人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという学説ですが、もともとは17世紀にW.ペティによって主張されたものでした。





W.ペティは『租税貢納論』(A Treatise of Taxes & Contributions, 1662)の中で、商品の「自然価格」はそれに費やされる労働によって決まという視点を初めて提起しました。

この説を継承して、A.スミスは「労働こそは、すべての物にたいして支払われた最初の代価、本来の購買代金であった。世界のすべての富が最初に購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである」(『富国論』)と述べ、労働価値説を確立したのです。

しかし、スミスのこの見解には、2つの観点が混在していました。

一つは「あらゆる物の真の価格、すなわち、どんな物でも人がそれを獲得しようとするにあたって本当に費やすものは、それを獲得するための労苦と骨折りである」と表現されているように、商品の生産に投下された労働によって価値が決まる、という主張(投下労働価値説)です。

もう一つは、商品の価値は「その商品で彼が購買または支配できる他人の労働の量に等しい」という主張(支配労働価値説)です。

2つの労働価値説は40年後、D.リカードに引き継がれましたが、その著『経済学および課税の原理』(On the Principles of Political Economy, and Taxation、1817)において投下労働価値説」は肯され、支配労働価値説」は否定されています。

リカードは「商品の生産に必要な労働量と商品と交換される労働量は等しくない。例えば、ある労働者が同じ時間に以前の2倍の量を生産できるようになったとしても、賃銀は以前の2倍にはならない」と述べて、支配労働価値説は正しくない、と述べています。

これに代えてリカードは、資本の蓄積が始まってからも、道具や機械に間接的に投下された労働量と直接に投下された労働量の合計によって商品の価値が決まる、という見解を示しています。

リカードの投下労働価値説は半世紀後に、K.マルクスに引き継がれ価値=交換価値」説となっていきます。

こうして経済学の本流では、「価値=あたひ」論が主流となり値=直=ねうち」論の方は後回しにされました

2018年3月31日土曜日

アダム・スミスも分けていた!

古代ギリシア以来の「有用性・均等性」論は、中世のスコラ哲学を経て、18世紀にイギリスの経済学者A.スミスへと引き継がれました。

スミスは1776年にその著『富国論』(『諸国民の富』大内兵衛・松川七郎訳、岩波文庫版『富国論』)の中で、「価値(value)ということばには二つの異なる意味がある」と述べています。





一つは「ある特定の対象の効用(utility)を表現し、もう一つは「その特定の対象を保有することによってもたらされるところの、他の財貨に対する購買力(power of purchasing other goods)」を意味しています。

そこで、前者を「使用価値(value in use)」、後者を「交換価値(value in exchange)と名づけました。

両者の違いを説明するため、スミスは水とダイヤモンドをとりあげ、「水ほど有用なものはないが、それでどのような物を購買することもほとんどできない」のに対し、「ダイヤモンドはどのような使用価値もほとんどないが、それと交換できるきわめて多量の財貨をしばしばえることができる」と述べています。

水の使用価値は極めて高いけれども交換価値は低く、ダイヤモンドの使用価値はかなり低ものの交換価値は高い、ということです。

その理由として「交換価値の実質的尺度とはどのようなものであるか」と問いかけ、ある商品の交換価値とは「その商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい」から「労働はいっさいの商品の交換価値の実質的尺度である」と述べています。

ダイヤモンドの交換価値が高くなるのは「希少性」、つまり「それをかなり大量に収集するためには多量の労働」が必要であるからだ、というのです。

これこそ「交換価値は労働に準拠する」という、古典派経済学の「客観価値説(労働価値説)の原点となった理論です。

売り手・買い手という立場から「価値」を見て、人間の労働が「価値」を生み、労働が商品の「価値」を決める、という発想であり、スミスからD.リカードを経てK.マルクス、さらには近代経済学にまで至っています。

こうした理論を生活学の立場から見ると、「ねうち・あたひ」論を「有用性=使用価値・相当性=交換価値」論に置き換えたということであり、「あたひ=相当性=交換価値は労働の量から生まれる」という方向へ、価値論の重点が移されています

いいかえれば、一人の人間にとっての「ねうち」よりも、他人と交換する時の「あたひ」の方に重点が移行している、ともいえるでしょう。

さらにいえば、西暦200年代に中国で使われた「價直」の、「價=あたひ」と「直=ねうち」の二重性がほぼ1500年後のイギリスにおいて再認識された、ともいえます

あたひ=價」論を中心にして古典派経済学が成立し、マルクス経済学から近代経済学へと発展してくるという経済学の立場はそれなりにわかります。

 
だが「ねうち=直」論のほうは、一体どうなってしまったのでしょうか

2018年3月21日水曜日

アリストテレスは分けていた!

大和言葉では「ねうち(有用性)と「あたひ(相当性)に分かれていた「ありがたみ」という観念は、仏教や西欧思想の流入によって「價値(価値)」という翻訳語に吸収され、「有用性+相当性の二義性を持ったまま、現代日本語の中へ定着しています。

それでは、西欧においても、両者は混合して使われていたのでしょうか。

西欧思想の一つの源、古代ギリシア哲学を振り返ってみると、必ずしも混合されているわけではなく、大和言葉と同じように分けられていました。




例えばアリストテレス(B.C.384年~B.C.322年)は、『ニコマコス倫理学』の中で、「財貨(χρήματα:クレーマタ)とはおよそその価値(Αξία:アクシア)が貨幣によって測られるものの謂いである」という表現を使いながらも、『政治学』(第1巻第9章)では、「財産の獲得術」の前提として、次のように述べています。

「物には各々二通りの用途がある。二通りの用途とは、いずれも物をそれだけで使う場合でも、その使い方が違っており、一つの用途はそのもの本来の用途で使うこと、もう一つはそうではない使い方をすることだ。例えば、靴は足に履くために使う別の物との交換に使うこともある。つまり靴には二通りの用途があるのだ。」

二つの用途について、『ニコマコス倫理学』の中では、「有用(χρήσιμος:クリシモス)」と「均等(ίσος:イソス)」という言葉を与え、次のように説明しています。

有用」とは「それによって何らかの善または快楽が生ずるところのもの」であり、「均等とは「(二人の取引者が)交換を行なったあげくにこれを比例に導くもの」である、と。

こうしてみると、古代ギリシアでも、様々な事物の「ありがたみ」については、「有用性」と「均等性」の2つの形があることが明確に理解されていた、と思われます。

その区別は、時代が下る中で、どのように変わっていったのでしょうか。

2018年3月10日土曜日

幕末~明治初期には「價直」と「價値」が混在!

江戸時代に蘭語や英語から翻訳されて普及したと思われる「價値」という言葉は、幕末から明治時代初期になると、また「價直」へ戻っています。

幕末の文久2年(1862年)、幕府の通辞・堀達之助が編纂した、日本初の本格的な刊本英和辞典『英和対訳袖珍辞書』では、「value」を「價直(かち)」と訳して、「價値」から「價直」へ戻しています。

この時代、「直」という漢字は「値」と同義語と見なされ、「ちょく」ではなく「ち」と読まれており、その意味するところも、翻訳語として「有用性+相当性」を示していた、と思われます。

明治維新後の明治2年(1870年)、明治政府の官僚・若山儀一と箕作麟祥が、アメリカの経済学者A.L.ペリーの” Elements of Political Economy”を共訳した『官版経済原論』でも、「value」は「價直」と訳されており、維新後も「價直」が使われていたようです。

ところが、明治6年(1873年)に出版された、『経済新説』や『経済入門』になると、再び「價値」が復活しています。

経済新説』は社会学者で翻訳家の室田充美がフランスの経済学者J.B.Say派の著作を、また『経済入門』は司法省翻訳官の林正明がイギリスのM.G.フォーセット夫人の政治経済学入門書"Political Economy for Beginners"をそれぞれ訳したものです。

これが定着したのか、明治15年(1882年)に通訳の柴田昌吉と子安峻が編纂した、わが国最初の活字印刷による英和辞書『英和字彙・増補訂正改訂二版』でも、「value」を「價格、價値、位價、貴重、緊要、算数、同数」と訳しています。

この訳語の意味では、貴重・緊要=「有用性」と、価格・同数=「相当性」が完全に混合されています。

そして、2年後の明治17年(1884年)に大蔵省翻訳局の石川暎作と瑳峨正作が訳した、イギリスの経済学者A.スミス『富国論』(”An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations”,1776年)では、「value」は「價値」と訳されて、経済学でも「價値」という表現が定着したようです。


以上のような経緯を振り返ると、大和言葉ではねうち(有用性)」と「あたひ(相当性)に分かれていた、「ありがたみ」を示す言葉は、翻訳語の「價値」という言葉の受容によって「有用性+相当性」の二義性を持ったまま、明治初期から現代日本語の中へ定着したものと思われます。

2018年2月27日火曜日

江戸中期には「價値(かち)」へ変わった!

江戸時代に入ると、「價直(げじき・かちょく)という言葉は、約200年前に移入してきた欧州語の翻訳語として「價値(かち)」という言葉に置き換えられました。

最初の蘭日辞典波留麻和解』(寛政8年=1796年)では、「waarde(ワアルデ)」の訳語として「價値」が与えられ、「高價」「利潤」も併記されています。

この辞典は、長崎通詞の西善三郎が着手し、その後、蘭学者の稲村三伯、宇田川玄随、岡田甫説らによって編纂されたものです。

18年後に出た、最初の英和辞典諳厄利亜語林大成』(文化11年=1814年)でも、「value(ヘルユー)の訳語が「價値」とされています。

この辞典は、和蘭・和英通辞の本木庄左衛門(正栄)を中心に、同じく通詞の馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保らが編纂した、日本初の英和辞典です。


蘭語の「waarde」も、英語の「value」も、ともに原語の意味には「相当性」と「有用性」の両方が含まれています。

このため、翻訳語の「價値」もまた「あたひ+ねうち」、つまり「相当性+有用性」の二義性を持つことになりました。

なぜ「直」が「値」に変わったのか、詳しくはわかりませんが、「直」の字が「十:正面、まっすぐ」+「目:見る」+「―(線)」を組み合わせて「線をまっすぐ見る」ことを表すのに対し、「値」の字では「亻:人」が「線をまっすぐ見る」ことになりますから、「ねうち」よりも「あたひ」にやや近づくからかもしれません。

いずれにしろ、江戸時代の人々もまた、大和言葉の持っていた、「あたひ」と「ねうち」の区別を捨て、両者の複合化した「價値」を使うようになっていたのです。

2018年2月18日日曜日

中国から漢字「價直(げじき・かちょく)」が渡来した!

中国大陸から日本列島へ漢字が渡来したのは、古くは1~2世紀といわれています。とりわけ7世紀に遣隋使が派遣されて以降は、仏教文化律令制度などの渡来に伴って、大量の漢字が日本へ輸入されました。

そこで、「役に立つか否か(有用性)」や「あい対するかどうか(相当性)」という観念についても、漢字が使われるようになったのです。

幾つかの事例を振り返ってみると、すでに古墳時代から「價直」という漢字が導入され、「げじき(呉音)あるいは「かちょく(漢音)と発音されていたようです。


例えば、5世紀初頭に受け入れられた『妙法蓮華経(法華経)』には、「即解頸衆宝珠瓔珞。價直(げじき)百千両金」(首にかけていた、美しい宝珠の首飾り、百千両に相当するものを外して)と書かれています。

また7世紀初頭に渡来した『根本説有部律』にも、「白拂價直(げじき)百千兩金」(百千兩金のあたひの白い払子=ほっす)と記されています。

平安~鎌倉時代(8~14世紀)になると、「價直」は渡来の仏典だけでなく、日本の文献でも使われるようになりました。

8世紀末の『続日本紀』(延暦16年=797年)には、「天平元年、孟春正月、(中略)宜給京及畿内官人 已下酒食價直(かちょく)(酒食相当が支給される)と書かれています。

11世紀の『私聚百因縁集』(正嘉元年=1257年)には、「東城国送るに價直(かちょく)浮檀金(えんぶだんごん=砂金金)の百億両と云ふ」との表現が見られます。

このように漢字が導入されて、仏教界や大和政権から一般庶民へと普及していく過程で、「相当性」という観念は「價直(げじき、かちょく)」という言葉で表されるようになりました。



しかし、字源を辿ってみると、「」は「亻:人」+「西:うつわ」+「貝:貨幣」が組み合わされた文字であり、「器の中に入った貨幣を人が持つ」状態を表していますから、「価格」、つまり「あたひ」を意味しています。

一方、「」は「十:正面、まっすぐ」+「目:見る」+「―(線)」を組み合わせた文字で、「線をまっすぐ見る」ことを表しており、これは「ねうち」に近い観念と思われます。

とすれば、「価直」という漢字は「真っすぐ見たそのもの」に「価格をつける」、つまり有用性」と「相当性」の複合化を意味する言葉ということになります。

ところが、古代日本において「」の字が「あたひ/あたへ」と読まれたことから、「あたひ」に相当する言葉となってしまいました。字源の意味する「ねうち」が「あたひ」に置き換わったのです


以上のような推移から考えると、「價直」という漢字は、「あたひ」と「ねうち」を統合した便利な言葉として日本人に受け入れられたものと思われます。

だが、便利さゆえに、大和言葉で分けられていた「ねうち」と「あたひ」、つまり「有用性」と「相当性」の区別は曖昧にされてしまった、ともいえるでしょう。