2018年12月27日木曜日

「差延」を「差延化」に拡大する!

「前回の理論構成について、文章だけではわかりにくいのでは・・・」というご指摘をいただきましたので、もう少し単純化して、図解することにします。



この図では、言語行動が作り出す「ランガ―ジュ:langage:コト界」と、道具使用行動が作動する「ヰセージュ:usage:モノ界」が、上下の対応を示しています。

①ランガ―ジュ(langage)界の「ラング(langue):社会的言語体系」と「パロール(parole):個人的言語活動」の関係は、ヰセージュ(usage)界の「ヰティリテ(utilite):社会的使用体系」と「ヰティリゼ(utiliser):個人的使用活動」の関係に対応します。

②「パロール(parole):個人的言語活動」における「パロール1(parole=発話1)」と「パロール2(parole=発話2」の関係は、「ヰティリゼ(utiliser):個人的使用活動」における「ヰティリゼ(utiliser)1=使用1と「ヰティリゼ(utiliser)2=使用2の関係に対応します。


③ランガ―ジュ(langage)界の「語義(signification=シグニカシオン)」と「意味(sens=サンス)1,2」の関係は、ヰセージュ(usage)界の「使用価値(仏valeur d'usage=バルール・デュセージ:英value in use)と「効用(utilité=ヰティリテ:英utility)1,2」の関係に対応します。

以上の対応の結果、ヰセージュ界においては、当ブログで述べてきた「使用価値」「効用」「ねうち」の関係もまた、下図のようになります。














上下の関係は、次のように対応します。

①「使用価値(valeur d'usage:value in use)」は「共効(social utility)」、つまり「ねうち」に対応します。

②「効用1(utilité1=ヰティリテ1)」は「個効(Individual Utility)」、つまり「ききめ1」に対応します。

③「効用2(utilité2=ヰティリテ2)」は「私効(Private Utility)」、つまり「ききめ2」に対応します。

いかがでしょうか? かえってわかりにくくなったかもしれません。

ともあれ、こうした対応によって、言語行動における「差延」は、道具使用行動における「差延化」に拡大していきます。

ご批判を恐れずにいえば、J.デリダの提唱した「差延」が、筆者の提唱する「差延化」に広がった、ということです。

2018年12月20日木曜日

「差延化」行動の理論的背景を考える!

「差延化」行動の基盤となるのは、私たち人類に特有の言語活動です。

このことについては、当ブログでは何度も触れてきましたので、要点を整理しておきましょう。
 


言葉には「ラング(langue)の次元と「パロール(parole)次元がある。

言葉の機能には、民族や国家が共有している「ラング(langue)」の次元と、それを使って個人が会話を交わしたり、一人で思考するという「パロール(parole)」の次元がある。

ラングは、日本語、英語、フランス語など、それぞれの言語圏に属する人々が歴史的に共有している社会制度、共同主観であり、この制度の中では、文法と辞書で示されているように、一つの言葉の語義と用法が、共同体の伝統と慣習によって、一定の範囲に定められている。他方、パロールというのは、個々人がラングを使って実際に行なっている、私的な言語活動や思考行動である。


②「パロール」次元は「パロール1」次元と「パロール2」次元に分かれる。

パロールには、既成のラングに忠実に基づいて会話する「経験的使用」=パロール1と、ラングを使って全く新たな関係を作りだす「創造的使用」=パロール2の、2つのケースがある。他人との交流のためにラングを使用する行為は「パロールⅠ」であり、個人が私的にラングを使用して自らと会話する行為は「パロール2」である。

③「ラング」「パロール1」「パロール2」という言葉の3次元によって、単語の意味も「語義」「意味1」「意味2」に変わる。

言葉の示すイメージは、ラングでは「語義(signification)となり、パロールでは「意味(sensとなる。「語義」とは、一つの言葉が辞書や文法といったラング(langue)の中で使われる場合であり、「意味」とは、それが個人的なパロール(parole)の中で使われる場合である。

他人とコミュニケートするには、互いに意味や用法を共有している語義を使うのが便利であるが、私的なメモや日記、あるいは独創的な詩歌や創作を書くには、自分だけに通じる意味や用法も許される。

それゆえ、パロール1とパロール2では、個々の「言葉」の意味もまた変わる。パロール1では「語義」の比重が多い「意味1」となり、パロール2では独創的な内容の比重が濃い「意味2」となる。


―――以上は【横軸の構造・・・ラングとパロール】(2015年3月6日)や【言語学で「ねうち」と「ききめ」の違いを探る!】(2018年8月19日)による。


④言葉の「意味1」は道具の「効用1」に、「意味2」は「効用2」に相当する。

ラングとパロールの関係は、言葉の使用法の延長線上に生まれる、道具や食べ物などの使用法と連動する。

コト界で社会的な「語義」に従って話す「パロール(parole:会話)1」は、モノ界では社会的な「使用価値」に従ってモノを使う「ヰティリゼ(utiliser=使用)1」の「効用1」に対応する。他方、コト界で新たな「意味」を創造しながら話す「パロール2」は、モノ界で純個人的に独創的によってモノを使う「ヰティリゼ2」の「効用2」に相当する。


効用2=ききめ2を独創することで、「効用1=ききめ1」や、さらには「使用価値=ねうち」もまた変革できる

私たちは一つのモノを、一方では社会的な習慣や先例に基づく「効用1」つまり「ねうち」として使っているが、もう一方では自らの工夫やアイデアを加えた「効用2」としても使用することができ、その使用法が広がることによって、社会的な「効用1」を変革していくこともできる。

「効用=ききめ」とみなせば、「効用2=ききめ2」を独創することによって、「効用1=ききめ1」=「使用価値=ねうち」もまた変革できる。

―――以上は【社会的な「ねうち」と純私的な「ききめ」を峻別する! 】(2018年8月29日)による。

これまでに述べてきたように、「パロール2」と「意味2」、および「効用2」と「ききめ2」の関係こそ、「差延化」行動の理論的な基盤となっています。

2018年12月9日日曜日

「私効」を実現する生活行動とは・・・

3番めは「差延化という行動」が私的行為の基本になっていることです。

「差延化」という言葉は、24年前、
日本経済新聞・経済教室(1994年4月29日において、生活民自身の「私効」を実現する、最も具体的な方法として、筆者が初めて提唱したものです。

いうまでもなく、フランスの哲学者、J.デリダのキーワード「差延」を応用したものです(『
声と現象』)。

デリダは、フランス語の「différence(差異」の動詞形(différer)に含まれる「延期する」という意味を踏まえて、「différance(差延)という同音異議語を作りました。

「差延」とは、言葉の意味を生み出す「差異」に対して、結果として差異を生み出す〝動き〟のことだ、と述べています。

具体的にいえば、パロール(parole:話し言葉)では、言葉の意味が話し手と聞き手の間で同一性を保っているケースが多いのですが、エクリチュール(écriture:書き言葉)になると、書き手の文章が読み手によって多様に解釈できる場合が増えてきます。


なぜなら、会話で使う話し言葉では、話し手が抑揚や表情やジェスチュアなどを加えますから、単語の意味が一義的に受け手に伝わります。

けれども、手紙や文書で使う書き言葉では、文字でしか表現できませんから、ともすれば曖昧になりがちです。だが、その分だけ、受け手はその意味を多義的に解釈できますから、一つの言葉は新たな意味を持つようになります。

こうした言葉の開かれた機能が「差延」です。つまり、「予め作られた差異」ではなく、「送り手と受け手の間で時間とともに作られていく差異」ということです。

この視点を生活行動一般に拡大すると、モノの用途における「差延」とは、予め作られたモノの共効や個効ではなく、提供者と私用者の間で時間とともに作られていく私効ということになるでしょう。

先に述べたように、「共効」や「個効」は社会的・集団的な有用性ですが、「私効」は純私的な有用性であるからです。

当ブログですでにとりあげた
食酢や冷蔵庫の事例のように、生活民の「私効」行動は、かなり多岐にわたっています。

どのような行動があるのか、さまざまな具体例から考えていきましょう。

2018年11月29日木曜日

生活行動の判断基準は「私効」から・・・

2番めは「私効」というネウチを、さまざまな生活行動を決める時に、生活民は一つの判断基準にしていることです。

生活民の判断基準とは、彼の生きている生活構造の中から生まれてくるものです。

生活構造については、すでに述べたように、「生活体」【
「生活民」の生活構造とは・・・:2016年10月25日】で表わされるものですが、これを構成する、基本的な3つの軸の上で、生活民はさまざまな判断をしています。



➀社会-個人軸の上では、生活民は「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility)」を求めています【
生活民は「価値」よりも「私効」を重視!2016年11月22日】。

生活民は、大熊信行の提唱した「生活者」の、「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」という立場を引き継いで、社会的な「価値(共効)」よりも、純私的なネウチである「私効」を重視します。

②言語-感覚軸の上では、生活民は「言葉(word)」や「記号(sign)」よりも「感覚(sense)」や「象徴(symbol)」を重視しています【
差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】。

生活民は、今和次郎の提唱した「生活人」の、「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を継承しつつ、「農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行など」も含めたうえで、基本的な立場を「感覚」や「象徴」においています

また大熊信行の「生活者」では、その生活願望を「必要」次元である「欲求次元に限っていましたが、生活民の生活願望はさらに
「欲望」や「欲動」次元まで広がってゆきます。

③真実-虚構軸の上では、生活民は「真実」という視点よりも、「虚構」という視点に重点をおいて「日常」や「真実」を眺めています【
生活民は「真実」を超える!2017年8月31日】。

日常の世界とは、コスモスとカオスのせめぎ合う世界、あるいはモノとコトの行き交う「モノコト界」であり、二重の意味で「真実」を保証するものではありません。

それゆえ、生活民には一歩退いた立場から、冷静に「真実」に向かい合うことが求められます。


とりわけ、現代社会のような高度消費社会では、供給側からの、真偽入り混じった、さまざまな情報が押し付けられる以上、生活民は冷静な私人としての立場から、真実と虚構への対応力を向上させていかなければなりません。

以上のように、生活民の判断基準については、社会-個人軸上の「私効」をべ-スとしつつも、さらに言語-感覚軸上の「感覚」や「象徴」真実-虚構軸上の「虚構」を含めた次元から説明していくことが求められるでしょう。

2018年11月20日火曜日

アトモノミクスの基盤を考える!

アトモノミクス(Άτομομικός)を構築する場合、最も基本的な視点として、次の3つをまず考えるべきだと思います。
 
① 生活民という主体
② 「私効」重視という対物態度
③ 差延化という行動

1番めは「生活民という主体」という視点です。


生活民とはどのような人間をさすのか、これまで展開してきた当ブログの趣旨からいえば、2つの要件が求められます。


 一つは【「生活民」とはどんな人?】(2016年10月13日)の中で述べた、最もベーシックな要件です。

「生活民」とは、生活の主体である人間像を、生活学の「生活人」社会経済学の「生活者」を継承しつつ、より統合化したコンセプトであり、主な特徴は次のようなものです。

① 従来の生活学の「生活人」からは、「美学や哲学などの次元にまで幅を広げた、より総合的な人間像」を継承しています。

② 社会経済学の「生活者」からは、「営利主義の対象である“消費者”を抑制する」ことや「自己生産を基本にする」ことを継承しています。

その一方で、「生活人」が否定した「伝統や慣習、あるいは流行を追い求める生活行動」や、「生活者」が排除した「気晴らしや見せびらかしなどを求める願望次元」なども積極的に肯定し、両方とも含めた人間像をめざします。

④ 生活の主体を、市場社会のユーザーの立場を超えて、市場の成立以前から存在した、自立的な人間におきます。

もう一つの要件は、【
「生活民マーケティング」は「LC-Marketing」だ!】(2017年7月30日)の中で提起した、以下の行動主体であることです。

①生活民とは「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility)」を求める主体である。・・・【生活民は「価値」よりも「私効」を重視!:2016年11月22日】

②生活民とは「言葉(word)」や「記号(sign)」よりも「感覚(sense)」や「象徴(symbol」を重視する主体である。・・・【
差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】

③生活民とは「真実」よりも、虚構」から「日常」や「真実」を眺める主体である。・・・【
嘘を作り出す二重の構造!:2017年6月10日】

これらは、オイコノミクスやエコノミクスからみれば、枠外の要件かもしれません。


しかし、「アトモノミクス」では、2つの要件を満たす人格こそを「生活民」と定義したうえで、彼の行う生活諸行動についての様式や原理などを構築していきます。

2018年11月9日金曜日

「オイコノミクス」から「アトモノミクス」へ!

「経済学や家政学を超えよう」と主張してきたところ、「経済学と家政学はもともと同じもので、改めて生活学などを提唱するまでもない」というご批判をいただきました。

確かに「エコノミクス(Economics:経済学)の語源は、ギリシア語の「オイコノミコス(Οἰκονομικός)に由来しています。

ギリシア語では、「オイコス(οἶκος, oikos:家)と「ノモス(νόμος, nomos:法)の合成語が「オイコノミア(Oικονομία)であり、「家政=家庭の管理・運営」を意味しています。

「オイコノミア」の複数形の形容詞が「オイコノミカ(Οἰκονομικά)」、単数形の形容詞が「オイコノミコス(Οἰκονομικός)であり、ともに「家政論」や「家政学」を意味しているようです。

古代ギリシャの歴史家、クセノフォン(Xenophon)がBC430~BC354年頃に著した『オイコノミコス』の中で、「家政とは何か」というソクラテスの問いに対し、クリトブロスなる人物が「良い家政家であるということは、自分自身の家財をきちんと管理できるということだ」と答えています(越前谷悦子訳、リーベル出版)。

これを敷衍すれば、「オイコノミコス」とは「自分の家産や家計をいかに管理するか」という意味であり、日本語に訳せば、まさに「家政」という言葉に相当します。

古代ギリシアでは、こうした「家政」の集合として、ポリス(都市国家)の経済を把握していたようです。つまり、家政の延長上に国家の財政や金融の政策がある、という趣旨です。

こうした思想は、西欧においても、A.スミス(Adam Smith)のを『国富論』(1776年)を経て、A.マーシャル(Alfred Marshall)の主著『経済学原理』(Principles of Economics, 1890年)により経済学」(Economics)という理論名称で定着しました。

以上の経緯を振り返ると、「オイコノミコス」が「エコノミクス」の語源となったことはほぼ間違いありません。

とすれば、経済学の原点は家政学であり、改めて異なる立場を提唱する必要はないようにも思えます。

しかしながら、次の視点に立つと、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。

筆者が必要性を感じるのは、次の3つです。
①オイコノミコスの「自分自身の家財をきちんと管理できる」という守備的な範囲を超えて、生活民自身の生み出す、独創、自給、自足といった、より積極的な生活思考や生活行動を把握する理論が求められます。

②家政学から発展したにもかかわらず、現代の経済学は、個人や家族よりも国家や企業の経済活動を究明することに重点を移しているため、個人や私人の立場に立った、より強力な生活理論が求められます。

③「共効」を前提とする経済学、「個効」に中心を置く家政学に対し、純個人的・私人的な「私効」の立場から市場や財政などに立ち向かう理論が必要になっています。

とすれば、現代の高度市場社会に対応していくには、「オイコノミコス」の原点に戻りつつも、個人、私人といった「生活民」一人ひとりのための生活理論を改めて研究することが必要なのではないでしょうか。

一言でいえば、

アトモノミクス(Άτομο,átomo:私人・原子 + νόμος,nomos:法)
の構築です。

2018年10月30日火曜日

「消費者」論を超え、「生活民」を活かす学問を求めて!

「交換価値」や「共効」を基盤として「市場経済社会」が成立し、急速に発展するとともに、それを説明する理論として、いわゆる「経済学」が誕生し、さまざまな形で発展してきました。

それにつれて、もともと人類に備わっていたはずの「使用価値」や「私効」を重んじる「自給自足生活」は次第に影を薄め、理論的な追及もまた忘れられるようになりました。

経済学の世界では、社会や国家単位の経済構造を究明するマクロ経済学とともに、最小の経済単位である消費者(家計)、生産者(企業)、および両者が経済的な交換を行う場(市場)を分析対象として、ミクロ経済学(Microeconomics)が成立しています。

ミクロ経済学では、家計や消費行動など、個人的な経済生活を対象にして、詳細な分析を行ってはいますが、あくまでも前提になっているのは「交換価値(共効)」であり、ミクロとはいっても、有用性では「個効」の次元までです。

一方、家事や家政を対象とする家政学では、衣食住や育児・教育など、家庭での日常的な生活について、ノウハウや価値観に関する技術の研究が行われてきました。

ここでは、家庭経済学生活経済学という形で、家庭という主体がおもに貨幣を通じて社会と結びつきつつ、構成員それぞれの生活の内容を調整しているという構造について、利点や欠点などを多面的に研究しています。

だが、この分野でも、家政学原論の英訳名が「Principles Home Economics」とよばれているように、大前提となっているのは市場社会と貨幣による交換構造であり、その外縁に広がる、自律的・自給的な生活行動については補充的な位置づけです。有用性の次元でいえば、研究の対象は個効」に留まっているのです

そこで、ミクロ経済学や家政学を超えようとして、新たにわが国で生まれた生活学では、市場社会の交換経済を超えた「自己生産」や経済的生活を超える全体的な生活主体、つまり「生活者」や「生活人」をベースとした理論を追及してきました。

有用性の次元でいえば、ここで初めて「私効」を核とした生活分析の理論的な究明が始まったといえるでしょう。

しかし、その追及はさほどはかどってはいません。「生活者」を提唱した大熊信行も、「生活人」を主張した今和次郎も、すでに述べたように、さまざまな限界を示しています。
大熊信行の提唱した「生活者」像は、「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」というものですが、その生活願望を「必要」次元に限るという点で、やはり経済学の次元に留まっています。

また
今和次郎の提唱した「生活人」像もまた「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行などを厳しく排除している点で、やや狭隘な視点にとらわれています。

とすれば、生活学の今後に期待されているのは、「私効」次元から出発した生活行動論や生活構造論などではないでしょうか。

自立自助」「自給自足」といった立場から、市場社会やミクロ経済学などを軽々と手玉にとって、柔軟な生き方、強靭な暮らし方を展開する学問だと思います。

2018年10月21日日曜日

「価値創造」より「私効復活」へ!

高度市場社会においては、供給者である企業の側が、綿密なマーケットリサーチによって、顧客の需要にきめ細かく応えようとしたとしても、本格的であればあるほど、生活民の真の願望に辿り着くことはほとんど困難でしょう。

さまざまな企業がどれだけ「顧客価値」や「顧客満足」などと唱えたところで、本質的な満足にはほど遠い、ということです。

もし「十分に満足した」との回答があったとしても、それは需要者である生活民の側が、「消費者」の立場に甘んじて、とりあえず妥協した、ということにすぎないのです。

このように書くと、マーケティング関連の学者や業界などから、カスタマイゼーション(customization:顧客個別対応)という、新たな手法があるじゃないか、という反論が必ず出てきます。「個効」を顧客別に修正して、一人ひとりの「私効」を実現する、というマーケティング手法です。

だが、これについても、B.スティグレール(Bernard Stiegler)痛烈に批判しています(『象徴の貧困』)。


「カスタマイゼーション、一対一の個別マーケティング、市場のハイパーセグメント化などとしての個性化(individualization)とは、特異化(singularisation)をデジタル記号化によって特殊化(particulalisation)に変化させることであり、その記号化のコントロールとしての効果には限りなく強力なもの」となる。

「特異なもの(singulier)を特殊なもの(particulier)に変えてしまうカスタマイゼーションとは、前個体的な環境へのアクセスモードを規格統一して画一化すること」にすぎない。                   


昨今、急速に注目を集めているIT技術を駆使したカスタマイゼーション。それですら、需要者の個性を「特殊」という類型にふり分ける、一つの手法にすぎない、というのです。

価値創造」や「顧客価値」という言葉に、どことなくつきまとう虚しさ、うさん臭さの要因の一つは、こうした虚構性にあります。



供給者が新しい価値をどれほど創り出したとしても、顧客側が「個体性の衰退」や「アイデンティティーの喪失」から抜け出すのはかなり困難、といわざるをえません。

では、どうすればいいのか。スティグレールによると、「中毒的消費」や「消費依存症」を解毒するためには、新しい「生の様式」や新たな「生き方」が求められますから「象徴制度」の再構築、つまり「教育の計画」や「政治の計画」の再建、さらには「文明の大言説」の復興が必要だ、と主張しています。

この主張にはそれなりに頷けます。だが、あまりに壮大かつ長期的な改革案ですから、現実の市場社会の方向を直ちに変えるのは難しいのではないでしょうか。

とすれば、現実的な方法は、現状の市場社会を前提にしつつも、需要者と供給者の関係、生活財と商品の関わり方を、より深化させていく方向だと思います。

つまり、生活民の側から、より暮らしに身近なところから始めて、段階的に少しずつ市場社会の構造を転換していくことです。いわば「柔軟型市場社会(flexible market society)」ともいうべき方向ではないでしょうか。

具体的にはどうすべきなのか。一つの方向は、過剰な「共効」支配を抑えて、衰退した「私効」を復活させることです「共効」優先から「私効」重視への転換を図る。あるいは個効」と「私効」のバランスを回復する、という方向です。

生活民としては、マスメディアや消費市場から押し付けられる流行やライフスタイルを一旦棚上げにしたうえで、自分自身の中身や暮らしを見つめ直し、そこから改めて「何が欲しいのか」、生活願望を再構築していくことです。

過剰な消費社会に慣れた身には、簡単なことではないのかもしれません。


けれども、その可能性を探ることから、「消費者」という低位を脱却し、「生活民」の優位を復活させる可能性が生まれ、さらには市場社会そのものの再構築という、大きな方向が見えてくるのではないでしょうか。

2018年10月9日火曜日

マーケティングは何を破壊したのか?

ながながとモノへの評価観を見直してきたのは、「マーケティング」という社会的装置の問題点を根本から見直してみたいからです。

例えば、現代フランスを代表する思想家、B.スティグレール(Bernard Stiegler)は「マーケティングは、家族構造や文化構造といった象徴制度をなしくずしに破壊してきた」と告発しています(『世界』2010年3月号)。・・・【差異化手法を批判する:2016年2月11日】

さらに彼は、マーケティングの横行によって、「個々が得意な物やその特異性に感覚的に愛着を持つということができなくなった」とし、「象徴の生産に参加できなくなって、個体性』が衰退していく」とも述べています(『象徴の貧困』)。

スティグレールの批判を、これまで述べてきた「共効―個効―私効」の文脈に載せてみれば、社会的な「共効」が肥大化して、個人的な「私効」を駆逐した、あるいは供給側の差し出す「共効」に圧倒されて、需要側の「私効」創造力が衰退した、ということになるでしょう。

このようなスティグレールの告発は、単なるマーケティング批判を超えて、現代市場社会、あるいは後期資本主義社会本質的な欠陥を指弾している、ともいえるでしょう。

現代の市場社会とは、供給者と需要者の両方がほとんどの全ての生活財を、市場という社会的な場を通じて交換するという構造を持っているからです。

供給者である企業は、市場の存在を前提にして、商品の有用性を作り出し、かつ供給しています。


その有用性とは、市場を支える多くの需要者が共通して求める、社会的、共同主観的なものですから、いうまでもなく「共効」です。

つまり、商品の「共効」とは、多くの需要者が共通して商品に求める有用性、いわば有用性の〝最大共通素〟とでもいうべきものです。

需要者である個人は、通常はそれらの「共効」に従って商品を購入し、そのとおりに使用して「個効」を享受しています(ヰティリゼ1)。

だが、そうでないケースもあります。個性や独創性を重んじる個人の場合は、純個人的、主観的な「私効」を目的に、既存の商品を購入したうえで、自分なりの手法で使用します(ヰティリゼ2)。

後者の場合、一つの商品の有用性は、市場での最大共通素を前提にしながらも、その中から個人的、主観的に選ばれています。

この時、個性的な需要者が商品に求めるものは「私効」ですが、それは有用性の“最小共通素〟となる場合が多いでしょう。なぜなら、彼らは自分自身の求める有用性の〝最小要素〟を求めて商品を購入し、それらを独自に組み合わせて使いこなしていくからです。

こうした需要が増えてくると、供給側でもそれに対応して、できるだけ多くの人に共通する〝最小要素〟を商品におりこむようになります。

となると、一つの商品の持つ「共効」と「私効」には微妙なズレが出てきます。



企業の側では、できるだけ多くの顧客の求めに共通する有用性を抽出して、商品の「共効」を作り出そうとします。

これに対し、純個性的な個人の側ではできるだけ自分だけの有用性を求めて、商品の「私効」を購入しようとします。



両者は当然重なっていますが、本質的にいえば、最大共通素と最小共通素がぴったり一致するのはごくなことでしょう。

そこで、企業は少数需要者の「共効」の一部を切り捨てることで大量生産を可能にし、また個人は自分なりの「私効」をある程度犠牲にすことで、己の消費行動を実現していきます。

ところが、現代のような高度市場社会では、先に述べたように、ほとんど全ての生活財が生産者の手で生産され、市場を通じて供給されていますから、需要側に立った生活民の一人ひとりは生産側の「共効」に従わざるをえません

つまり、現代社会では、市場性が私用性に優越し、最大共通素が最小共通素に優越し「共効」が「私効」を圧倒しているのです。そこに現代市場社会の、基本的な問題点があるといえるでしょう。

2018年9月29日土曜日

「限界効用」の限界!

3つの効用を、新古典派経済学の「効用」観と比較してみると、「共効」は一定の社会集団が共通に認めた有用性ですから「全部効用」に、また「個効」は個人が共効に基づいて認め、かつ実際に感じる有用性ですから、概ね「限界効用」に、それぞれ相当するでしょう。

しかし、「私効」は個人が社会的な「共効」とはまったく別個に、純私的かつ独創的に認める有用性ですから、新たに「生成効用」、あるいは「独創効用」とでも名づけるべきものです。

とすれば、同じ個人的な「効用」ではあっても、「個効(限界効用)」と「私効(生成効用)」の間には大きな差異が生まれてきます。

この件については、すでに【
限界効用理論を超えて!】( 2015年10月22日)の中で論じていますが、改めて整理しておきましょう。

個効」は新古典派経済学の「限界効用」にほぼ相当していますから、「全部効用(共効)」という有用性に従いつつ、利用の数が増えることによって個々のモノの有用性が次第に減少していく、という特性を持っています。

それゆえ、効用の量的、時間的な変化においては「全部効用」との差を強調していますが、中味の差、つまり質的な差異についてはまったく配慮していません。

一方、「私効」の方は、個々のモノの中に、使用者が共効とはまったく別の有用性を見つけ出し、自ら生成しつつ愛着を増していくという、能動的な特性を持っています。

これは「全部効用」や「限界効用」とは異なる、質的な差異を意味していますから、必ずしも時間的な逓減傾向を示すものではなく私人の評価や気分によって増えたり減ったりするものです。

その意味で「私効」は「限界効用」という共同主観を超えて、個人主観的な「生成効用」の次元を表出することになります。

いいかえれば、共同主観的な経済学の「効用」観を超えて、新たに個人主観的な生活学の「効用」観を提起しているともいえるでしょう。


大和言葉でいえば、「とも(共)きき(効)」「おの(己)きき」を超えて、「われ(我)きき」が生まれるということです。

もしさまざまな供給者が、このような「私効(生成効用)」を生活民に提供しようとするのであれば、従来の「限界効用(個効)」を前提にした経済学やマーケティングの諸理論を大きく超えて、まったく新たな展開が期待できるでしょう

2018年9月21日金曜日

「効用」とは何か・・・3つの定義

「価値」の定義には3つある、と述べてきましたが、共同主観と個人主観という視点から見ると、「効用」にも3つの定義がある、と言えそうです。

①人間集団が一つのモノを評価する場合、そのもの特有の「有用性=効用=ねうち」という視点と、他のモノと比較するという「相当性=価値=あたひ」という視点の、2つを分けたうえで、両者をクロスさせている。

特定の社会集団は、さまざまなモノの「相当性=効用」を、他のモノの「相当性=効用」と比較して、一定の評価順位である「価値」を定めている。

個人が一つのモノを評価する場合、社会的な「効用」に従って使う場合は「効用1(有用性1)に、独創的な使用を編み出す場合は「効用2(有用性2)になる。

このため、「効用=ねうち」という概念はさらに3つ分かれます。

共効Social Utility・・・ラング=社会集団が共同主観として認めた有用性であり、「共同効用」、略して「共効」とよぶことができる。

個効Individual Utility・・・パロール1=個人使用において、個人が社会的効用を受け入れた「効用1(有用性1)」であり、「個人効用」、略して「個効」とよぶことができる。

私効Private Utility・・・パロール2=私的使用において、個人が独自に創り出した私的な「効用2(有用性2)」であり、「私的効用」、略して「私効」とよぶことができる。

この件については、すでに[生活民は「価値」よりも「私効」を重視!](2016年11月22日)などで詳しく述べています。ご参照ください。


以上のように、効用」という概念は、「共効」「個効」「私効」の3つに分割できる思います。




具体的な事例を挙げておきましょう。

食酢の効用・・・「共効」は基本的な調味料であり、多くの使用者はこれを「個効」として、料理の味付け使っています。しかし、一部の人たちは、幾分水で薄めたり、大さじ1~2杯をそのまま洗濯機へ投入し、洗濯ものをふっくらしあげる柔軟剤としても使っています。これは私人が新たに見出した食酢の新たな「ねうち」であり、まさに「私効」とよぶべき有用性でしょう。

冷蔵庫の効用・・・電気冷蔵庫は、食べ物や飲料を保管できるという「共効」を持ち、それを利用する使用者は実際に冷やすという「個効」を享受しています。しかし、ワンルームマンションなどを実態観測すると、冷蔵庫の中には薬品化粧品はもとより、銀行通帳現金まで、食べ物以外のさまざまなモノが入っています。冷凍庫に生ごみ入っているケースもあります。回収日が決まっているため、ゴミ箱では悪臭が立ちますから、冷凍したうえでまとめて捨てる、という生活の知恵です。狭い部屋の中で合理的な収納を望む単身者にとっては、「総合保管庫」や「冷凍ゴミ置き場」などという、大胆な「私効」にかわっているといえるでしょう。

このように「価値」の3定義を見直していくと、「効用」にもまた3つの定義が浮かんできます。

2018年9月10日月曜日

「価値」とは何か・・・3つの定義

これまで述べてきたことを、とりあえず整理してみましょう。

モノやコトの「価値」とは何であるのか、簡単にいえば「人間がモノやコトに対して抱く評価」ですが、その内容については幾つかの説があり、代表的なものは次の3つに集約されます。



①価値とは、有用性と相当性が絡み合った観念、つまり「有用性(使用価値)×相当性(交換価値)」である。

最も常識的な定義であり、古代ギリシャ以来の西欧的「価値」観、あるいはそれを継承・発展させたA.スミスの視点は、このあたりにあったように思われます。

日本人の場合、古くは「ねうち=有用性」と「あたい=相当性」を分けていたようですが、江戸時代に流入してきた西欧的な「価値」観に影響されて、それ以降は両者の複合した観念を受け入れたものと思われます。

②価値とは「相当性(交換価値)を意味する。

モノやコトへの評価を、有用性(使用価値=効用)と相当性(交換価値)に分けた上で、価値とは「相当性(交換価値)」だけだ、という立場です。

スミスを継承したD.リカードK.マルクス客観価値説がこの立場ですが、とりわけマルクスは、「価値」の本質は相当性にあり、有用性その素材にすぎない、と考えています。

言語学者のF.ド.ソシュールも、言葉の「価値」を言葉の「語義」と峻別して、相当性こそ「価値」だ、と述べています。但し、マルクスが「価値」の本質を交換尺度となる労働量の蓄積とみているのに対し、ソシュールは単語やモノの、単なる対立的な関係であり、社会的集団が認めた区分と考えています。

③価値とは「有用性(使用価値=効用)を意味する。

価値の本質は、人間がモノやコトに対して抱く評価内容(効用)そのもの、という立場であり、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガーL.ワルラスらが独自に唱えた主観価値の主張です。

ジェヴォンズによれば、「価値」という言葉は曖昧であるから、モノへの評価の中から購買力=交換比率、つまり相当性を排除し、そのうえで、使用者の立場から見た、モノの有用性のみ抜き出して、改めて「効用」という名称を与えています。

この立場を引き継いだ主観価値説では、「効用」とは個人がモノに感じる、主観的な評価である、というのが定説です。



 
3つの主張は「価値」という言葉の曖昧性をどのように取り扱うか、という立場の違いを示しています。

しかし、この言葉はもともと、有用性と相当性の複合した観念を意味しており、それがゆえに現代社会でもこの両義性が一般用語として生き残っています。

とすれば、やはり原点に立ち戻って、「有用性×相当性」と理解するのが適切なのかもしれません。

つまり、「新たな価値を持った商品」という場合も、その「価値」とは「新たな有用性を持つこと」とともに、「その有用性が従来の商品や他の商品より優れている」という要件を満たしていることが必要だ、ということです。

当たり前のようですが、実はここに重要な条件が潜んでいます。つまり、新しい「価値」が生れるためには、新規の有用性に加えて、比較の対象になる、一群のモノ集団が必要だ、ということです。

そして、もう一つ、新しいモノが従来のモノや他のモノより優れていると評価できるためには、一人ひとりの個人的評価を超えた、一定の社会集団の評価が必要だ、ということです。

一人の人間が「これは有用性が高い」と評価しても、多くの人々が認めなければ、「優れている」という相当性は定着しません。

つまり、有用性も相当性も、一定の社会集団によって認められることが必要なのです。それは、社会という人間集団が共通して抱いている、特定のものの見方、社会学が「共同主観」とよび、通俗的には「共同幻想」といわれているものです。

主観価値説では、個人がモノに感じる主観的な評価を「効用」とよんで、共同主観や客観を重視していません。しかし、個人が感じる「効用」自体もまた、ほとんどの場合は、一定の社会集団が認めた「有用性=効用」を受け入れているケースが多いのですから、完全な個人的主観に基づいている、というのはやや無理があるでしょう

そう考える時、「価値」が生れるには、モノ集団と人間集団という、二重の「集団」が前提になっている、といえるでしょう。

2018年8月29日水曜日

社会的な「ねうち」と純私的な「ききめ」を峻別する!

前回述べたように、私たちは毎日の暮らしの中で、一方ではパロール1によって他人とのコミュニケーションを成り立たせ、他方ではパロール2によって詩や散文などの創造活動を行っています。

パロール2は極めてマイナーな用法ですが、それでも社会的に流布し集積させることで、やがてはラングそのものを変革していくこともできます。

こうした関係は、言葉の使用法の延長線上に生まれる、道具や食べ物などの使用法と当然連動していますから、下図に示したような対応が成り立ちます。




 
どのような対応なのか、説明しておきまましょう。

①言語(ランガージュ:language)で作られた「コト界」と道具(ヰセージュ:usage)が通用している「モノ界」は上下に対応しています。

②コト界で社会的な「語義」に従って話す「パロール(parole:会話)1」は、モノ界では社会的な「使用価値」に従ってモノの「効用1」を使う「ティリゼ(utiliser=使用)1」に対応します。


③コト界で新たな「意味」を創造しながら話す「パロール2」は、モノ界で純個人的に独創的な「効用2」によってモノを使う「ヰティリゼ2」に、それぞれ相当します。

以上のような対応によって、パロール1における「意味1」とパロール2における「意味2」の関係は、「ヰティリゼ1」における「効用1」と「ヰティリゼ2」における「効用2」の関係に変換できます。

つまり、私たちは一つのモノを、一方では社会的な習慣や先例に基づく「効用1」、つまり「ねうち」として使っています。

しかし、もう一方で、私たちは自らの工夫やアイデアを加えた「効用2」としても使用することができ、その使用法が広がることによって、社会的な「効用1」を変革していくこともできる、ということです。

効用=ききめ」とみなせば、「効用2=ききめ2」を独創することによって、効用1=ききめ1」=「使用価値=ねうち」もまた変革できることを意味しています。

以上のように、言語学、とりわけソシュールの言語学を応用すると、モノに関わる3つの評価、つまり社会的な「使用価値=ねうち」や「交換価値=あたひ」と純私的な「効用1=ききめ1」や「効用2=ききめ2」の関係を明確に表すことができます。

同時に、大和言葉における「ねうち」「あたひ」「ききめ」の違いもまた、明らかにすることもできるでしょう。

2018年8月19日日曜日

言語学で「ねうち」と「ききめ」の違いを探る!

ソシュールの言語学の視点に立つと、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係であり、両方とも一定の人間集団によって認められたもの、ということになります。

ところが、有用性には人間集団の認知や共同主観がなくても、一人ひとりの個人が独自に認めるという次元があります。一人ひとりの個人にとっての「有用性」、つまり「効用=ききめ」の方はどのように位置づけられるか、という問題です。

経済学の視点を超えて、言語学の「価値」観をあえて紹介したのは、これを説明するためです。

言語学の視点を広げていくと、「効用」には共同主観的な次元だけでなく、純個人的な次元があり、両者のダイナミックな関係が、やがて有用性の中身を革新し、さらには社会そのものも変革していく可能性が見えてきます。

どういうことなのでしょう? ソシュールを継承した言語哲学者・丸山圭三郎は言葉の示すイメージについて、「意義(signification)」と「意味(sens)」の違いを指摘しています(『ソシュールの思想』)。「意義」という訳語は、先に述べたように、近年では「語義」と訳されていますから、ここでも「語義」を使うことにします。

その「語義」と「意味」はどう違うのか。「語義」とは、一つの言葉が辞書や文法といったラング(langue)の中で使われる場合であり、「意味」とは、それが個人的なパロール(parole)の中で使われる場合です。



ラングというのは、日本語、英語、フランス語など、それぞれの言語圏に属する人々が歴史的に共有している社会制度、共同主観です。この制度の中では、文法と辞書で示されているように、一つの言葉の語義と用法が、共同体の伝統と慣習によって、一定の範囲に定められています。

他方、パロールというのは、個々人がラングを使って実際に行なっている言語活動です。丸山先生によると、このパロールにも、既成のラングに忠実に基づいて会話する経験的使用」=パロール1と、ラングを使って全く新たな関係を作りだす「創造的使用」=パロール2の、2つのケースがあるようです。

他人とコミュニケートするには、互いに意味や用法を共有している言葉を使うのが便利ですが、私的なメモや日記、あるいは独創的な詩歌や創作を書くには、自分だけに通じる意味や用法も許される、ということです。

それゆえ、2つのケースによって、個々の「言葉」の意味もまた変わります。パロール1では「語義」の比重が多い「意味1」となり、パロール2では独創的な内容の比重が濃い「意味2」となります。

この差異、つまりコト次元の「意味1」「意味2」の差が、モノ次元の「ねうち」と「ききめ」の違いを創り出すのではないでしょうか?

2018年8月10日金曜日

「語義×価値」から「ねうち×あたい」へ!

ソシュールの「価値」観をモノ次元に応用すると、言葉の「語義」と「価値」の関係は、モノの「使用価値=ねうち」と「価値=交換価値=あたい」という関係に相当するでしょう。

前提になっているのは、言語次元の「語義」や「価値」が社会集団の慣用と同意によって決まっているのと同様、モノ次元の「使用価値=ねうち」や「交換価値=あたい」もまた、一人ひとりの個人ではなく、社会集団の慣用と同意によって決まっている、ということです。

そのうえで、一つのモノの「ねうち」という言葉を考えてみると、それは「ネウチ」という音声シニフィアンが、ある社会集団にとって「特定の役に立つ」という特性を物的シニフィエとする垂直の関係、つまり「語義」関係ということができます。
 



例えば、パンというモノの「ねうち」は、「食用になる」という特性を示します。毛糸というモノの「ねうち」は、「温かさ」という特性です。両方とも「ねうち=有用性」という語義が「役立つ」という特性を支えるように一体化しています。

他方、モノの「あたい」は、そのモノだけで決まるのではなく、他のモノの「有用性」や「無用性」との〝比較〟や〝対比〟によって定まります。


パンは石よりも「食用になる」度合いが高いから「あたい」があり、毛糸は木の皮より「温かい」比率が高いから「あたい」がある。いずれも有用と無用という比較のうえで、より有用なもの」や「より無用ではないもの」が「あたい」となります。

とすれば、「語義=ねうち」とは一つのモノの有用性がそのモノの特性と一体化している状態、「価値=あたい」とは一つのモノの有用性が他のモノの有用性と比較して決まる状態、ということができます。

いいかえると、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係といってもいいでしょう。

このように、言語学の見解を取り入れると、社会的な意味としての「ねうち」と「あたい」の違いがより明確になり、新たな地平が開けてきます。

2018年7月30日月曜日

近代言語学は「価値」という言葉をどうとらえているのか?

大和言葉で「ねうち」や「ききめ」の意味を考えてきましたので、言語学ではどのように考えているか、を見ておきましょう。

経済学の「価値・効用」観は現代社会に広く浸透していますが、この視点を継承しつつ、より原理的な次元で「価値」をとらえ直しているのが、人間の思考行動の根源を研究する言語学です。

例えば、近代言語学の創始者F.ド.ソシュールは、言葉の「価値(valeur)を「意義(signification=意味作用)との対比によって、明確かつ精密に説明しています(『一般言語学講義』)。

「意義」という訳語は、小林英夫による戦前の初訳によるものですが、近年では「語義」と訳されており、この方が適切だと思いますので、以下では「語義」を使うことにします。

ソシュールによると、一つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=Sa=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=Sé=意味されるもの)が、一体的に結びついたもの(signe=Sé /Sa)です。

この時、あるシニフィアンが特定のシニフィエと結びついて表示するものが言葉の「語義」であり、他のシーニュとの相対的、対立的な関係から決定される立場が言葉の「価値」である、と説明しています。

具体例でいえば、「イヌ」という音声が「四足の小動物・犬」のイメージと結びついて示すものが言葉の「語義」です。

他方、「四足の小動物・犬/イヌ」という言葉と「四足の小動物・猫/ネコ」という言葉が、それぞれ別種の小動物を示す能力が言葉の「価値」です。つまり、言葉の「価値」とは、犬と猫を区別できることです




ソシュール自身の解説によると、図に示したように、言葉の「語義」とは音声や文字が特定のイメージと【↕垂直の矢)】で結びついた状態であり、言葉の「価値」とは他の言葉(イメージ/音声・文字)との比較・対立する【↔(水平の矢)】としての関係を示しています。

垂直の矢というは、一つの音声が一つのイメージと一体的に結びついた、独立的な状態であり、水平の矢というのは、さまざまな音声の地平と、さまざまなイメージの地平が、重層的に広がって、ある音声とあるイメージが上下に対応している、並立的な状態です。

この対比は、言葉(コト)と対象(モノ)の関係を示したもので、モノとコトとの関係を「垂直」コトとコトの関係を「水平」とみなしています。

大和言葉でいえば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、あたい」部分のみに純化させました。その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。


さらにソシュールは、こうした「価値」観は「いずれの科学」にも「あらゆる文化次元の価値」にも適用できると付言し、その実在形として「貨幣」を想定しつつ、価値の成立条件を次の2つに一般化しています。

①その価値の決定を要するものと交換しうるような一つの似ていないものが存在すること。例えば、5フランの貨幣は、貨幣ではないパンやブドウ酒の一定量と交換できることが必要である。

②その価値が当面の問題であるものと比較しうる幾つかの似ているものが存在すること。例えば、前述の5フランが同じ貨幣体系に属する1フラン貨幣や10フラン貨幣と比較できることが必要である。

「価値」を「相当性=あたい」と理解した場合にも、その内容にはさらに2つの条件があり、一つは「交換可能性」、もう一つは「順位比較性」である、ということです。

そして、この「価値」という概念は「秩序を異にする物の間の対当の体系」であり、それを成立させるのは、個人ではなく、社会的な集団の認知だけ、とも述べています。

「(社会)集団は、価値の成立のために必要であって、これの唯一の存在理由は、慣用と一般的同意のうちにある。個人一人ではそれを一つとして定めることはできない」ということです。

以上を大和言葉で説明すれば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、「あたい」部分のみに純化させました。

その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。

しかし、ここでは「効用=ききめ」について、まったく言及していません。

これについては、言語共同体における社会的規約の体系である「ラング (la langue)ではなく、個人がそれを実践する時の発話行動である「パロール (la parole) 」として考察しているようです。 

2018年7月20日金曜日

「価値」と「効用」・・・大和言葉で考える!

これまでの流れをちょっと整理しておきます。

大和言葉で「ねうち(有用性)と「あたひ(相当性)に分かれていた「ありがたみ」という観念は、仏教や西欧思想の流入によって「價値(価値)という翻訳語に吸収され、「有用性+相当性」の二義性を持ったまま、現代日本語の中へ定着しています。

このうち、現代の経済学で使われている「価値」については、客観価値説と主観価値説でその内容が幾分異なっています。

客観価値説では、「価値(value)という言葉に「効用(utility)と「購買力(power of purchasing other goods」の2つの意味を含め、前者を「使用価値(value in use)」、後者を「交換価値(value in exchange」と名づけています(A.スミス)。

主観価値説では、「効用(utility)を「人間の要求から生じる物の状況」と定義したうえで、「使用価値」を「全部効用」、交換価値を「購買力」、そして両者の間で動く有用性の変化を「最終効用度」と、3つに分けています(W.S.ジェヴォンズ)。

両者の関係は、交換価値=購買力使用価値=全部効用+最終効用度ということになるでしょう。



漢字の「價値」と比較してみると、「」が交換価値であり、「」が使用価値または効用ということになります

大和言葉と比較すると、「あたひ」=交換価値、「ねうち」=使用価値、「ききめ」=効用 ということになるでしょう。「ねうち」(使用価値)と「ききめ」(効用)の関係は、客観的な有用性と一人一人の主観的な有用性の違いということになります。

以上の諸関係を、当ブログ、「生活民マテリアリング(LC-Materialing)」の立場で整理するとききめ」=主観的な「効用」をベースとしつつ、客観的な「使用価値」=「ねうち」に対応していかなければならない、ということになるでしょう。

2018年7月10日火曜日

「価値」や「効用」という訳語は適切なのか?

価値」という漢字も「効用」という漢字も、ともに大陸の漢字文化の中から、欧州語のValueやUtilityの意味に似た文字を探し出して、当てはめられたものです。

価値」は、古墳時代に「價直(げじき=呉音、かちょく=漢音)」という漢字で導入され、江戸時代になって、欧州語の翻訳語として「價値(かち)」という言葉に置き換えられ、昭和後期に「価値(新字体)」になりました。

効用」の方も、前回まで見てきたように、明治前期に「利用」「実利」という漢字で導入されましたが、明治末期から大正期にかけて「效用(旧字体)へ、そして昭和後期に「効用(新字体)に至っています。

かくして、経済的な意味での「価値」や「効用」という言葉は、代経済学の基本用語となり、日常用語としても定着しているようです。

しかし、2つの言葉を、私たち日本人の基本的な言語感覚である「大和言葉」の立場から見直す時、いささか狭いようにも感じられます。



すでに述べたように、「価値」に相当する大和言葉は「ねうち」であり、「音(ね)を打(う)つ」ことです。ポンポンと西瓜を叩いて、食べごろを推し量るように、モノの音(ね)を聞いて、モノの有用性である美味しさを推測することを意味しています。

一方、「効用」に相当する大和言葉は「ききめ」と、筆者は推定しています。「きき」と「」が繋がったもので、「きき」は「きく(聞く)」の変形、「め」は「めやす(目安)」の略語です。つまり、「音(ね)を打っ」た音(ね)を「聞」いて、「目(で計る)」ことだと思います。

大和言葉は私たち日本人の言語感覚のベースとなるものです。それは、日本人が感覚で把握した現象世界を、最も元始的な言語である「オノマトペ(擬声語)を基礎にして作りあげた言葉です。

それゆえ、「言語阿頼耶識」と井筒俊彦先生が定義された通り、無意識次元から意識次元の言葉を作り上げていく力を持っています。

この立場から見る時、移入用語である「価値」や「効用」という言葉は、どのような位置づけになるのでしょうか。

2018年7月9日月曜日

Utility は「効用」より「致用」と訳すべきだった!

小島祐馬先生(京都帝国大学教授)の前掲論文「Utility ノ訳語ニ就イテ」が、「京都大学学術情報リポジトリ」で公開されていますので、その要旨を載せておきましょう(原文は旧文体表記のため、筆者が現代文表記に翻案しています)。


  

●この論文ではUtilityの意義を「財物が人間の欲望を満足させうる力」と定めておいて、然る後にこれが訳語の富否を検することとしたい。

●Utilityの訳語として従来用いられたものは数種あるが、今日最も勢力のある学者問で用いられ、かつ問題となっているのは、「利用」と「効用(原文では效用」との二つであると思うから、今回はこの二つについて研究するに留める。よって、まず「利用」の語を吟味し、次に「効用」に及ぶことにする。

●(『尚書』『左伝』『荘子』『漢書』などでの古人の用法)を要約すれば、文字の本来の意味より見て、「利用」とは「人(または他の人格者)が事物の用を利する」という意味であり、「事物が人の用を利する」という意味ではない。従ってUtilityを以て「財物が人の欲望を満足せしむる力』と解する以上、これを「利用」と訳するのは妥当でない(以下・略)。

●Utilityの訳語として「利用」よりも更に勢力を有する「効用」という文字が果して妥当なるか否か(中略)。「効用」の出典については、余の浅學なるか、末だこれを経傅の中に見出すことができない。余の知れる範囲において、その最も古きものは『後漢書』の事例(中略)であり、この場合の「効用」は「人が国家のために用を効する」を意味している。

●「効用」の(中略)「何のために用を効するか」という目的物は、あるいは國家であり、社会であり、あるいは君主、あるいは政府と、場合によって異なることあるが、その用を効する意味においてはどれも同じである。(中略)別の意味に使用せられていることを、かつて見たことがない。

●「効用」の「効」はもとより「致す」の意味であって、「効用也」とか「効猶致也」とかいう訓詁は『左伝』『国策』『史記』『漢書』など多く散見しておるところである。されば「効用」という代わりに、「致用」といってもまた同義であって、かかる用法も随分多い。

●「致用」もやはり、「効用」と同じく、「人が国家若くは社会のためその能力を尽くす」ことをいったものである。

●しかし、『荀子』(中略)の注には「物皆豊其美、而来為人用也」とあり、ここでは「物が人に役立つ」ことをいうものである。

●即ち、この「致用」の意味こそUtility の意味によく適応するものということができよう。

●なお「効用」の用例については、未だ『荀子』中の「致用」の如きものを見出さざるは甚だ遺憾であるが、併し前に君国の為めに力を尽くす意味においては、「効用」と「致用」が全く同様に用いられることを明らかにし得たのであるから、物が人の用に役立つ能力を指す場合に於いても、かつて用例なき「効用」を、かつて用例ある「致用」と同様の意味に用いて行くということは己むを得ざる場合の造語としては、甚だしき不条理ともいえない

●よって、「効用」という訳語も文字本来の意義より見て決してUtilityの意味に全然適応したものということは出来ないのであって、新たに訳語を選定する場合であつたならば、今少し訪求の余地なきかと思うのであるが、之を「利用」という訳語と比較して文字の意義上その優劣を定めんとならば、それは「効用」の「利用」に優ること数等であると思う。

 
●何となれば両者ともに現在訳語として使用している意味においては、正確なる出処を欠くことは同一であるも、造語の上より考へて、「利用」は他に紛らわしき意味あり、かつ之を訳語とするについて相当の根拠を欠くのに反し.「効用」は他に紛らわしきおそれなく.かつUtilityの訳語とするについて相当の根拠を有するがためである

●「利用」と「効用」以外において、如何なる文字が果してUtilityの訳語として最適当なるものなるかということを、今少しく述べてみたいが、従来〈用い慣れたる〉「効用」が字義の上より見ても、甚だしき不都合なき以上、実際上には最早必要なき穿鑿であり、かつこの上無味乾燥なる引用語を羅列することも如何と思うが故に、今は暫く省略する(後略)。


 
以上を整理してみますと、次のようにまとめられます。

➀Utilityの意義を「財物が人間の欲望を満足させうる力」と理解する。

②「利用」という言葉は、中国の古典では「人(または他の人格者)が事物の用を利する」という意味であり、事物が人の用を利する」という意味ではないから、Utilityを「利用」と訳すのは妥当でない

③「効用」という言葉は、中国古典ではほとんど使用されておらず、使用されている場合でも「人が国家、社会、君主、政府などのために用を効する」を意味している。

④「効用」の「効」は「致す」の意味であるから、「効用」の代わりに「致用」ということもできるが、その意味もまた「人が国家や社会のためその能力を尽くす」ことである。

⑤しかし、『荀子』では「致用」が「物が人に役立つ」ことも意味しているから、これこそUtility の意味によく適応している。

⑥「効用」と「致用」が同様に用いられるケースがある以上、物が人の用に役立つ能力をさす場合、かつて用例なき「効用」を、かつて用例ある「致用」と同様の意味に用いることはやむをえない

⑦「利用」という訳語が他に紛らわしい意味があるのに対し、効用」の方は紛らわしき使用のおそれがない点で優れている。

⑧「効用」という言葉がすでに用い慣らされており、字義の上でも甚だしき不都合がない以上、これ以外の訳語を探すのは無意味である

小島先生としては、本来なら「致用」の方が望ましかったのですが、すでに使用が広がっている以上、効用」という訳語でやむをえなない、ということでしょう。

要するに、「効用」という言葉もまた「価値」と同じく、大和言葉の中からではなく、大陸の漢字文化の中からは探し出されたものだ、といえるでしょう。