2015年3月30日月曜日

社会界を再認識する!

生活マンダラ・立方界の中から、もう一つ、社会界の構造を眺めてみましょう。

社会界は、生活体の中の、図に示した側面に相当する世界であり、【遊戯・日常・儀礼】×【感覚・認知・言語】によって、9つの世界(院)に分かれています。




この9院に、私たちの世の中に存在する、さまざまな社会制度や社会装置を当てはめてみると、下図のように位置づけられます。




上段の言語レベルでは、
[遊・社・言]には、文学界(言語による虚構世界)、美術界(記号による虚構世界)など
[日・社・言]には、法曹界(言語による日常規制)、報道界(言語・記号の作りだす日常世界)など
[儀・社・言]には、科学界(言語の厳密さを追及する世界)、金融界(貨幣という言語的価値を絶対視する世界)など


中段の認知レベルでは、
[遊・社・認]には、娯楽界(遊びを実現する現実的な世界)、賭博界(架空の勝敗を楽しむ世界)など
[日・社・認]には、労働界(生活の糧を稼ぐ世界)、消費界(生活に必要な物資を求める世界)など
[儀・社・認]には、教育界(生活に必要な社会的知識を教える世界)、交通界(生活・労働・余暇他に必要な移動を実現する世界)など


下段の感覚レベルでは、
[遊・社・感]には、音楽界(聴覚による虚構世界)、スポーツ界(体力による虚構闘争の世界)など
[日・社・感]には、療養界(心身の維持・回復に関わる日常世界)、居住界(身体を包む環境世界)など
[儀・社・感]には、宗教界(原始的感覚=象徴で真実を実現する世界)、ギフト界(原始的交換形態=象徴交換を実現する世界)など


生活マンダラ・立方体から眺めると、既存の学問や常識でとらえられていた、私たちの周りの諸世界が、まったく別の姿で浮かび上がってきます

2015年3月25日水曜日

遊戯界を展望する!

生活マンダラ・立方界の中から、遊戯界の構造を眺めてみましょう。
 

遊戯界は、生活体の中の、図に示した側面に相当する世界であり、【個人・間人・社会】×【感覚・認知・言語】によって、9つの世界(院)に分かれています。



このうち、代表的な院の中味をみてみると、

[遊・社・言]は文学、プロスポーツ、ゲームなどの遊戯制度を、
[遊・間・認]は音楽演奏、描画、テレビドラマ鑑賞などの遊戯行為を
[遊・個・感]は混乱あそび、酩酊、エクスタシーなどの快楽行為を

それぞれあげることができます。




フランスの思想家、ロジェ・カイヨワ(Roger Caillois、1913~1978)はその代表作『遊びと人間』の中で、さまざまな遊びを4つの類型に分類しています。





 ①アゴン(競争)運動や格闘技、子供のかけっこなど。
 ②アレア(偶然)籤(くじ)、じゃんけん、賭博など。
 ③ミミクリ(模倣)演劇、物真似、ごっこ遊びなど。
 ④イリンクス(めまい)メリーゴーランド、ブランコなど。

これを遊戯界9院にあてはめてみると、おおむね下図のようになるでしょう。





ほぼ全体を覆いますが、[遊・個・言]、[遊・個・感]、[遊・社・感]などの分野では、まだまだ新たな遊戯行為が考えられます。

例えば、[遊・個・言]では一人替え歌や脳内ゲームなど、[遊・個・感]では一人酩酊や体感ゲームなど、[遊・社・感]ではディスコや熱狂コンサートなど、といったものです。

生活マンダラ・立法体を考えることによって、私たちは遊戯の世界より広く、より深く把握することができるようになります。 

2015年3月22日日曜日

生活体マンダラ・立方界を提案する!

生活体はどのような構造になっているのでしょうか。

3つの軸によって【個人・間人・社会】【感覚・認知・言語】【遊戯・日常・儀礼】の各要素をクロスさせると、3×3×3の、27の小立方体に分割できます。




この立体的な構造を詳しく読み解くために平面化すると、下図のようなマンダラ状のイメージが浮かんできます。密教の曼荼羅図に因んで、とりあえず「生活体マンダラ・立方界」と名づけ、その内部を「院」とよぶことにしますと、次の諸点が指摘できます。



①この図は、9つの大方形(界)と、それぞれの内部の9つの小方形(院)によって、全体としては81の小方形から構成されています。

②9つの大方形は、9つの小立方を上下・左右・前後の、3つの断面で平面化したものです。

③81の小方形は、9つの小立方体の特性を表すもので、例えば(個・感・遊)や(間・認・日)のように表現されています。

④81の小方形は、9つの小立法体を3面からとらえたものですから、同じものが3つの大方形の各々に現れて、合計それぞれ3度出現しています。

⑤9大方形とそれぞれの内部の9小方形の意味を読み解くことによって、私たちの生活の個々の部分の意味が明らかになってきます。

2015年3月19日木曜日

これが生活体だ!

私たちの生きている生活の場は、第1軸(感覚・言語軸)、第2軸(個人・社会軸)、第3軸(真実・虚構軸)の3つ軸で構成されています。

 
フッサールの提起した「現象学」では、私たちが生きている物理的、心理的空間のことを「生活世界」とよんでいますから、私たちの生活世界は3つの軸で構成された立方体である、と言い換えることができます。

これこそ、「生活者」や「生活人」に代えて、筆者が新たに提起した「生活体」です。近代哲学、象徴人類学、言語学などの現代思想の最先端を応用して、生身の人間の全体像を描き出した、新たな生活主体です。

この生活界の内部は、幾つかの小世界に分かれています。大きく分ければ、【個人・間人・社会】【感覚・認知・言語】【遊戯・日常・儀礼】をクロスした27の世界です。




2015年3月13日金曜日

前後軸が作る3つの生活願望・・・真欲・常欲・虚欲

「メタ・メッセージ論」では、私たちの生活世界をとらえる言葉の機能には、大別して2つがある、と述べています。

1つは個々の単語がさまざまなモノやイメージを示す「基本的なメッセージ」の次元であり、もう1つは幾つかの言葉がまとまって一定の約束事を示す「超越的なメッセージ」の次元であす。

こうしたメタ・メッセージ機能によって、私たちの言語空間は、言葉の示すことを全く疑わないですべて真実とみなす場を「儀礼界」、逆に言葉の示すことはすべて虚構とみなす場を「遊戯界」、これら2つの狭間にあって真偽が曖昧なままの場を「日常界」、の3つに大別できます。改めて整理してみると、次のようになります。

儀礼界

言葉の示すことを全く疑わないで、すべてを真実とみなすメタ・メッセージの場。儀礼や儀式に代表される空間。

日常界

真実と虚構の二つの空間の狭間にあって、虚実の入り混じった場。私たちが毎日暮らしている日常の空間。

遊戯界

言葉の示すことはすべて虚構とみなしたうえで、その嘘を楽しむメタ・メッセージの場。遊戯やスポーツに代表される空間。

3つの空間論では、儀礼⇔遊戯、真実⇔虚構という対応が前提になっています。


だが、この理論をさらに拡大していくと、日常の生活行動においても、一方では言葉の示す目標を実現しようと努める緊張や集中、あるいは学習や訓練が、他方では言葉の作った目標から敢えて外れようとする弛緩や怠惰、あるいは放蕩や遊興といった対応が可能になります。また経済的な行動においても、目標をめざした節約や貯蓄と、目標を緩める浪費や蕩尽といった対応も考えられます。

とすれば、この軸では、一方では真実、儀礼、緊張、勤勉、学習、訓練、節約、貯蓄など、他方では虚構、遊戯、弛緩、怠惰、遊興、放蕩、浪費、蕩尽などを、それぞれキーワードとする両極が想定できます。

さらには、それらの行動を促す生活願望として、真欲(真実欲)、常欲(日常欲)、虚欲(虚構欲)の、3つを想定することができます。



2015年3月12日木曜日

前後軸が作るメタメッセージの世界

第3の軸は、言葉自体のもう一つの特性が作りだす真実・虚構の軸です。

第1の軸(感覚・言語軸)と、第2の軸(個人・社会軸)によって、生活構造の縦横が浮かび上がってきますが、言葉にはもう一つ、真実と虚構を示す機能があります。

言葉というものは、「虚実をともに表現する」といわれているとおり、真実を現すこともありますが、真っ赤な嘘を示すこともあります。一連の言葉を聞いて、それがすべて本当だと理解するケースもあれば、すべてが嘘だと判断するケースもしばしば経験することです。

つまり、言葉と実態,コトバとモノの間には「真実である」という結びつきが必ずしも保証されているわけではありません。そこで、この不安定さを克服するため、私たちは予め、言葉が真実を保証する場と、言葉が虚構であることを示す場を用意して、それぞれの中で言葉を使い分けています。

象徴人類学などが提起する「メタ・メッセージ(meta-message)論」は、言葉の持つ、こうした特異な機能を理論的に究明するものです。

メタ・メッセージとは、一つひとつの言葉がさまざまなモノやイメージを示す「基本的なメッセージ」を超えて、幾つかの言葉がまとまって一定の約束事を示す「超越的なメッセージ」を意味しています(青木保『儀礼の象徴性』)。




イスラエルの文化人類学者D.ハンデルマンDon Handelman、1939~)は、この理論を応用して、言葉の示すことを全く疑わないですべて真実とみなす場を「儀礼空間」、逆に言葉の示すことはすべて虚構とみなす場を「遊び空間」、これら2つの空間の狭間にあって真偽が曖昧なままの場を「日常空間」といように、私たちの生きている言語空間を3つに分けることを提案しています(Play and ritual: complementary frames of metacommunication.In, It's a Funny Thing, London: Pergamon, 1977

つまり、私たちの言語空間は、真実⇔日常⇔虚構、あるいは儀礼⇔日常⇔遊戯という、3つの空間に分かれている。このうち、儀礼や儀式の空間では、その中で使われている言葉がすべて真実とみなされ、逆に遊戯や競技の空間では、使われている言葉がすべて虚構と理解される。そして両者の間にある日常空間では、使われている言葉が虚実双方を示している、というのです。

メタ・メッセージ論が示しているのは、言葉と虚実の関係です。言葉とは真実を示すこともあれば、虚構を示すこともある。そういうものである以上、私たちの暮らしの中では、一方では言葉の示すものを最大限に尊重しようという態度が、他方では言葉の示すものへ最大限に戯れようという態度が、ともに生まれてきます。

こうした態度を生活行動一般に広げていくと、一方では言葉によって自ら目標を定め、それに向かって自らの行動を制御していく行動として、学習、修練、訓練などが生まれ、他方では言葉の作りだした現実をあくまでも虚構だとみなして、敢えてその中で遊ぶ遊戯や、遊興、競技やゲームなども発生してきます。前者では、目標に外れないように努力しなければなりませんから、緊張や勤勉が求められ、また後者では、外れることが容認されますから、弛緩や怠惰が浮上してきます。

この対比は当然、経済的な行動にも当てはまります。掲げた目標をめざす行動は生産や労働、節約や貯蓄であり、逆に掲げた目標を緩める行動は浪費や濫費、遊興や放蕩ということになるでしょう。

従来の経済学のフレームでは、所得―消費―貯蓄という家計収支の次元でミクロな経済現象をとらえてきましたが、メタ・メッセージ論になると、生産・貯蓄⇔消費・生活⇔浪費・遊興といった3次元でとらえなおすことができます。

以上のように、メタ・メッセージ論では、言葉の示すものを真実⇔曖昧⇔虚構の三空間で使い分けることによって、勤勉⇔曖昧⇔怠惰などの生活行動の本質を見直すことになります。その結果、それぞれの空間の内部に切り込んだり、あるいは境界を飛び越えたりするなど、新たな生活空間の可能性を広げていく可能性も膨らんできます。

2015年3月9日月曜日

横軸が作る3つの生活願望・・・世欲・実欲・私欲

社会界・間人界・個人界から生まれてくる生活願望としては、図に示すように、世欲・実欲・私欲の3つが浮かんできます。




 
世欲・・・社会的な地位や経済的な成功など、世間的な評価を手に入れたいと思う生活願望

実欲・・・家事、就業、勉強など日常的な生活の中で、実効的な効果や成果を得たい思う生活願望

私欲・・・自省や内省など自分自身との交信の中で、他人に何といわれようとも、純私的に満足したい思う生活願望

3つの生活願望が、価値や効用を生み出していきます。

2015年3月8日日曜日

横軸が作る3つの世界・・・社会界・間人界・個人界

社会界、間人界、個人界の、それぞれの特徴は次のとおりです。
 
社会界
 私たちがラング(言語、文化、伝統、歴史、慣習、規範、法律など集団的な価値観や制度)を受け入れつつ、同時にラングそのものへ働きかけている世界。家庭教育、近隣教育、学校教育、社会教育、企業内教育などからの〈学習〉や、マスコミやミニコミなどからの情報視聴といった〈受信〉、さらにその延長線上で政治活動や示威活動など、社会に向けての〈発信〉などを行っています。

間人
 ラングを前提に、私たちが会話、実践、交換などを〈交流〉している日常的な世界。家庭、学校、企業などでの、さまざまな〈交流〉活動をはじめ、個人や家族での〈家事〉や〈売買〉、職業人としての〈経営〉や〈指揮命令〉などを行っています。

個人
 私たちがラングに従いながらも、純個人として自らの内部に語りかけたり、ラングを自分なりに変換して新たな表現を作りだしている世界。自省、内省、日記の記述などで自分自身と〈交信〉したり、かってなかったような形態やスタイルで、自らの生活を〈再構成〉するなど、新たな生活行動を創造しています。

これら3つの言語的世界は、私たちの日常生活はもとより、一般的な社会活動から経済活動にまで、大きく広がっています。

社会活動でいえば、さまざまな社会制度を受け入れる社会界、制度に従って毎日の生活を営む間人、制度を応用しつつも個人的に変換している個人という構造です。

経済活動でいえば、既存の貨幣制度や市場経済システムなどを勉強したり受容する社会界、既存の諸システムに則って売買や取引を実際に行う間人界、既存の商品〈価値〉を換骨奪胎して自らの用途や私的なネウチに変えていく個人界という構造です。

こうしてみると、横軸では、社会学的な「社会⇔個人」、経済学的な「集団的な価値⇔純個人的なネウチ」、また心理学的な「集団への同調⇔純個人的な愛着」という対応がそれぞれなりたっています。

要約すれば、横軸は、一方では社会、価値、同調などを、他方では個人、ネウチ、愛着などをそれぞれ対極とする、水平の軸といえるでしょう。

2015年3月6日金曜日

横軸の構造・・・ラングとパロール

次に横軸について考えてみましょう。横軸は、言葉という人工物が持っている、本質的な構造によって、新たに生み出されてくる、個人・社会の軸です。

近代記号学の開祖、F・ド・ソシュールによると、言葉の機能には、日本語や英語など民族や国家が共有している「ラング」の次元と、それを使って個人が会話を交わしたり、一人で思考するという「パロール」の次元があります。


ラングとは、文法や単語、音声や意味など、社会集団が共有している言語体系であり、パロールと、はそれらを前提にして、実際に話したり考えたりする、個人的な言語行動ということです。

パロールという行為はさらに2つに分かれます。ソシュールを継承した丸山圭三郎によると、他人との交流のためにラングを使用する行為は「パロールⅠであり、個人が私的にラングを使用して自らと会話する行為は「パロール2」である、と定義しています。

とすれば、言葉によって作られる生活世界は、ラング界、パロール1界、パロール2界に3つです。この3つをイメージ化してみると、図に示したように、外側の世界と交流するラング界は「社会界」、日常的な暮らしにおいて交流を行なうパロール1界は「間人界」、自己の内側と交流するパロール2界は「個人」と言い換えることができます。


 


2015年3月5日木曜日

縦軸・・・3つの生活願望とは何か

縦軸の感覚界・認知界・言語界から生まれる、3つ生活願望(欲動、欲求、欲望の性格や特徴を改めて整理しておきましょう。

欲動

カオスから生まれてくる無意識的な願望であり、生死の区別や善悪の分割など日常的な評価基準をはるかに超えた、動物的、衝動的な願望
フロイトが指摘した「生ヘの欲動」や「死への欲動」なども含まれており、最も自然に近い、あるいは自然そのものとしての快楽を求めていくものです。
「言分け」される以前の願望であるから、夢や幻といった”象徴”的なイメージとなって、しばしば私たちの前に現れてきます。

欲求

のどが乾いたから飲み物が欲しい、空腹を覚えたから食べ物が欲しい、寒くなったから衣類が欲しいなど、生理的、生物学的な不足状態を意識(言分け)がとらえた願望。
英語の〈want〉という言葉がいみじくも示しているように、一人ひとりの身体の中で何かが「欠如」してくるため、それを「必要」とする心理として現れます。
このため、欲求の対象になるのは基本的には物質であり、願望の中身もまた生理的、物質的なになります。

欲望

人間がコト界を持ったがために、必然的に生まれる願望。
生理的、生物学的な必要性がなくとも、言葉やイメージといった”記号”の刺激を受けて、私たち一人ひとりの内部に発生するものであり、物質への願望を越えて、言語的、文化的な願望となります。
例えば、テレビで紹介された料理が食べたい、流行の服が着たい、友人なみのマンションに住みたいなど、物質そのものというよりも、その上にのった文化関係や社会関係、あるいはそれらについての観念や表象を求めるもです。
それゆえ、この願望は生理的な次元を超えており、本質的に「過剰」なもの、あるいは「バブリー」なものでもあります。

以上の説明だけでは、なお3つの関係が込み入っていますから、図のようにイメージ化してみましょう。この図の中央で、水面に浮かぶ、丸い円が私たちの心です。水上に出ている半分が意識された心であり、水面下にもぐっている半分が無意識下の心です。



丸い円の全体が満たされた「心」の状態を示すとすれば、揺れ動く水面のあたり、つまり意識と無意識の狭間にあって、凹型の欠けた部分を取り戻したいという願望が「欲求」、水面上、つまり意識された心の外側に、凸型に張りついたものを追い求める願望が「欲望」、そして水面下深く、無意識の心の底でマグマのようにドロドロと蠢く、不定型の願望が「欲動」ということになるでしょう。 

2015年3月4日水曜日

縦軸が生み出す3つの生活願望・・・欲動・欲求・欲望

モノ界(感覚界)・モノコト界(認知界)・コト界(言語界)の図に示した心理構造こそ、私たち人間の、さまざまな生活願望が湧き出てくる源泉です。

例えば丸山圭三郎は、コト界から生まれる非自然的な願望を「欲望」、モノコト界から浮かびあがる純生物的な願望を「欲求」、コト界とカオスの間から噴出する願望を「欲動」と、3つに分けています(『欲動』)。




この視点は、現代記号学の開祖、F.ド・ソシュール(1857~1913)や社会学者のJ.ボードリヤール(1929~2007)の思想にも通底しています。そこで、この図に沿って、それぞれの位置づけを整理しておきましょう。


 
まず「身分け」と「言分け」の裂け目から生まれるのが「欲動(仏plusion、英drive、独trieb)」です。身分けを行なう「本能」は、人間も含めた全ての動物に備わっているもので、それぞれの生活の行動様式を示すとともに、生のエネルギーそのものも意味しています。

このエネルギーは、ヒトがヒトになる以前には、「身分け」によってきれいにすくい上げられていました。ところが、「言分け」は2つを分離して、前者の行動様式については一定の規格の中に納めますが、後者のエネルギーについてはそのまま残してしまいます。

こうしたエネルギーは時として噴出し、カオスを作りだします。いいかえれば、言分けによって、コスモスとカオスが生まれますが、このカオスが無意識の次元から噴出させる願望、それが「欲動」となるのです。それゆえ、欲動は間違いなく人間の願望の一つですが、通常は無意識的な衝動として意識下に沈潜しています。

次に「言分け」がすくいあげたコト界では、コト=シンボル化能力との関わり方の違いによって、「欲求(仏besoin、英want、独wunsch)」と「欲望(仏désir、英desire、独begierde)」が生まれてきます。

欲求」は、フィジクスとしての生理状態が、コスモス上に浮かび上がってきた時、その適否に対応しようとして、モノ界とコト界の境界に発生する願望です。生物としての身体が求めるものを意識に組み入れたうえ、要・不要を判断し、改めて有用性を追い求めます。その意味では、人間という種が生きていくために必要な、いわば生理的な次元のモノ願望をコト化したものです。

他方、「欲望」は、言分けそのものによって、コスモスの上に生まれてくる願望です。コト=シンボル化能力は、生理的な要・不要を超えた次元で、非生理的な〈記号〉を求める願望を募らせます。それは真偽、美醜、善悪など言葉の作り出した幻想を追い求める心理状態を意味していますから、まったく非生物的、人工的な願望ということができます。

以上のように、モノ界(感覚界)・モノコト界(認知界)・コト界(言語界)という心理構造の中から、私たちの生活願望の3つの次元が生まれてきます。

2015年3月3日火曜日

身分け・言分けが6つの世界を作る!

2つの網の目を通して把握された、周りの世界とはどのようなものなのでしょうか。これまで紹介した先学の諸説を整理して、筆者なりにイメージ化すると図のようになります。



上の図は生活世界の縦構造を描いたものですが、外側にいくほど全体を、逆に内側にいくほど、個別の世界を示しています。一番外側には「物理的世界」、すなわち「物界(フィジクス:physics)」が広がっていますが、そこから人間は「身分け」によって「本能によるゲシュタルト:gestalt」をつかみ出します。

この時、本能や感覚器がとらえた限りでのモノの世界は「モノ界(環境世界)」になりますが、とらえきれなかった世界は「感覚外界(メー・オン:mee on=非在)として排除されます。

例えば、紫外線という光は、魚類、爬虫類、鳥類、昆虫などには感知できる種がいますから、まちがいなく実在していますが、ヒトの目にはまったく見えませんから存在しないのと同じことです。犬笛が発する1600~2000ヘルツの音も、犬には聞こえますが、ヒトにはほとんど聞こえませんから、物質的には存在しているものの、人間には存在しないことになります。

こうしてとらえられたモノ界が、いわゆる「自然(ピュシス:physis)」です。「自然」というと、物理的世界そのものと思いがちですが、そうではありません。ヒトという種にとっての「自然」とは、物界そのものなのではなく、あくまでもヒトという種の本能や感覚器を通過したかぎりでのフィジクスにすぎません。


続いて人間は「言分け」によって「自然=モノ界」から「言葉による世界=コト界」を抽出します。つまり「コト=シンボル化能力」によって、「モノ界」の中から、言葉によって理解される限りでのゲシュタルトをつり上げて、新たに「コト界」を形成していきます。

この時、「言分け」の網の目によって、モノ界からコト界へくみ上げられたものが「コスモス(cosmos)になり、くみ上げられなかったものが「カオス(chaos)になります。

コスモスというと、一般には「物理的な宇宙」のことですが、ここでは「言葉による世界=コト界」を意味します。逆にいえば、物理的な宇宙もまた、人間が言葉によって把握している限りでの世界にすぎませんから、結局は「コト界」と同義語になります。


またカオスとは、一般には「混沌」と訳されていますが、ここでは「言分け」の網の目がモノ界からひろい上げきれなかった「言語外の世界」を意味しています。

ピュシスの中からコスモスを把握した瞬間、私たち人間の内部には自我や意識が生まれてきますが、その一方で、把握できなかった部分がカオスとなって、エス(心の無組織状態)や無意識という形で心の底に沈潜していきます。

 そして、私たちの生きている、現実の世界は、コスモスとカオスのせめぎ合う世界、あるいはモノとコトの行き交う世界、つまり「ゲゴノス(gegonós)となります。これこそ「現実の世界=モノコト界」といえるでしょう。

このように「身分け」によって、
周りの世界はまず「感覚外界(メー・オン)」と「物界(フィジクス)」と「モノ界(ピュシス)」の3つに分けられ、続いて「言分け」によって「言語外界(カオス)」と「モノコト界(ゲゴノス)」に分かれ、さらに言葉の作用によって「コト界(コスモス)」が浮上してきます。つまり、周りの世界は6つに分割されます。

6つの世界のうち、私たちが毎日どっぷり浸かっているのは「モノ界(感覚界)」「モノコト界(認知界)」「コト界(言語界)の3つです。この3つの世界において、私たちはさまざまな日常的行動を行っているのです。

2015年3月2日月曜日

縦軸で心の内部を探る!

縦軸によって何がわかるのでしょうか。井筒俊彦が述べた「人間の言語意識を深みに向かって掘り下げていく」とは、平たくいえば、私たちの心の内部をどう見るか、という視点です。こうした視点については、古代の東洋思想はもとより、現代の西欧思想でも多角的に究明されています。


 例えば、20世紀初頭に現象学という、新しい哲学の一派を開いたドイツの哲学者E.フッサールは、人間の意識には幾つかの階層があり、深層を見るためには、一度表層を捨てねばならない、と主張しています。私という人間の本当の姿を見るためには、まずは社会的な常識や権威などを捨てます。すると、生身の人間としての私が見えてきます。さらに私という自意識を捨てると、生き物の一つとしての己の無意識が見えてきます。このように、いま囚われている思考を一旦〈中止〉してみる方法を、フッサールは「エポケ(判断中止)とよんでいます。

仏教でいえば、これはまさに「解脱」といえるでしょう。表面の願望を断ち切れば、その下の願望が見えてくる。それを捨てれば、その下の願望が次々に浮かんでくる。全てを捨ててありのままになれば、ついには動物そのもの、生物そのものとしての存在が見えてきます。そうした境地を仏教は「解脱」とよんでいるのです。

一方、やはり20世紀初頭に、オーストリアの精神分析学者S.フロイトやスイスの分析心理学者C.G.ユングは、表層的な意識の下に潜んでいる無意識や下意識を研究し、それぞれ精神分析学や深層心理学を樹立しています。




私たちの日常生活での思いがけない思考や不意の行動は、実は意識下に潜む潜在意識によって動かされている、という理論です。


これもまた、古代仏教の唯識論でいう深層意識観、「アーラヤ識」に通じています。この世の全ての現象はアーラヤ識が引き起こす因果にすぎない、という思想です。

以上のように、「心の内部にはいくつかの階層がある」という発想は、古今東西の思想に共通しています。こうした共通構造を、井筒俊彦は「垂直的」とよんだのです。