2018年2月27日火曜日

江戸中期には「價値(かち)」へ変わった!

江戸時代に入ると、「價直(げじき・かちょく)という言葉は、約200年前に移入してきた欧州語の翻訳語として「價値(かち)」という言葉に置き換えられました。

最初の蘭日辞典波留麻和解』(寛政8年=1796年)では、「waarde(ワアルデ)」の訳語として「價値」が与えられ、「高價」「利潤」も併記されています。

この辞典は、長崎通詞の西善三郎が着手し、その後、蘭学者の稲村三伯、宇田川玄随、岡田甫説らによって編纂されたものです。

18年後に出た、最初の英和辞典諳厄利亜語林大成』(文化11年=1814年)でも、「value(ヘルユー)の訳語が「價値」とされています。

この辞典は、和蘭・和英通辞の本木庄左衛門(正栄)を中心に、同じく通詞の馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保らが編纂した、日本初の英和辞典です。


蘭語の「waarde」も、英語の「value」も、ともに原語の意味には「相当性」と「有用性」の両方が含まれています。

このため、翻訳語の「價値」もまた「あたひ+ねうち」、つまり「相当性+有用性」の二義性を持つことになりました。

なぜ「直」が「値」に変わったのか、詳しくはわかりませんが、「直」の字が「十:正面、まっすぐ」+「目:見る」+「―(線)」を組み合わせて「線をまっすぐ見る」ことを表すのに対し、「値」の字では「亻:人」が「線をまっすぐ見る」ことになりますから、「ねうち」よりも「あたひ」にやや近づくからかもしれません。

いずれにしろ、江戸時代の人々もまた、大和言葉の持っていた、「あたひ」と「ねうち」の区別を捨て、両者の複合化した「價値」を使うようになっていたのです。

2018年2月18日日曜日

中国から漢字「價直(げじき・かちょく)」が渡来した!

中国大陸から日本列島へ漢字が渡来したのは、古くは1~2世紀といわれています。とりわけ7世紀に遣隋使が派遣されて以降は、仏教文化律令制度などの渡来に伴って、大量の漢字が日本へ輸入されました。

そこで、「役に立つか否か(有用性)」や「あい対するかどうか(相当性)」という観念についても、漢字が使われるようになったのです。

幾つかの事例を振り返ってみると、すでに古墳時代から「價直」という漢字が導入され、「げじき(呉音)あるいは「かちょく(漢音)と発音されていたようです。


例えば、5世紀初頭に受け入れられた『妙法蓮華経(法華経)』には、「即解頸衆宝珠瓔珞。價直(げじき)百千両金」(首にかけていた、美しい宝珠の首飾り、百千両に相当するものを外して)と書かれています。

また7世紀初頭に渡来した『根本説有部律』にも、「白拂價直(げじき)百千兩金」(百千兩金のあたひの白い払子=ほっす)と記されています。

平安~鎌倉時代(8~14世紀)になると、「價直」は渡来の仏典だけでなく、日本の文献でも使われるようになりました。

8世紀末の『続日本紀』(延暦16年=797年)には、「天平元年、孟春正月、(中略)宜給京及畿内官人 已下酒食價直(かちょく)(酒食相当が支給される)と書かれています。

11世紀の『私聚百因縁集』(正嘉元年=1257年)には、「東城国送るに價直(かちょく)浮檀金(えんぶだんごん=砂金金)の百億両と云ふ」との表現が見られます。

このように漢字が導入されて、仏教界や大和政権から一般庶民へと普及していく過程で、「相当性」という観念は「價直(げじき、かちょく)」という言葉で表されるようになりました。



しかし、字源を辿ってみると、「」は「亻:人」+「西:うつわ」+「貝:貨幣」が組み合わされた文字であり、「器の中に入った貨幣を人が持つ」状態を表していますから、「価格」、つまり「あたひ」を意味しています。

一方、「」は「十:正面、まっすぐ」+「目:見る」+「―(線)」を組み合わせた文字で、「線をまっすぐ見る」ことを表しており、これは「ねうち」に近い観念と思われます。

とすれば、「価直」という漢字は「真っすぐ見たそのもの」に「価格をつける」、つまり有用性」と「相当性」の複合化を意味する言葉ということになります。

ところが、古代日本において「」の字が「あたひ/あたへ」と読まれたことから、「あたひ」に相当する言葉となってしまいました。字源の意味する「ねうち」が「あたひ」に置き換わったのです


以上のような推移から考えると、「價直」という漢字は、「あたひ」と「ねうち」を統合した便利な言葉として日本人に受け入れられたものと思われます。

だが、便利さゆえに、大和言葉で分けられていた「ねうち」と「あたひ」、つまり「有用性」と「相当性」の区別は曖昧にされてしまった、ともいえるでしょう。

2018年2月8日木曜日

生活民はアタヒよりネウチを重視!

日本列島に住み着いた人々は大和言葉で、モノの「役立ち」度(有用性)を「ねうち」という言葉と「あたひ」という言葉で、大きく分けてとらえてきました。

当ブログで展開してきた生活学から見ると、「ねうち」の方が「あたひ」よりもずっと大事だ、というのが基本的な立場です。

例えば「
生活者」を提唱した大熊信行は、その人間像を「(生活の基本が)自己生産であることを自覚して」、「営利主義的戦略の対象としての、消費者であることをみずから最低限にとどめよう」とする人々、と定義しています。

「自己生産」で生まれる有用性とは「ねうち」であり、「営利主義的戦略」の基本は「あたひ」ということになります。

また「
生活人」を提唱した今和次郎も、生活人とは「これまでのような没個人的な倫理のうつろなお題目に幻惑されることなく、外回りの倫理でかっこうだけをつけさせようとあせることなく、日常生活を通じての自己生活の倫理」を高めていく人格、と述べています。

「自己生活の倫理」とは「ねうち」を意味していますし、「外回りの倫理」とは「あたひ」重視を示している、といえるでしょう。

そこで、「
生活民」を提唱する当ブログでは、生活民とは「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility)」を求める主体である、と明確に述べてきました。

私効」とはまさに「ねうち」であり、「価値」とは「あたひ」に相当しますから、生活民とは「あたひ」よりも「ねうち」を求める主体ということになります。  

しかし、現在の日本では「ねうち」と「あたひ」はほとんど混合され、「価値」という言葉で通用しています。

そればかりか、「価値創造」とか「顧客価値」というように、プラス用語としても重視されています。

どうしてこのようになったのか、日本と世界の「有用性」史観を振り返ってみたいと思います。