2021年6月30日水曜日

ソシュールのランガージュ論では・・・

18世紀の言語論を振り返ってきましたので、続いて19世紀の動向を眺めてみます。

この世紀の言語論を代表するのは、なんといってもスイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールFerdinand de Saussure18591913)でしょう。

ソシュール言語学の特徴は、18世紀に深まった言語起源論や歴史的推移論などを「通時言語学」と位置づけたうえで、時代を超える言語の全体的な構造を研究する「共時言語学」を提唱したところにあります。

積年の講義録をまとめた『一般言語学講義』(Cours de linguistique générale :1916)は、筆者もほぼ半世紀前から愛読してきた一冊であり、すでに【音分けとは・・・言分けの限界を考える!】【言分けは恣意的なのか?】【「言分け」階層の「下分け」を考える!などで紹介してきたように、極めて多彩な言語論が展開されています。

以下では、言語3階層論の視点から改めて整理しておきます。

ソシュールは、人間の言語に関する行動には、ランガージュ、ラング、パロールの、3つの側面があると言っています。

ランガージュ(langage:言語活動)

言語をはじめ、さまざまな記号を造って使いこなす、さまざまな能力、およびそれによって実現されるさまざまな行動を意味します。

この能力や行動には、発声、調音、連辞など言語の運用に直接関係する行動とともに、抽象化やカテゴリー化といった論理的な行動も含まれます。

言語活動(ランガージュ)は、ぜんたいとして見れば、多様であり混質的である。いくつもの領域にまたがり、同時に物理的、生理的、かつ心的であり、なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする。それは人間的事象のどの部類にも収めることができない。その単位を引きだすすべを知らぬからである。
・・・『一般言語学講義』小林英夫訳:19401984

ラング((langue:言語)

民族や国家などさまざまな集団のなかで、個々の記号の造り方やそれが示す対象、あるいは記号の使い方や結び付け方などが社会集団の中で共有され、制度化されたものを意味します。

言語(langue)とはなんであるか? われわれにしたがえば、それは言語活動(langage)とは別物である。それはこれの一定部分にすぎない。ただし本質的ではあるが、それは言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である。

われわれはみのりすくない字義的定義をさけて、まず言語活動の呈する総体的現象の内部に、二個の要因、言語と言に識別した。言語は、われわれにしたがえば、言語活動から言を差し引いたものである。それは、話し手をしてひとを理解し・おのれをひとに理解させることをゆるす言語習慣の総体である。

・・・同上

パロール(parole:言)

個人がランガージュ能力を機能させて、ラングという枠組みのなかで、具体的に発せられる個々の言葉を意味します。

心的部分にしても、そのぜんぶが働いているわけではない。遂行的側面は関与しない。遂行が大衆によってなされることは絶対にないからである。それはつねに個人的なものであり、個人はつねにそれの主である。われわれはこれを(parole)とよぼうとおもう。
・・・同上

以上のように、ソシュールは人間の言語行動を3つの関係で説明したうえで、言語は記号signeの一つである、としています。

われわれは、記号(signe)という語を、ぜんたいを示すために保存し、概念(concept)聴覚映像(image acoustiqueをそれぞれ所記(signifié)能記(signifiant)にかえることを提唱する。このあとの二つの術語は、両者間の対立をしるすにも、それらが部分をなす全体との対立をしるすにも、有利である。
 ・・・同上

記号とは、能記(シニフィアン:意味するもの=音や文字など)所記(シニフィエ:意味されるもの=モノや概念など)が連合して一つの意味を示すものであり、両者を結びつける紐帯はまったく恣意的である、というのです。 

◆能記(シニフィアン:意味するもの=音や文字など)と所記(シニフィエ:意味されるもの=モノや概念など)を結びつける紐帯は、恣意的である

●記号とは、能記と所記との連合から生じた全体を意味するものである以上、言語記号は恣意的である。

●言語の間に差異のあることが、いや、諸言語の存在そのものが、その証拠である。所記としての「牡牛」は、国境のこちら側では能記がb-ö-f(boeuf)であり、あちら側では oks(ochs)である。

●恣意性(arbitraire)という語にも注意が必要である。それは能記が話し手の自由選択に任されているもののように思わせてはならないということだ。一言語集団のうちでいったん成立した記号にたいしては、個人はこれに寸毫の変化をも与える力はない。

●我々が言いたいのは、それ(恣意性)は無縁(immotivé)であるということだ。つまり能記と所記の関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない。

・・・同上

そのうえで、凝音語(onomatopée)感嘆詞(Exclamation)などでは、恣意性を否定する意見のあることを指摘し、それについても反論しています。 

●フランス語のOuaOuaもドイツ語のWauWauも、ひとたび言語体系のなかに導入されるや、他の語もこうむる音韻進化や形態進化などの中へ引きずり込まれる。このことは、それらの言葉が最初の特質の幾分かを失って、本来は無縁である言語記号一般の特質を具えるに到ったことの、明白な証拠である。

●感嘆詞(Exclamation)も擬音語とよく似たもので、同じような注意をよびおこすが、われわれの提説にとってはやはり危険なものではない。人はとかくこれらの言葉に、実在の自発的な、いわば自然の口述した表現をみようとする。しかしながら、それらの大部分についていえば、所記と能記との間に必然的連結のあることを否定できる。

・・・同上

以上のようなソシュールの言語論を言語3階層論で眺めて見ると、下図のようになります。


図に示したように、ランガージュ、ラング、パロールの関係によって、思考・観念言語と日常・交信言語については認めているようですが、言語の生まれる前の未言語次元、つまり深層・象徴言語については、その存在をほとんど否定しています。

極めて精緻な言語論ですが、このあたりに限界があるのかもしれません。

2021年6月20日日曜日

ルソーとヘルダーの言語起源説を振り返る!

18世紀の西欧思想界では、前回紹介したカントやフンボルトの言語観とともに、言語の起源についての議論が流行していました。

端緒となったのはフランスの哲学者、コンディヤック(Étienne Bonnot de Condillac17141780の書いた『人間認識起源論』でした。

コンディヤックは記号を、➀偶然的記号(私たちの持つ観念の中のどれかと連合して、その観念を呼びもどす事象)、②自然的記号(喜び、恐怖、不快などの感情を表現するために自然が設定した叫び声)、③制度的記号(私たち自身が選択し、観念とは恣意的な関係しか持たない形象)の3つに分けたうえで、人間の言語は③であるが、それは動物の鳴き声と同様の「自然的記号」から派生するものだ、と論じました(“Essai sur l’origine des connaissances humaines1947)。

この提起を受けて、フランスやドイツでは、言葉の起源に関する、新たな議論が巻き起こり、『言語起源論』と題する著作が相次いで上梓されました。

フランスの哲学者、ルソー(Jean-Jacques Rousseau1712~1778は、その著『言語起源論』(1781の中で、動物のさけび声の延長上に、人間が感情の表現として吐き出す、歌のような言葉こそ、人間の言語の起源だ、と主張しました。

関連する言説を抜き出しておきます。

●人間は欲求を表現するために言葉を発明したと言われているが,この意見は私には支持しがたいように思われる。

●それならば言語の起源は,どこに発しているのか。精神的な欲求,つまり情念からである。

●最初の言語は,単純で整然としたものであるよりさきに,歌うような,情熱的なものだったのである。

●人間がことばを話す最初の動機となったのは情念だったので、人間の最初の表現は文彩だった。比喩的なことばづかいが最初に生まれ、本来の意味は最後に見いだされた。

●事物は、人々がその真の姿でそれを見てから、初めて本当の名前で呼ばれた。人はまず詩でしか話さなかった。理論的に話すことが考えられたのはかなり後のことである。

●情念によって提示された幻想のイメージは最初に示されるので、それに対応する言語も最初に発明された。

●自然のものである声、音、抑揚、諧調は、協約によるものである分節が働く余地をあまり残さず、人は話すというよりは歌うようなものになるだろう。語根となる語はたいてい模倣的な音で、情念の抑揚か、感知可能な事物の効果であるだろう。擬音語がたえず感じられるだろう。

文字表記は言語を固定するはずのものと思われるが、まさに言語を変質させるものだ。文字表記は言語の語ではなくその精髄を変えてしまう。文字表記は表現を正確さに置き換えてしまう。人は話す時には感情を表し、書く時には観念を表すものだ。

『言語起源論 旋律と音楽的模倣について』(増田真訳:岩波文庫;2016

以上のように、ルソーの言語起源観では、言葉は「欲求」を表現するために発明されたのではなく、感情を表現すること、つまり「情念」こそがパロール(音声言語)の生まれる動機だった、と書かれています。

そのうえで、エクリチュール(文字言語)もまた、情念から自然に発声される詩や歌を文字で表そうとする試みがその根源である、と主張しています。

これに対して、ドイツの哲学者、ヘルダー(Johann Gottfried von Herder1744~1803は自著『言語起源論』(1772の中で、言葉とは動物の叫び声の延長線上で人間に備わっているものではなく、あくまでも人間の学習によって得られるものだ、と主張しています。

感覚的知覚の捉えたさまざまな対象に、一つ一つ目印として言葉を当て,他の対象と明確に区別して、全体的に世界を捉えようとする行動、それこそが人間の言語の起源である、というものです。

●すでに動物として人間は言語を有している。すべての強い感情、なかでも最も強いものとされる肉体の苦痛の表現、また人間の魂から発するすべての烈しい情熟は、叫び声、音声、粗野な未分節の音になって直接に表出される。

●すべての動物は、ものいわぬ魚にいたるまで、彼らの感情を音で響かせる。だからといってどのような動物も、最も完全に発達した動物といえども、人間の言語の本来のきざしをごくわずかでももっているわけではない

●子どもは動物と同じように、感情から発する響きを口に出す。しかし彼らが人間から習う言語は、全く別の言語ではないだろうか。

●どんな動物であっても、たとえ最も完全な動物でさえも、人間の言語の本来の始まりを少しも持っていない。叫び声を好きなように形成し、洗練し、組織化するがよい。 しかし、この音声を意図的に用いる悟性がそれに付け加えられなければ、先の自然法則にしたがって人間の意欲的な言語がどのようになるか私にはわからない。子どもは動物のように感覚の音を発する。しかし、彼らが人間から学ぶ言語はまったく異なる言語ではないだろうか。

●最初の、最も低い理性の使用でさえ、言語なしには起こりえなかった。もし言語がなければ、人間にとって理性はありえなかった。 そういうわけで、言語の発明は、人間にとって理性の使用と同じほど自然で、古く、根源的で、特質を示すものであった。

『言語起源論』(木村直司訳:大修館書店:1972

以上のように、 ヘルダーは、動物が発する感覚的な音声と、人間が学びとる言語を明確に区別する視点を主張しています。

両者を比べると、ルソーは動物にも共通する、感覚的な叫び声を言語の起源だと考え、ヘルダー人間独自の学習能力こそ言語を生み出す源だ、というように、かなり対立した主張になっています。

やや飛躍するかもしれませんが、当ブログの生活世界構造論に当てはめると、ルソーは深層・象徴言語こそ言語の根源だと考え、ヘルダーは人間の潜在的な思考・観念能力こそ言語の起源だ、と主張していることになります。

どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか、この議論は永遠に続くと思われます。

ともあれ、18世紀の西欧思想においても、言語起源論の前提として、言葉の階層が考えられていたのだ、といえるでしょう。

2021年6月8日火曜日

カントやフンボルトの言語観を振り返る!

17世紀の言語観を、デカルトやライプニッツの提唱した「普遍言語(langue universelle」論で振り返ってきましたので、続いて18世紀の動向を、カントフンボルトの論考によって考えてみましょう。

近代哲学の骨格を築いたドイツの哲学者、イマヌエル・カント(Immanuel Kant:1724~1804年)は、直接的には言語観を述べてはいませんが、主著『純粋理性批判』の中で、言語の前提となる認識行動について、3つのパターンを提唱しています。

カントによると、「人間は物をそれ自体として認識することはできず、物が現れるままにしか認識できない」と考えたうえで、その認識能力には、五感から入ってきた情報を時間と空間という形式によってまとめあげる「感性」、概念に従って整理する「知性」、知性に基いて考える「理性」があるとし、それらによって統一像がもたらされるのだ、と主張しています。

カント『純粋理性批判』中山元・訳、光文社古典新訳文庫:2010~13

感性(Sinnlichkeit:ズィンリヒカイト)・・・人間の心の内には空間と時間に基づいて作動する直観という認識形式が予め備わっているが、それによって、現実の世界のうちで生じている多様な現象を捉える心理作用。

知性(Verstand:フェアシュタント)・・・感性が捉えた認識の素材を、量・質・関係・様相といった様々な種類のカテゴリー(Kategorie:概念)の形式に基づいて、総合的にまとめていく心理作用。

理性(Vernunft:フェアヌンフト)・・・感性と知性で捉えた多様な表象を、自らの論理的な推論能力によって、一つの客観的な認識のあり方へと統一していく心理作用。

要約すれば、感性による直観、悟性による総合、理性による統一の、3段階の心理作用によって、現実の世界で生じている、様々な現象が客観的な認識として把握できる、ということです。

このような論説を、当ブログの生活世界構造論に当てはめてみると、次のようになります。

感性・・・周りの環境世界の中から感覚によって把握するモノ界(感覚界:physis)の能力

知性・・・感性が捉えたモノ界を、予め経験した概念で改めて仕分けする心理作用であり、コト界(識知界:cosmos)の能力と考えられる。

理性・・・感性が捉えたモノ界と知性が捉えたコト界を前提に、さらに論理で捉え直す心理作用であり、これもまた、まさしくコト界(識知界:cosmos)の能力である。

以上のように、カントの認識論は、モノ界とコト界での心理作用を示してはいますが、両世界の間にあるモノコト界(認知界:gegonós)については、まったく触れられていません。

このようなカントの観念論を継承して、ドイツの言語学者、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Karl Wilhelm von Humboldt1767~1835年)は、新たな言語論を展開しています。

「言語とは造られたものではなく、造り出す働きである」という説ですが、主な主張を列記してみましょう。

●言語そのものは造られたもの(Werk:Ergon)ではなく、造り出す働き(eine Thatigkeit : Energeiaである。

●言語の真の定義は発生的(genetisch)なものでしかあり得ない。言語は、 即ち、分節音で思考を表現しようと永遠に繰り返される精神の労働である。

●我々は知性と言語とを分けて考えているが、実相においてはこのような区別は存在しない

●言語は本来、ある無限なる、 真に限界のない領域に、ありとあらゆる思考可能なるものの総和に相対している。従って、言語は有限なる手段を無限に駆使するという運命を持つ。そして、それが可能なのは、思考を生み出す力と言語を生み出す力とが同一であることによるのである。

●言語は思考を形成する器官である。知的活動は全く精神的で、全く内的で、いわば跡形もなく通り過ぎてゆくものであるが、発話における音声を通して、外的にも五官に覚知できるものとなる。この知的活動と言語とは、 従ってひとつであり、互いに分かち難い。

●言語は造り出された死せるもの(eintotes Erzeugnis)としてではなく、むしろ、造り出す働き (ei ne Erzeugung)としてみなすべきである。事物の関連や意志疎通の手段として作用している事柄はむしろ度外視し、内的な精神活動との密接な関係、ある言語の起源とその相互の影響とに立ち帰って考えるべきである。

Humboldt, Wilhelm von. Gesammelte Schriften. Ausgabe der preussischen Akademie der Wissenschaften. Vols. IXVII, Berlin 190336.

以上のように見てくると、フンボルトの言語論は、カントのコト界(識知界:cosmos)超越論を前提にした、言語活動の主導理論と考えるべきでしょう。

生活世界構造論で言えば、コト界(識知界:cosmos)から見たモノ界(感覚界:physis)論とでもいうべき発想であり、モノコト界(認知界:gegonós)やモノ界(物質界:Physics)もまたコト界が造り出しているのだ、ともいえます。

以上のように見てくると、18世紀の西欧思想界もまた17世紀を継承して、コト界中心の思考・観念言語観がリードしていたようです。