2021年5月30日日曜日

ライプニッツの普遍言語とは・・・

R.デカルト普遍言語の実現を望みつつも、その前提として「普遍観念」の構築が必要だ、と考えていましたが、この発想を継承したドイツの哲学・数学者G.M.ライブニッツGottfried Wilhelm Leibniz16461716)は、「記号」の確立によって「普遍言語」は実現できる、と考えていたようです。

ライプニッツは、前回紹介したデカルトの手紙の余白に、次のような書き込みをしていました。

この言語(普遍言語)が真の哲学に依存するとしても、その哲学の完成に依存するのではない。すなわち、哲学が完全なものでなくとも、この言語は確立されるのであり、人間の学問が進歩するにつれて、この言語もまた進歩するのである。
La Logigue de Leibniz d’aprés des documents inédits.1901

そのうえで、自著の中で次のように述べています。

ある卓越した人たちが以前ある種の言語ないし普遍的記号法を思いつき、それによってあらゆる概念と事物が見事に秩序づけられ、その助けによってさまざまな国々が自分たちの考えを伝えることができ、それぞれの国のものが他国で書かれたものを自分の言語で読むことができるようになったともいえる。
しかしながら、同時に発見術と判断術とを含む言語ないし記号法、すなわち、その表記ないし記号が、数論上の表記が数に関して、また代数学上の表記が抽象的に扱われる量に関して果たすのと同じ役割を果たすような言語ないし記号法を手がけようとしたものは誰もいなかった。

「普遍的記号法―その起源と価値」ライプニッツ著作集10:小林道夫訳:工作舎:1999

それならばと、ライプニッツ自身が「普遍的記号(Characteristica universalis」の実現をめざしはしましたが、簡単には達成できない試みであったためか、限定的なものに終わっています。

ともあれ、ライプニッツの主張するところを、関連する資料や先学諸賢の研究成果に基づいて、おおまかに整理しておきましょう。

●人間の思考は、音声を使った「話し言葉」では、アルファベットの26文字で全てが表現されて、外部へ語られている。これと同様に、人間の思考もまた、精神の中では観念(idea)の組み合わせによって生まれているから、その複合観念を構成要素に分解してしまえば、「思考のアルファベット」とよべるような、究極の「単純観念」が発見できるはずだ。

●デカルトは、精神と言葉は乖離したもので、記号と観念は区別され、両者の結びつきは習慣や制度などによって恣意的・任意的に行われている、と考えていた。これに対し、ライプニッツは、言語とは「精神の最良の鏡」「理性の真の鏡」であって、「語の意味の厳密な分析は知性の働きを、他の何よりも正しく我々に認識させる」ものであるから、記号と観念には連動性がある、と考えた。

●デカルトと異なり、ライプニッツは、人間は自然言語を無意識的に想起できると考えた。認識可能な世界は全て自然言語によって表現できるうえ、認識された世界は、人間精神の「進歩」、つまりは「歴史」とともに広がっていくものと考えた。

●対象を認識する方法には、直観的認識記号的認識がある。直観的認識とは、対象に対して抱いた観念の原初的な内容を、一度かつ明確に把握することだが、それはごく稀なことだ。とりわけ、そこに潜む真理などを掴むのは、ほとんど不可能である。そこで人間は、これに代わる役割として「記号的認識:cognitio symbolics」を行う。記号的認識は、直観的認識に限界をもつ人間知性の実質的な認識行動とならざるをえないが、これを推し進めれば、人間の知性の中に神と宇宙の表出が可能になる。

以上のようなライプニッツの「普遍言語」説は、数理的科学思想の基盤となり、現代のAI技術を生み出すまでに発展してきました。まさしく当ブログが分類した「思考・観念言語」の典型といえるでしょう。

しかし、このような普遍言語には、次のような弱点が付きまとっています。

例えば囲碁は碁盤のうえで、人間が観念上で定めたルール、つまり普遍言語のシンタックス(統辞法)に基づいて勝敗を競うゲームですが、その効果を応用して、実際の戦闘に臨むこともあります。その意味では、言語が現実を動かしているともいえるでしょう。

ところが、実際の戦場では天変地異から人事動静まで、ルールの前提を大きく超えた事態が次々と発生し、シンタックス通りには到底対応できないこともあります。

そうした事態もまた次々とルールに組み入れていけば、やがて完全に近づくというのがライプニッツの論理ですが、いつまでいっても完璧には至らないケースも多々あります。

そのあたりに普遍言語の限界、つまり現代科学論理の限界があるのではないでしょうか。

2021年5月20日木曜日

デカルトは観念言語を提案した?

古代ギリシアの言語観は、日常言語という基礎的な次元に向けられていたと述べてきましたが、ルネサンス以降になると、近代西欧の言語観は新たに、一番上の「思考・言語」へと向かっていったようです。

フランス生まれの近代合理主義哲学の祖、ルネ・デカルト(René Descartes15961650は、1629年に神学者のM・メルセンヌ(Marin Mersenne)宛の手紙のなかで、日常言語を超える「普遍言語(langue universelle」を提起していました。

後に人工言語数字記号などともよばれるようになった、人造的な言葉の提案です・

人間の思考が複雑化している知的活動の中で、何が簡単な思考であるかを正しく説明し、その説明が万人に受け入れられるとするなら、私はあえて、非常に簡単に学び、話し、書くことのできる普遍言語を望むだろう。そのような言語の最大の利点は、間違った使用などほとんどなく、明確に問題を提起し、人間の判断を助けることだ。

Carta de Descartes a Mersenne, 20 Noviembre 1629を直訳)

しかし、その手紙の中で、普遍言語などは絵に描いた餅で、現実には不可能だ、とも述べています。その理由を諸資料や研究成果に基づいて、おおまかに整理しておきましょう。

➀人間のあらゆる思考を枚挙して秩序づけ、一切の事物を見誤ることのないよう明確に提示できる普遍言語が夢であるが、そのような構想はユートピアであり、現実には期待できない

②「普遍」とは、何らかの関連のある、幾つかの個別的事象を考えるため、同一の観念を用いることだけで形成されるものであり、それはもっぱら人間の「精神」に属している。

③一方、「言語」は、さまざまな国語として、個別性・恣意性・物質性を持っている。

④精神や哲学の側に属する「普遍」と、物質の側につながる「言語」が、別々の次元にある以上、普遍言語は観念の側では可能であっても、現実の言語においては断念せざるをえない。

⑤それでも、普遍言語を発明しようとするなら、まずはあらゆる思考の間にひとつの秩序を打ち建てるような「真の哲学」が作られなければならない。「数」の間に固有の秩序があるように、人間精神の中で起こるあらゆる思考の間にも、一定の秩序を打ち建てることができれば、言語の基本形態とその表意文字である普遍言語が初めて可能となる。

⑥そのためには、人間の想像力のなかにある「単純観念」が何であるかを明らかにし、そのような単純観念によって、人間の思考のすべてが構成されており、それがすべての人にも受け入れられることが必要である。こうしたことが可能であれば、極めて容易に覚え込み、発音し、書き込めることで、あらゆる事物を明確に表象し、判断を助けることができる「普遍言語」を望むことができる

以上のように、デカルトは普遍言語の実現を望みつつも、その前提にはまず「普遍観念」の構築が必要だ、と考えていたようです。


ところが、次の世代になると、このような思考的慎重さは次第に霧消され、数学者や物理学者などの間で、人工的な普遍言語の多様な体系が続々と生み出されていきます

とすれば、ルネサンス以降の西欧近代社会では、普遍言語や記号言語など、いわゆる「思考・観念言語」が急速に広がっていった、と見るべきでしょう。

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以上の推論は、次の文献を参考にしています。

Carta de Descartes a Mersenne, 20 Noviembre 1629http://www.ithinksearch.com)

◆マリナ ヤグェーロ『言語の夢想者―17世紀普遍言語から現代SFまで』(谷川多佳子・江口修訳、工作舎:1990

◆谷川多佳子「デカルトと言語 : 二元論, 普遍言語, ライプニッツ」哲学・思想論集・巻181993-03

◆浜口稔「ライプニッツの普遍言語」 明治大学教養論集: 1995-3

J.ノウルソン『英仏普遍言語計画』浜口稔訳,工作舎:1993

2021年5月10日月曜日

言葉の3つの次元を考える!

生活構造論の「3分け」論を確かめるため、「言葉」の3次元を考えています。

これまで見てきたアウグスティヌスの3次元論井筒俊彦の言語阿頼耶識説などを参考にすると、このブログの【言語化とはいかなる行為なのか?などで主張してきた言葉の3階層説(表層言語・日常言語・深層言語)も、以下のように修正されるでしょう。

思考言語(観念言語)・・・観念や概念など抽象化した記号として、脳内で使用している言葉。

日常言語(交信言語)・・・日常的に脳内で思考し、それらを会話や文通などの交信手段として使用している言葉。

深層言語(象徴言語)・・・日常言語が生まれる前の、脳内イメージ(元型)やオノマトペ(擬声語)など、無意識的な"象徴"に載って表される言葉。

アウグスティヌスのいう、外向き会話(locutio foris) 日常言語思考向き会話(cognitativium in similitudine soni)思考言語、内向き会話(locutio interior)深層言語であり、内向き会話は、井筒のいう言語阿頼耶識は深層言語ということになるでしょう。

この3次元については、言語学、言語哲学、心理学などでも、さまざまな議論が行われてきました。言葉とは何かを考える、最も基本的な次元だと思いますので、古今東西の先学諸賢がどのように思考されてきたのか、一通り振り返っておきましょう。


古代ローマのアウグスティヌス(Augustinus354~ 430年)の言語観についてはすでに確かめましたので、その約700年前、古代ギリシアではどうだったのか、プラトンPlátōnBC427BC347年)やアリストテレスAristotelesBC384BC322年)について、蔵書の中で調べてみました。

しかし、彼らの著作には、言語3次元論に関わる言説はほとんどなく、わずかにアリストテレスの『命題論』に次のような見解が述べられていました。 

発声されて言葉となっているものはといえば、これは、心の中に浮んできている思いを、それから更に、字にされて書き綴られるものは、発声されて言葉となっているものを、それぞれ、しきたりに従ってぴったりとあらわすものなのである。

それからまた、皆のひとの使っている文字が同じだというわけでないのはもちろんのこと、その発声された言葉もやはり同じではない。

けれども、発声された言葉が直々にそれを言い表わすしるしなのだといえるあの当のもの、つまり心に浮かんできている思いは、皆のひとにとって同じであり、更に、心に浮んできている思いがそれに似たものであるそのもとの実物、これはもうなんといっても同じなのである。

ーーアリストテレス『命題論』第1章:水野有庸訳:世界古典文学全集:筑摩書房:1966

 「発声されて言葉となっているもの(発話)」も「字にされて書き綴られるもの(文字)」も、ともに「しきたり」に従って使用されている日常言語である、ということでしょうか。

発声も書き文字も使い手によってそれぞれ異なりますが、それらで表そうとしている心象風景は現実を映しているがゆえにまったく同じになる、というのでしょう。 

そこでまず名指し言葉であるが、これは、取り決めにもとづいてものを表わすことが出来て、時というものには係わりがないような、発声された言葉のことである。

更に言えば、それは、そのいかなる一部分といえども、それだけが別に切り離されてしまうと、そこがものを表わすことは出末なくなってくる、そういうものなのである。

――同、第2

いわゆる名詞は、慣習(συνθκην)に基づいて定められた事物を表す、一連の音声であり、一つ一つの音が切り離されると、もはや表わすことができなくなる、ということでしょう。 

取りきめにもとづいて、とさきに言ったのは、名指し言葉のうちには、ただの自然によってはじめからできていたものは一つとしてなく、まずしきたりによるぴったりとしたしるしとなったうえではじめて、名指し言葉だといえるものができるからなのである。

つまりここでは、禽獣どもが発するような、字ではっきりと書きあらわせない種々の鳴声でさえも、なにかのことを指しあらわしていることはいるが、それらのうちに名指し言葉だと言えるものは一つもない、というようなことを思いおこしてみればよい。

――同、第2

名詞という言葉は必ず人間のしきたりによって生まれるものであり、動物の鳴き声のような、何かを意味してはいるものの、決して言葉とは言えないことと比較すればいい、というのでしょう。

以上のようにざっと見てくると、アリストテレスの著作に見られる、古代ギリシアの言語観は、日常言語という基礎的な思考の充実に向けられていたように思われます。