差異化というマーケティング手法が、とりわけ注目されるようになったのは1980年代からだと思います。その背景については、すでに「差異化戦略はなぜ登場したのか?」で述べています。
すでに1960年代から、フランスの社会学者J.ボードリヤールは「消費されるためには、モノは記号にならなければならない」(『物の体系――記号の消費:Le Système des objets』1968)と、私たちの“消費”観を根本的に覆すことを提案していましたが、この思想が日本にも浸透してきたのです。
ヒトは他の動物とは異なって、本能や身体が要求するものを求めるだけでなく、言葉が要求するものも求めます。のどが渇いた時、水道の水を求めるだけでなく、カラフルな軽飲料やCMで見たドリンクを求めます。寒さを感じた時、木綿の下着を増やすだけでなく、流行のデザインのオーバーコートを求めます。
本能や身体が要求するものを求める願望が「欲求」であり、言葉が要求するものも求める願望が「欲望」だとすれば、欲望とは、身体がまったく求めないものでも、あえて求める願望ということになります。
これに気づいた時から、マーケティングの基本的なスタンスが大きく変わりました。それまでの「欲求」に対する「差別化」から、新たに「欲望」に対する「差異化」が主流になってきました。
差別化とは、生活界の中心の平常界の中で、感覚の求めるものを言語化した「欲求」を対象にして、さまざまな“モノ”を投げかける手法です。これに対し、差異化は、言語界から生まれる、幾つかの願望、つまり感覚よりも言語を重視する「欲望」に向けて、さまざまな“コト”を投げかける手法です。
そこで、1980年代以降のマーケティングでは、多様な言語や記号を駆使して、コトづくりを推進してきました。斬新なネーミングや奇抜なデザインはもとより、「曰く因縁、由緒来歴」というストーリーから「ロハス」「サステナブル」「ギルティフリー」などのライフスタイルまで、新たなコトを作り出して、既存商品との〝差異”を強調し、それによって新規の消費を喚起してきたのです。
その手法は極めて巧みであり、新聞や雑誌などの印刷メディア、テレビやラジオなどの電波メディアはもとより、インターネットや携帯電話を利用したSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)まで、あらゆるメディアを駆使して、消費者への接近を図っています。
こうした手法が蔓延した結果、私たちの生活では何が起こり、意識の中では一体何が変わったのでしょう。
2015年12月29日火曜日
2015年12月26日土曜日
差異化と差元化を比較する!
これまで生活学の視点から、マーケティングの7つの戦略について述べてきましたので、ここからは各戦略の優劣について考えていきます。
最初に「差別化」の上下に位置する「差異化」と「差元化」、つまり、私たちの生活願望の中の、「欲求」の上下に潜む「欲望」向けと「欲動」向けについて、その利害を比較してみましょう。
2つの戦略を以上のように定義した上で、それぞれの利点・欠点を考えてみましょう。
最初に「差別化」の上下に位置する「差異化」と「差元化」、つまり、私たちの生活願望の中の、「欲求」の上下に潜む「欲望」向けと「欲動」向けについて、その利害を比較してみましょう。
差異化とは何か、差元化とは何か、初めに両方の定義を改めて確認しておきます。
差異化戦略とは何か。
- 生活球の上部に位置する生活願望「欲望」に向けて、商品やサービスのうえに、言語やイメージなど、さまざまな「記号」を載せ、新規性や異質性を訴求する戦略。
- 「モノ」の上に「コト」、つまり「記号」を乗せることで、言葉によって掻き立てられた「欲望」をキャッチしようとする戦略。
- 基本的な手法は、カラー化、デザイン化、ネーミング化、ストーリー化など。
差元化戦略とは何か。
- 生活球の下部に位置する生活願望「欲動」に向けて、商品やサービスから言葉やイメージなどの「記号」をあえて外し、身体性や直感性、原始性や動物性などの「身分け」能力を回復させようとする戦略。
- 「モノ」の上に載った「コト」、つまり「記号」を外すことで、言葉によって掻き立てられる以前の「欲動」へ向かって、あえて接近しようとする戦略。
- 基本的な手法は、象徴・神話化、無意識・未言語化、感覚・体感化など。
2つの戦略を以上のように定義した上で、それぞれの利点・欠点を考えてみましょう。
2015年12月14日月曜日
差戯化の4つの戦略
虚構願望を的確にとらえ、ユニークな緩み方や遊び方を開拓し、斬新な虚構界を築いていくには、これまでの怠惰や遊戯対応を超えた、より的確なマーケティング戦略が必要です。
そこで、対象となる虚構願望の中身を大別してみると、次の4つの戦略が浮かんできます。
第1は浪費・蕩尽戦略。目標や目的を意図的に放棄して、気の向くままに行動することを意味します。私的な生活次元での無為や惰性などの「怠惰」戦略を基盤にして、経済的な生活次元では無駄づかいや蕩尽などの「浪費」戦略が、社会的な生活次元では冗費や乱費やなどの「蕩尽」戦略が生まれてきます。
第2は虚脱・混乱戦略。陶酔、酩酊、トランポリンなど虚構空間の中で私的な錯乱状態を求める「めまい」戦略を基盤にして、温泉や気晴らし旅行など体感次元の発散を求める「虚脱」戦略や、遊園地やカーニバルなどの設備で集団的に虚脱空間を作りだす「混乱」戦略が生まれてきます。
第3は戯化・模擬戦略。仮面遊びや着せ替え遊びなどの虚構ルールへ私的に戯れようとする「私戯」戦略を基盤として、娯楽やレジャーなど日常的な虚構を実行しようとする「戯化」戦略や、映画、演劇、音楽、美術など虚構空間を集団的に作りだそうとする「模擬」戦略が生まれてきます。
第4はゲーム・競争戦略。ギャンブルやくじなどの虚構ルールへ私的に挑戦しようという「賭け」戦略を基盤として、囲碁や麻雀などの虚構ルールへ日常的に戯れる「ゲーム」戦略や、競技や競演など虚構ルールへ集団的に戯れようとする「競争」戦略が生まれてきます。
差戯化戦略では、以上の4つの方向のそれぞれに応えて、まったく新たな商品やサービスを作りだしていく手法はもとより、日常願望や真実願望向けの商品やサービスを虚構願望に向けて転換してしまうといった、幾つかの手法が必要になるでしょう。
そこで、対象となる虚構願望の中身を大別してみると、次の4つの戦略が浮かんできます。
第1は浪費・蕩尽戦略。目標や目的を意図的に放棄して、気の向くままに行動することを意味します。私的な生活次元での無為や惰性などの「怠惰」戦略を基盤にして、経済的な生活次元では無駄づかいや蕩尽などの「浪費」戦略が、社会的な生活次元では冗費や乱費やなどの「蕩尽」戦略が生まれてきます。
第2は虚脱・混乱戦略。陶酔、酩酊、トランポリンなど虚構空間の中で私的な錯乱状態を求める「めまい」戦略を基盤にして、温泉や気晴らし旅行など体感次元の発散を求める「虚脱」戦略や、遊園地やカーニバルなどの設備で集団的に虚脱空間を作りだす「混乱」戦略が生まれてきます。
第3は戯化・模擬戦略。仮面遊びや着せ替え遊びなどの虚構ルールへ私的に戯れようとする「私戯」戦略を基盤として、娯楽やレジャーなど日常的な虚構を実行しようとする「戯化」戦略や、映画、演劇、音楽、美術など虚構空間を集団的に作りだそうとする「模擬」戦略が生まれてきます。
第4はゲーム・競争戦略。ギャンブルやくじなどの虚構ルールへ私的に挑戦しようという「賭け」戦略を基盤として、囲碁や麻雀などの虚構ルールへ日常的に戯れる「ゲーム」戦略や、競技や競演など虚構ルールへ集団的に戯れようとする「競争」戦略が生まれてきます。
差戯化戦略では、以上の4つの方向のそれぞれに応えて、まったく新たな商品やサービスを作りだしていく手法はもとより、日常願望や真実願望向けの商品やサービスを虚構願望に向けて転換してしまうといった、幾つかの手法が必要になるでしょう。
2015年12月7日月曜日
虚構願望はなぜ高まるか?
虚構願望の高まる背景には、やはり人口減少社会があります。人口が減るのは、1億2800万人の人口を可能にしてきた「人口容量」の壁に突き当たったためですが、この壁を超えるには数十年かかりますから、それまでの間は閉塞感が高まってきます。
閉塞感が高まれば、緊張や不満も高まりますから、それらを緩和するため、一時は怠惰に逃げ込んだり、仕事や勉学を放棄して、娯楽や遊興に耽りたい、と思うようになります。
これらの生活願望が、人口が増加した成長・拡大期とは一味も二味も違う、成熟・濃縮期独特の休み方や遊び方を求める需要を高めていきます。
同じように人口減少期であった江戸中期にも、虚構願望がかなり高まっていました。
農村から離脱した無宿人が博徒となって増加し、各地に賭博場を増やし、賭場主である親分同志の闘争まで引き起こしました。
都市でも多くの奉公人が無断で店を抜け出し、群れをなして伊勢神宮へ参詣する「お蔭参り」が数十年ごとに起こっています。東国や東北からの参詣者たちは、江戸、秋葉山、津島などに詣でてから伊勢神宮に参り、さらに吉野、高野山、奈良や金毘羅、大坂、京都、善光寺にまで、足を延ばしていました。
他方、新たな遊びも広がっています。
宝永から天保期にかけては、江戸歌舞伎の黄金時代となり、二代目市川団十郎の『助六由縁江戸桜』から、四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』まで、新たな大衆娯楽が確立しました。
宝永から天保期にかけては、江戸歌舞伎の黄金時代となり、二代目市川団十郎の『助六由縁江戸桜』から、四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』まで、新たな大衆娯楽が確立しました。
戯作でも、談義本、洒落本、読本、黄表紙、滑稽本、人情本、合巻など、大衆向けの娯楽出版物が数多く出版されています。とりわけ読本では、山東京伝や曲亭馬琴が悪、美、怪奇などを表現し、多くの読者を獲得しています。
また絵画では、多色刷りの浮世絵が、天明から寛政期に鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、歌川豊国らの優れた絵師を輩出して黄金時代を迎えました。続く化政・天保期には、葛飾北斎や歌川広重の、芸術性と大衆性を統一した高度な版画や、渓斎英泉や歌川国貞の、退廃的でグロテスクな作品に移行しています。
このように江戸中期の遊びには、形態的には新しい集団性が育まれ、また内容的には夢幻、怪奇、爛熟、退廃的な趣向や、洗練、風刺、洒落、さらには停滞を打破しようとする批判精神まで絡みあっています。
同様の傾向は今後の日本でも次第に強まっていきます。人口が減少するにつれて、新たな楽しみや遊びへの需要が高まり、人生85~90歳という長寿化も重なって、これまで以上に遊びや怠惰への願望を高めていくことになるでしょう。
2015年11月29日日曜日
差戯化とは何か?
7番目のマーケティング戦略は「差戯化」です。
差戯化は、真摯・虚構軸の上の虚構界から生まれてくる虚構願望に応えて、新しいネウチを創り出し、商品やサービスのうえに載せていく手法です。
虚構界とは、言葉の示すことをすべて虚構とみなしたうえで、その嘘を楽しむ場であり、いわゆる「ザレゴト」「アソビゴト」「カケゴト」「エソラゴト」「タワゴト」などが浮遊する空間です。
ここから生まれてくる虚構願望は、言葉の示す目標を意識的に緩めて、自らの行動をあえて弛緩させ、遊びや解放を味わおうとします。
それゆえ、この願望には、言葉の持つ規範性を無視して、怠惰、虚無、浪費、蕩尽などへ向かっていく消極的な方向と、言葉の虚構性を認めて、遊戯、ゲーム、模擬、混乱などを楽しもうとする積極的な方向の2つがあります。
前者の例が個人的次元の怠惰や惰性、経済的次元の浪費や蕩尽などであり、後者の例が社会的次元の遊戯や遊興、スポーツやエンターテインメントなどです。
こうした虚構願望は、今後の社会でますます高まると予想されますが、その背景には一体何があるのでしょうか。
差戯化は、真摯・虚構軸の上の虚構界から生まれてくる虚構願望に応えて、新しいネウチを創り出し、商品やサービスのうえに載せていく手法です。
虚構界とは、言葉の示すことをすべて虚構とみなしたうえで、その嘘を楽しむ場であり、いわゆる「ザレゴト」「アソビゴト」「カケゴト」「エソラゴト」「タワゴト」などが浮遊する空間です。
ここから生まれてくる虚構願望は、言葉の示す目標を意識的に緩めて、自らの行動をあえて弛緩させ、遊びや解放を味わおうとします。
それゆえ、この願望には、言葉の持つ規範性を無視して、怠惰、虚無、浪費、蕩尽などへ向かっていく消極的な方向と、言葉の虚構性を認めて、遊戯、ゲーム、模擬、混乱などを楽しもうとする積極的な方向の2つがあります。
前者の例が個人的次元の怠惰や惰性、経済的次元の浪費や蕩尽などであり、後者の例が社会的次元の遊戯や遊興、スポーツやエンターテインメントなどです。
こうした虚構願望は、今後の社会でますます高まると予想されますが、その背景には一体何があるのでしょうか。
2015年11月25日水曜日
差真化の4つの戦略
第1は自制・自律戦略。望ましい自己を実現しようという目標(言語規範)をめざして、自省や内省を深める「内観」戦略を基礎に、行動や生活を制御しようとする「自律」戦略,自らの将来を描こうとする「向上」戦略が期待されます。
第2は勉学・教育戦略。将来の知的能力を築こうという目標(言語規範)をめざして、自ら学ぼうとする「自習」戦略をベースに、家庭や職場などでも勉学の機会を増やそうとする「勉学」戦略、さらには学校教育や専門教育などを利用して、知力を向上しようとする「教育」戦略が考えられます。
第3は修行・訓練戦略。自らの身体的・精神的能力を高めようとする目標(言語規範)をめざして、トレーニングや修練を行おうとする「自強」戦略をベースに、より強く訓練や鍛錬、節度や摂生を自らに課そうとする「修行」戦略、さらには学校やトレーニング機関で体力を向上しようとする「訓練」戦略が生まれてきます。
第4は作法・儀式戦略。望ましい公共生活を作りだそうという目標(言語規範)をめざして、わがままやエゴを抑制しようとする「自戒」戦略をベースに、マナーや家庭慣習などを守りたいという「作法」戦略、季節儀礼や通過儀礼などを守ろうとする、新たな「儀式」戦略が生まれてきます。
今後のマーケティングでは、以上の4つの願望のそれぞれに応えていく戦略が必要になるでしょう。
2015年11月16日月曜日
真実願望がなぜ高まるのか?
差真化は生活者の真実願望に応える戦略です.
真実願望は、今後の社会でますます高まっていくと思われます。なぜなら、現代社会と同じように、人口が減少し続けた時代には、真実願望が広がっていたという歴があるからです。
一つは新たな道徳感の出現。例えば人口が減り続けた江戸時代中期には、停滞する人口容量のもとで、膨れ上がった自意識を調整するため、さまざまなしくみが生まれています。
例えば、新たな道徳学として生まれた石門心学。1729年(享保14)、京都の商家に奉公しつつ、儒教を学んだ石田梅岩は、町人の日常生活を基礎にしたうえで、神道、儒教、仏教、老荘思想なども取り入れ、庶民向けの倫理学を生み出し、門弟の養成に努めています。
あるいはゴミ戦争の終焉。江戸前期には頻発していた、町内のゴミを夜間に隣町へ放棄し、翌日には隣町が逆襲するというゴミ戦争も、享保期以降になると、幕府公認のごみ捨て請負人組合が収集し、燃料芥、肥料芥、金物芥に分けて湯屋、農家、鍛冶屋などは売却して、再資源化と費用低減の両面を図るという、見事なルールができあがってきます。
こうした作法やマナーの拡大は、同じように人口が減少していた中世後期のヨーロッパにも見られます。この時代には、父親が子どもに公私の生活心得を説く「ユルバンの訓戒」(13世紀)や「食卓の心得」(13~15世紀)といったマナー書が広く普及しています。
もう一つは向学志向の上昇。江戸中期には、武士階級を対象にした藩校はもとより、町人や百姓の子弟を対象にした寺子屋や郷学も増加し、全国的に識字率が急上昇しています。
享保期に解禁された西洋本草学や蘭学は次第に発展して、田沼時代になると、『解体新書』『蘭学事始、『蘭学揩梯』『ハルマ和解』などが出版され、さらに寛政期以降は医学系、物理・化学系、天文暦学系、世界地理学系、西洋事情系などに分かれて急速に広がっています。
このように、人口減少期は作法や儀礼、勉学や鍛錬が重視される真実の時代になります。
すでに現代日本でも、エスカレーターの片側乗りや、トイレやキャッシュディスペンサーの一列待ち、禁煙区域に拡大など、新たな作法やマナーが生まれていますが、これらが浸透していけば、従来の社会ルールに代わる、新たな「公共性」として世の中に定着していくでしょう。
一方、少産・長寿化の進行に伴って、各種の「脳トレ」や四国八十八カ所巡礼など、新たな勉学やトレーニングも流行しはじめていますが、こうした動きはやがて公共的な教育システムの改革にまで波及していくでしょう。
今後、人口減少が進むにつれて、世の中にはゆとりが生まれてきますから、新しい作法や儀礼がさらに広がり、学問や鍛錬をめざす気風もいっそう重視されるようになります。これこそ、今後、真実願望が拡大する、社会的な背景といえるでしょう。
真実願望は、今後の社会でますます高まっていくと思われます。なぜなら、現代社会と同じように、人口が減少し続けた時代には、真実願望が広がっていたという歴があるからです。
一つは新たな道徳感の出現。例えば人口が減り続けた江戸時代中期には、停滞する人口容量のもとで、膨れ上がった自意識を調整するため、さまざまなしくみが生まれています。
例えば、新たな道徳学として生まれた石門心学。1729年(享保14)、京都の商家に奉公しつつ、儒教を学んだ石田梅岩は、町人の日常生活を基礎にしたうえで、神道、儒教、仏教、老荘思想なども取り入れ、庶民向けの倫理学を生み出し、門弟の養成に努めています。
あるいはゴミ戦争の終焉。江戸前期には頻発していた、町内のゴミを夜間に隣町へ放棄し、翌日には隣町が逆襲するというゴミ戦争も、享保期以降になると、幕府公認のごみ捨て請負人組合が収集し、燃料芥、肥料芥、金物芥に分けて湯屋、農家、鍛冶屋などは売却して、再資源化と費用低減の両面を図るという、見事なルールができあがってきます。
こうした作法やマナーの拡大は、同じように人口が減少していた中世後期のヨーロッパにも見られます。この時代には、父親が子どもに公私の生活心得を説く「ユルバンの訓戒」(13世紀)や「食卓の心得」(13~15世紀)といったマナー書が広く普及しています。
もう一つは向学志向の上昇。江戸中期には、武士階級を対象にした藩校はもとより、町人や百姓の子弟を対象にした寺子屋や郷学も増加し、全国的に識字率が急上昇しています。
これに連動して簡易な刷物技術が拡大し、学問、思想、道徳に関わる「書物」が大量に出版され、新たな学問も進展しています。
享保期に解禁された西洋本草学や蘭学は次第に発展して、田沼時代になると、『解体新書』『蘭学事始、『蘭学揩梯』『ハルマ和解』などが出版され、さらに寛政期以降は医学系、物理・化学系、天文暦学系、世界地理学系、西洋事情系などに分かれて急速に広がっています。
このように、人口減少期は作法や儀礼、勉学や鍛錬が重視される真実の時代になります。
すでに現代日本でも、エスカレーターの片側乗りや、トイレやキャッシュディスペンサーの一列待ち、禁煙区域に拡大など、新たな作法やマナーが生まれていますが、これらが浸透していけば、従来の社会ルールに代わる、新たな「公共性」として世の中に定着していくでしょう。
一方、少産・長寿化の進行に伴って、各種の「脳トレ」や四国八十八カ所巡礼など、新たな勉学やトレーニングも流行しはじめていますが、こうした動きはやがて公共的な教育システムの改革にまで波及していくでしょう。
今後、人口減少が進むにつれて、世の中にはゆとりが生まれてきますから、新しい作法や儀礼がさらに広がり、学問や鍛錬をめざす気風もいっそう重視されるようになります。これこそ、今後、真実願望が拡大する、社会的な背景といえるでしょう。
2015年11月5日木曜日
差真化とは何か?
6番目のマーケティング戦略は「差真化」です。
差真化は、真摯・虚構軸の上の真実界から生まれてくる真実願望に応えて、新しいネウチを創り出し、商品やサービスのうえに載せていく手法です。
私たちの生活体を創り出している言葉には、真実を示す機能とともに、真っ赤な嘘を示す機能も潜んでいます。
だが、このままでは不安になりますから、私たちは予め、言葉が真実を保証する場と、言葉が虚構であることを示す場を用意して、それぞれの中で言葉を使い分けています。
前者の、言葉の示すことを全く疑わないで、すべてを真実とみなす場が真実界であり、その中で私たちは儀礼、緊張、勤勉、学習、訓練、節約、貯蓄などを行なっています。つまり、「マコト」「ナライゴト」「サダメゴト」などです。
他方、後者の、言葉の示すことをすべて虚構とみなしたうえで、その嘘を楽しむ場が虚構界ですが、ここでは遊戯、弛緩、怠惰、放蕩、遊興、浪費、蕩尽などを行なっています。いわゆる「ザレゴト」「アソビゴト」「カケゴト」などです。
2つの世界のうち、真実界のマコト、ナライゴト、サダメゴトなどを求める真実願望に向けて、積極的に働きかえる方法が差真化です。
つまり、差真化戦略とは、真摯・虚構軸上の真実界から生まれてくる、儀礼や儀式、学習や訓練、自制や自律などを求める真実願望に応えて、新たな儀式や儀礼、勉学やトレーニング、自省法や内観法など、時代や社会の変化に応じた、新しいコトを創り出し、商品やサービスのうえに載せていく手法といえるでしょう。
差真化は、真摯・虚構軸の上の真実界から生まれてくる真実願望に応えて、新しいネウチを創り出し、商品やサービスのうえに載せていく手法です。
私たちの生活体を創り出している言葉には、真実を示す機能とともに、真っ赤な嘘を示す機能も潜んでいます。
だが、このままでは不安になりますから、私たちは予め、言葉が真実を保証する場と、言葉が虚構であることを示す場を用意して、それぞれの中で言葉を使い分けています。
前者の、言葉の示すことを全く疑わないで、すべてを真実とみなす場が真実界であり、その中で私たちは儀礼、緊張、勤勉、学習、訓練、節約、貯蓄などを行なっています。つまり、「マコト」「ナライゴト」「サダメゴト」などです。
他方、後者の、言葉の示すことをすべて虚構とみなしたうえで、その嘘を楽しむ場が虚構界ですが、ここでは遊戯、弛緩、怠惰、放蕩、遊興、浪費、蕩尽などを行なっています。いわゆる「ザレゴト」「アソビゴト」「カケゴト」などです。
2つの世界のうち、真実界のマコト、ナライゴト、サダメゴトなどを求める真実願望に向けて、積極的に働きかえる方法が差真化です。
つまり、差真化戦略とは、真摯・虚構軸上の真実界から生まれてくる、儀礼や儀式、学習や訓練、自制や自律などを求める真実願望に応えて、新たな儀式や儀礼、勉学やトレーニング、自省法や内観法など、時代や社会の変化に応じた、新しいコトを創り出し、商品やサービスのうえに載せていく手法といえるでしょう。
2015年10月22日木曜日
限界効用理論を超えて!
前回紹介した、3つの効用を、近代経済学の「効用」観と比較してみましょう。
●共効:一定の社会集団が共通に認めた有用性ですから「全部効用」に該当します。
●個効:個人が共効に基づいて認め、かつ実際に感じる有用性ですから、概ね「限界効用」に相当します。
●私効:私人が社会的な「共効」とはまったく別に、純私的かつ独創的に認める有用性であり、「限界効用」とは別の次元において、新たに「愛着効用」もしくは「執着効用」とでも名づけるべきものです。
「限界効用」は「全部効用(共効)」という有用性に従いつつ、利用の数が増えるごとに、個々のモノの有用性が次第に減少していくという効用です。効用の量的な変化においては「全部効用」との差を強調していますが、中味の差、つまり質的な差異についてはまったく配慮していません。
これに対し、「愛着効用」は個々のモノに対して、使用者が共効とはまったく別の有用性を見出し、自ら愛着を増していくという効用ですから、「全部効用」や「限界効用」とは異なる、質的な差異です。それゆえ、必ずしも逓減傾向を示すものではなく、私人の評価や気分によって増えたり減ったりすることもあります。
もし供給側が、このような「愛着効用(私効)」を需要側に提供しようとするのであれば、従来の「全部効用」や「限界効用」を前提にした経済学やマーケティング理論を大きく超えて、まったく新たな展開が期待できるでしょう。
●共効:一定の社会集団が共通に認めた有用性ですから「全部効用」に該当します。
●個効:個人が共効に基づいて認め、かつ実際に感じる有用性ですから、概ね「限界効用」に相当します。
●私効:私人が社会的な「共効」とはまったく別に、純私的かつ独創的に認める有用性であり、「限界効用」とは別の次元において、新たに「愛着効用」もしくは「執着効用」とでも名づけるべきものです。
「限界効用」は「全部効用(共効)」という有用性に従いつつ、利用の数が増えるごとに、個々のモノの有用性が次第に減少していくという効用です。効用の量的な変化においては「全部効用」との差を強調していますが、中味の差、つまり質的な差異についてはまったく配慮していません。
これに対し、「愛着効用」は個々のモノに対して、使用者が共効とはまったく別の有用性を見出し、自ら愛着を増していくという効用ですから、「全部効用」や「限界効用」とは異なる、質的な差異です。それゆえ、必ずしも逓減傾向を示すものではなく、私人の評価や気分によって増えたり減ったりすることもあります。
もし供給側が、このような「愛着効用(私効)」を需要側に提供しようとするのであれば、従来の「全部効用」や「限界効用」を前提にした経済学やマーケティング理論を大きく超えて、まったく新たな展開が期待できるでしょう。
2015年10月20日火曜日
効用の3つの形・・・マーケティング戦略も3つに分かれる!
言語学を応用すると、経済学でいう「効用」は、先に述べたように、さらに3つのネウチに分けられます。
「効用」とは、人間がモノそのものの中に有用性を認めることですが、人間の生きている生活体には、横軸として3つの世界
(社会界、間人界、私人界)があり、それぞれの世界別に、人間がモノに感じる有用性も微妙に異なってきます。
このため、「効用」という概念も、3つに分かれてきます。
●共効(social utility)・・・社会界において、ラング=社会集団が共同主観として認めた有用性であり、「共同効用」、略して「共効」とよぶことができます。
●個効(individual utility)・・・間人界において、人間がパロール1=個人使用を行う時に、1人の個人として、社会的効用を受け入れた「有用性1」であり、「個人効用」、略して「個効」とよぶことができます。
●私効(private utility)・・・私人界において、人間がパロール2=私的使用を行う時、私人が独自に創り出した私的な「有用性2」であり、「私的効用」、略して「私効」とよぶことができます。
以上のように、「効用」という概念は、「共効」「個効」「私効」の3つに分割できます。
具体的な事例は、次のとおりです。
3つの形に対して、マーケティング戦略も、差汎化、差別化、差延化とそれぞれ対応が異なってきます。
「効用」とは、人間がモノそのものの中に有用性を認めることですが、人間の生きている生活体には、横軸として3つの世界
(社会界、間人界、私人界)があり、それぞれの世界別に、人間がモノに感じる有用性も微妙に異なってきます。
このため、「効用」という概念も、3つに分かれてきます。
●共効(social utility)・・・社会界において、ラング=社会集団が共同主観として認めた有用性であり、「共同効用」、略して「共効」とよぶことができます。
●個効(individual utility)・・・間人界において、人間がパロール1=個人使用を行う時に、1人の個人として、社会的効用を受け入れた「有用性1」であり、「個人効用」、略して「個効」とよぶことができます。
●私効(private utility)・・・私人界において、人間がパロール2=私的使用を行う時、私人が独自に創り出した私的な「有用性2」であり、「私的効用」、略して「私効」とよぶことができます。
以上のように、「効用」という概念は、「共効」「個効」「私効」の3つに分割できます。
具体的な事例は、次のとおりです。
3つの形に対して、マーケティング戦略も、差汎化、差別化、差延化とそれぞれ対応が異なってきます。
2015年10月5日月曜日
価値と効用・・・言語学で説明する!
「価値」と「効用」の関係は、言語学を応用すると、もっと明確に説明できます。
例えば現代言語学の権威、F.ド.ソシュールは、言葉の「価値」について、言葉の「意義」と対比させることで、新たな解釈を与えています(『一般言語学講義』)。
ソシュールによると、1つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=意味されるもの)とが、一体的に結びついたものです。
この時、ある音声が特定のイメージと結びついて表示するものが言葉の「語義(signification)」であり、他の言葉との相対的、対立的な関係から決定される立場が言葉の「価値(Value)」となります。
例えば、「inu」という音声が「四足の小動物・犬」のイメージと結びついて示すものが言葉の「語義」であり、「 inu/四足の小動物・犬」という言葉と「neko/四足の小動物・猫」という言葉が、それぞれ別種の小動物を示すのが言葉の「価値」である、ということです。
要するに、言葉の「語義」とは、シニフィアンとシニフィエが一対一の「垂直の矢」で結びついている関係、言葉の「価値」とは、一つの言葉が他の言葉と比較・対立する「水平の矢」としての関係、ということです。
こうした「語義」と「価値」の関係は、モノの「効用」と「価値」の関係にも拡大できます。「効用」とは「人間の役に立つかどうか」という「意義」の一つだ、と考えると、「語義=効用」とみなせるからです。
さまざまなモノは、人間の役に立つかどうかで有用無用と判断されていますが、特定の「有用」性が「語義」となってモノに結びつくと、それがモノの「効用」になります。
パンというモノの「食用になる」という有用性がパンの効用であり、毛糸というモノの「温かさ」という有用性が毛糸の効用です。
これらのケースでも、「役立つ」というモノの特性の上に「有用」性という意義が覆いかぶさるように一体化していますから、「効用」とはまさに「垂直の矢」ということができます。
他方、モノの「価値」(「有用性」の上下)は、そのモノだけで決まるのではなく、「無用」というコトや、他のモノの「有用性」との“比較”や“対比”によってはじめて定まります。
パンは石よりも「食用になる」度合いが高いから「価値」があり、毛糸は木の皮より「温かい」比率が高いから「価値」があるのです。
いずれも有用と無用という「水平の矢」で比較されたうえで、「無用ではないもの」や「より有用なもの」が「価値」となります。
とすれば、「効用」とは一つのモノの意義がそのモノの有用性と一体化している状態、「価値」とは一つのモノの意義が他のモノの有用性と比較して決まる状態、ということができます。
いいかえれば、モノの「効用」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結びついた関係であり、モノの「価値」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係である、ということです。
このように、言語学の見解を取り入れると、「価値」と「効用」の違いが明確になり、それぞれの定義がより鮮明になります。
両者はともに共同体的な尊重性ですが、「効用」がモノの有用性と一体化した尊重性であるのに対し、「価値」は他の有用性と比較、対立して定まる尊重性ということです。
とすれば、差汎化とは、以上のような意味での「効用」や「価値」を創りだしていく戦略ということができます。
現代日本に適用すれば、従来の「効用」や「価値」と比較・対立できるような、新たな尊重性を創りだすことでしょう。
従来の社会が是認してきた共同体的な尊重性とは、国際的には食料・資源制約や地球環境悪化には目を瞑りつつ、国内的には人口増加、経済成長、生活向上などをひたすら是認する「成長・拡大型社会」像です。
これを相対化するには、国際的には食料・資源制約や環境問題などへ積極的に対応しつつ、国内的には少産・長寿化や家族縮小化など、いわば必然的に進んでいる「人口減少社会」へ柔軟に対応する「成熟・濃縮型社会」像でしょう。
これからの差汎化戦略の基本は多分、「成熟・濃縮型」というキーワードに集約されていくことになるでしょう。
例えば現代言語学の権威、F.ド.ソシュールは、言葉の「価値」について、言葉の「意義」と対比させることで、新たな解釈を与えています(『一般言語学講義』)。
ソシュールによると、1つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=意味されるもの)とが、一体的に結びついたものです。
この時、ある音声が特定のイメージと結びついて表示するものが言葉の「語義(signification)」であり、他の言葉との相対的、対立的な関係から決定される立場が言葉の「価値(Value)」となります。
例えば、「inu」という音声が「四足の小動物・犬」のイメージと結びついて示すものが言葉の「語義」であり、「 inu/四足の小動物・犬」という言葉と「neko/四足の小動物・猫」という言葉が、それぞれ別種の小動物を示すのが言葉の「価値」である、ということです。
要するに、言葉の「語義」とは、シニフィアンとシニフィエが一対一の「垂直の矢」で結びついている関係、言葉の「価値」とは、一つの言葉が他の言葉と比較・対立する「水平の矢」としての関係、ということです。
こうした「語義」と「価値」の関係は、モノの「効用」と「価値」の関係にも拡大できます。「効用」とは「人間の役に立つかどうか」という「意義」の一つだ、と考えると、「語義=効用」とみなせるからです。
さまざまなモノは、人間の役に立つかどうかで有用無用と判断されていますが、特定の「有用」性が「語義」となってモノに結びつくと、それがモノの「効用」になります。
パンというモノの「食用になる」という有用性がパンの効用であり、毛糸というモノの「温かさ」という有用性が毛糸の効用です。
これらのケースでも、「役立つ」というモノの特性の上に「有用」性という意義が覆いかぶさるように一体化していますから、「効用」とはまさに「垂直の矢」ということができます。
他方、モノの「価値」(「有用性」の上下)は、そのモノだけで決まるのではなく、「無用」というコトや、他のモノの「有用性」との“比較”や“対比”によってはじめて定まります。
パンは石よりも「食用になる」度合いが高いから「価値」があり、毛糸は木の皮より「温かい」比率が高いから「価値」があるのです。
いずれも有用と無用という「水平の矢」で比較されたうえで、「無用ではないもの」や「より有用なもの」が「価値」となります。
とすれば、「効用」とは一つのモノの意義がそのモノの有用性と一体化している状態、「価値」とは一つのモノの意義が他のモノの有用性と比較して決まる状態、ということができます。
いいかえれば、モノの「効用」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結びついた関係であり、モノの「価値」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係である、ということです。
このように、言語学の見解を取り入れると、「価値」と「効用」の違いが明確になり、それぞれの定義がより鮮明になります。
両者はともに共同体的な尊重性ですが、「効用」がモノの有用性と一体化した尊重性であるのに対し、「価値」は他の有用性と比較、対立して定まる尊重性ということです。
とすれば、差汎化とは、以上のような意味での「効用」や「価値」を創りだしていく戦略ということができます。
現代日本に適用すれば、従来の「効用」や「価値」と比較・対立できるような、新たな尊重性を創りだすことでしょう。
従来の社会が是認してきた共同体的な尊重性とは、国際的には食料・資源制約や地球環境悪化には目を瞑りつつ、国内的には人口増加、経済成長、生活向上などをひたすら是認する「成長・拡大型社会」像です。
これを相対化するには、国際的には食料・資源制約や環境問題などへ積極的に対応しつつ、国内的には少産・長寿化や家族縮小化など、いわば必然的に進んでいる「人口減少社会」へ柔軟に対応する「成熟・濃縮型社会」像でしょう。
これからの差汎化戦略の基本は多分、「成熟・濃縮型」というキーワードに集約されていくことになるでしょう。
2015年10月1日木曜日
価値と効用・・・どこが違うのか?
「差汎化」戦略は、社会⇔個人軸の社会界から生まれる諸需要に応えて、「価値」や「効用」などを創りだす手法です。
このうち、「価値」という言葉は、毎日の生活から哲学的な思索にいたるまで、さまざまな形で使われています。しかし、その意味は必ずしも定まっているわけではありません。最も頻繁に使用している経済学でも、立場によって諸説があります。
◆古典派経済学・・・A.スミスは、その著『諸国民の富』の中で、モノの「価値(Value)」には2つの意味があり、1つは「ある特定の対象の効用(Utility)」=「使用価値(Value in Use)」、もう1つは「他の財貨に対する購買力(Power of Purchasing Other Goods)」=「交換価値(Value in Exchange)」である、と述べています。
両者の差を示す実例として、使用価値はあるが交換価値がほとんどないモノが「水」であり、使用価値はほとんどないが交換価値は極めて高いモノが「ダイヤモンド」である、と指摘しています。
◆近代経済学=限界効用学派・・・この派を代表する一人、W.ジェヴォンズは、その著『経済学の理論』において、「価値」という言葉には、①使用価値=全部効用、②尊重=最終効用度、③購買力=交換比率といった概念が混在しているから、使用価値については「効用」とよぶべきだ、と主張しています。「効用」とは「人間の要求に対するその関係から起る物の状況」というのです。
◆マルクス主義経済学・・・創始者のK.マルクスは代表作『資本論』の中で、「使用価値」とは「人間の欲望をみたすもの」であるが、それはあくまで「価値」の〝素材〟にすぎず、他の物との交換可能性を生じて「交換価値」となった時に、初めて本物の「価値」になる、と主張しています。そして、この「価値」は人間の労働力の凝固したものであるから、その量は労働の量や質によって生み出される、と考えています。
このように経済学でも、さまざまな立場によって定義は異なっていますが、共通しているのは「モノの持つ特性が人間に提供する利点=使用価値」と「モノが他のモノとの交換力で人間に提供する利点=交換価値」を区別していることです。
経済学の立場に立てば、前者が「効用」であり、後者が「価値」ということになります。
つまり、古典派経済学は、前者と後者をあげたうえで両者の違いを指摘し、近代経済学は前者に力点をおいて、またマルクス主義経済学は後者に中心にして、それぞれの理論を展開しているといえるでしょう。
これまでの経済学では「価値」と「効用」を以上のような視点でとらえています。しかし、この区分は哲学や言語学から見ると、未だ狭い分野に留まっているように思えます。どこがそうなのか、改めて考えてみましょう。
このうち、「価値」という言葉は、毎日の生活から哲学的な思索にいたるまで、さまざまな形で使われています。しかし、その意味は必ずしも定まっているわけではありません。最も頻繁に使用している経済学でも、立場によって諸説があります。
◆古典派経済学・・・A.スミスは、その著『諸国民の富』の中で、モノの「価値(Value)」には2つの意味があり、1つは「ある特定の対象の効用(Utility)」=「使用価値(Value in Use)」、もう1つは「他の財貨に対する購買力(Power of Purchasing Other Goods)」=「交換価値(Value in Exchange)」である、と述べています。
両者の差を示す実例として、使用価値はあるが交換価値がほとんどないモノが「水」であり、使用価値はほとんどないが交換価値は極めて高いモノが「ダイヤモンド」である、と指摘しています。
◆近代経済学=限界効用学派・・・この派を代表する一人、W.ジェヴォンズは、その著『経済学の理論』において、「価値」という言葉には、①使用価値=全部効用、②尊重=最終効用度、③購買力=交換比率といった概念が混在しているから、使用価値については「効用」とよぶべきだ、と主張しています。「効用」とは「人間の要求に対するその関係から起る物の状況」というのです。
◆マルクス主義経済学・・・創始者のK.マルクスは代表作『資本論』の中で、「使用価値」とは「人間の欲望をみたすもの」であるが、それはあくまで「価値」の〝素材〟にすぎず、他の物との交換可能性を生じて「交換価値」となった時に、初めて本物の「価値」になる、と主張しています。そして、この「価値」は人間の労働力の凝固したものであるから、その量は労働の量や質によって生み出される、と考えています。
このように経済学でも、さまざまな立場によって定義は異なっていますが、共通しているのは「モノの持つ特性が人間に提供する利点=使用価値」と「モノが他のモノとの交換力で人間に提供する利点=交換価値」を区別していることです。
経済学の立場に立てば、前者が「効用」であり、後者が「価値」ということになります。
つまり、古典派経済学は、前者と後者をあげたうえで両者の違いを指摘し、近代経済学は前者に力点をおいて、またマルクス主義経済学は後者に中心にして、それぞれの理論を展開しているといえるでしょう。
これまでの経済学では「価値」と「効用」を以上のような視点でとらえています。しかし、この区分は哲学や言語学から見ると、未だ狭い分野に留まっているように思えます。どこがそうなのか、改めて考えてみましょう。
2015年9月18日金曜日
差汎化とは何か?
差別化を原点に、差異化、差延化、差元化と解説してきましたので、次は「差汎化」を取り上げます。
「差汎化」戦略とは、社会⇔個人軸の社会界、つまり社会、価値、同調などを求める世欲に応えて、社会的なネウチや共同体的な需要を創りだす手法です。
これとは対照的な戦略が、すでに述べた「差延化」であり、社会⇔個人軸の個人界、つまり個人、私効、愛着などを求める私欲に応えて、私的なネウチや純個人的な需要を創りだす手法でした。
経済学では、一般にモノの有用性を「価値」と「効用」にわけて考えています(詳しくは後述します)。
「価値」とは、一定の社会集団の憤用や同意によって、一つのモノの「有用性」がさまざまなモノとの比較の中で評価される尺度です。
「効用」とは、一定の社会集団の憤用や同意によって、一つのモノの「有用性」がそのモノの特性として認められた状態です。
生活学マーケティングを考える場合には、この「効用」をさらに3つの次元に分けて考えるべきだ、と筆者は思っています。
①共効・・・社会集団が共通して認める有用性=共通効用
②個効・・・個人が共効に基づいて認める有用性=個別効用
③私効・・・私人が純私的に認める有用性=私的効用
の3つです。
以上の視点を前提にすると、市場社会で行われている、さまざまな需給行為には、次のような矛盾が指摘できます。
供給者である企業は、市場の存在を前提にして、商品の有用性を作り出し、かつ供給しています。この有用性とは、市場を支える多くの需要者が共通して求める「個効」を集約したものですから、まさに「共効」です。つまり、商品のネウチとは、多くの需要者が共通して商品に求める有用性、いわば有用性の“最大共通素”とでもいうべきものです。
通常、需要者である個人は、それらの「共効」に従って商品を購入し、そのとおりに使用して「個効」を実現しています。
しかし、個性や独創を重んじる生活者の場合は、純私的、主観的な「私効」を目的にしますから、既存の商品を購入した場合でも、それに手を加えたり、別の有用性に変換するなど、自分なりの手法で使用して「私効」を満足させています。この場合、一つの商品の有用性は、市場での最大共通素を前提にしながらも、その中から個人的、主観的に選ばれる有用性、いわば“最小共通素”となります。
となると、一つの商品の持つ「共効」と「私効」の間には微妙なズレが出てきます。
企業の側では、できるだけ多くの顧客の求めに共通する「個効」を抽出して、商品の「共効」を作り出そうとします。これに対し、個性的な生活者の側ではできるだけ自分だけの有用性を求めて、商品の「私効」を購入しようとします。
両者は当然重なっていますが、本質的にいえば、最大共通素と最小共通素がぴったり一致するのはごく稀なことです。そこで、企業は少数需要者の「私効」の一部を切り捨てることで大量生産を可能にし、また生活者は自分なりの「私効」をある程度犠牲にすることでその生活行動を実現していきます。
この落差を埋めることが差汎化戦略の最大の目的です。具体的には次のような方向が求められます。
第1に、生活者自身が試みる用途転用や用途変換に常に注意を払って、既存商品のネウチを再点検することが必要です。
第2に、社会変化や生活変動に対応して、既存商品のネウチを一旦解体し、そのうえで変化に見合うように再構築していくことが必要です。
第3にはより積極的に、今後の日本が向う人口減少社会の望ましいと思う方向を、商品やサービスの新たなネウチとして提案していくことです。
このような意味で、差汎化戦略が展開されていけば、これからのマーケティング戦略の中で、その比重は徐々に増していくことになるでしょう。
「差汎化」戦略とは、社会⇔個人軸の社会界、つまり社会、価値、同調などを求める世欲に応えて、社会的なネウチや共同体的な需要を創りだす手法です。
これとは対照的な戦略が、すでに述べた「差延化」であり、社会⇔個人軸の個人界、つまり個人、私効、愛着などを求める私欲に応えて、私的なネウチや純個人的な需要を創りだす手法でした。
経済学では、一般にモノの有用性を「価値」と「効用」にわけて考えています(詳しくは後述します)。
「価値」とは、一定の社会集団の憤用や同意によって、一つのモノの「有用性」がさまざまなモノとの比較の中で評価される尺度です。
「効用」とは、一定の社会集団の憤用や同意によって、一つのモノの「有用性」がそのモノの特性として認められた状態です。
生活学マーケティングを考える場合には、この「効用」をさらに3つの次元に分けて考えるべきだ、と筆者は思っています。
①共効・・・社会集団が共通して認める有用性=共通効用
②個効・・・個人が共効に基づいて認める有用性=個別効用
③私効・・・私人が純私的に認める有用性=私的効用
の3つです。
以上の視点を前提にすると、市場社会で行われている、さまざまな需給行為には、次のような矛盾が指摘できます。
供給者である企業は、市場の存在を前提にして、商品の有用性を作り出し、かつ供給しています。この有用性とは、市場を支える多くの需要者が共通して求める「個効」を集約したものですから、まさに「共効」です。つまり、商品のネウチとは、多くの需要者が共通して商品に求める有用性、いわば有用性の“最大共通素”とでもいうべきものです。
通常、需要者である個人は、それらの「共効」に従って商品を購入し、そのとおりに使用して「個効」を実現しています。
しかし、個性や独創を重んじる生活者の場合は、純私的、主観的な「私効」を目的にしますから、既存の商品を購入した場合でも、それに手を加えたり、別の有用性に変換するなど、自分なりの手法で使用して「私効」を満足させています。この場合、一つの商品の有用性は、市場での最大共通素を前提にしながらも、その中から個人的、主観的に選ばれる有用性、いわば“最小共通素”となります。
となると、一つの商品の持つ「共効」と「私効」の間には微妙なズレが出てきます。
企業の側では、できるだけ多くの顧客の求めに共通する「個効」を抽出して、商品の「共効」を作り出そうとします。これに対し、個性的な生活者の側ではできるだけ自分だけの有用性を求めて、商品の「私効」を購入しようとします。
両者は当然重なっていますが、本質的にいえば、最大共通素と最小共通素がぴったり一致するのはごく稀なことです。そこで、企業は少数需要者の「私効」の一部を切り捨てることで大量生産を可能にし、また生活者は自分なりの「私効」をある程度犠牲にすることでその生活行動を実現していきます。
この落差を埋めることが差汎化戦略の最大の目的です。具体的には次のような方向が求められます。
第1に、生活者自身が試みる用途転用や用途変換に常に注意を払って、既存商品のネウチを再点検することが必要です。
第2に、社会変化や生活変動に対応して、既存商品のネウチを一旦解体し、そのうえで変化に見合うように再構築していくことが必要です。
第3にはより積極的に、今後の日本が向う人口減少社会の望ましいと思う方向を、商品やサービスの新たなネウチとして提案していくことです。
このような意味で、差汎化戦略が展開されていけば、これからのマーケティング戦略の中で、その比重は徐々に増していくことになるでしょう。
2015年9月11日金曜日
物語と神話・・・どこが違うのか?
視覚手段でデザインとアートが対比されたように、聴覚手段では物語(Story)と神話(Mythology)が対比されてきます。
物語とは、一人の人間が言語を駆使して結びつけた意味の流れ(パロール1)を、他人に向かって語りかけた(パロール2)うえ、集団的な虚構物として認めさせる(ラング)文章群で、読物、小説、散文、講談、台本などの形をとることもあります。
一方、神話とは、民族や種族などの人間集団の心の底に潜んでいる、集団無意識的な世界像を、さまざまな象徴(C.G.ユングのいう元型:archetype)に仮託させて紡ぎ出した文章群で、昔噺、民話、お伽話、伝説などの形をとることもあります。
要約すれば、
物語とは、あくまでも言語界という、意識的、目的的、共通コードを前提にしたコミュニケーション活動であり、
神話とは感覚界において、無意識的、未目標的、共通体感的に行うコミュニケーション活動ということになるでしょう。
マーケティングに応用すると、物語は差異化戦略で、また神話は差元化戦略で、それぞれ活用できます。
物語は、差異化戦略の一つ、いわゆるストーリー戦略になります。「曰く因縁由緒来歴」などの意味を一連の記号の流れに変えて、商品やサービスの上に乗せることにより、広告効果や販売拡大をねらうことができます。
神話は、差元化戦略の有力な手法の一つ、ミソロジー戦略になります。商品やサービスの上にさまざまな元型を組み入れた象徴の流れを加えることにより、生活者や消費者の感覚や無意識に訴求して、広告効果や販売拡大をねらうことができます。
実例をあげれば、次のような事例があげられます。
①Softbankの「白戸家」CM・・・「お父さん犬」を中心にした家族の動静を描く、典型的なストーリー戦略です。西部劇、宇宙編、悪代官など、劇的なシナリオ(scenario)によって、構築的に作られたイメージを視聴者に訴求しています。
②auの「あたらしい英雄」CM・・・、日本の昔話を代表する3太郎(桃太郎、金太郎、浦島太郎)が友達となって、さまざまなシーンを動き回るCMです。日本人にとって、3太郎は童子や道化など、いわゆる「元型」であり、私たちの心の奥に浸透して、郷愁や安堵感など与えますから、このCMはミソロジー戦略の一例ともいえます。
もっとも、現在までのところ、このCMのシナリオは日常的・意識的な次元に留まっていますから、ミソロジーを借用したストーリー戦略ともいえるでしょう。
③Disneyのキャラクター戦略・・・Disneyの動画はもとよりDisney land、Disney sea、Disney Resortなどにおける、さまざまなキャラクター(Mickey Mouse、Donald Duck、Pluto、Peter Pan、Cinderella、Snow Whiteなど)は、基本的に童子、童女、道化などの「元型(archetype)」であり、これらによって夢想、幻想、郷愁、追憶、安心、永遠など無意識界へ遊ぶことができます。
その意味で、典型的なミソロジー戦略といえるでしょう。
マーケティング学者の中には、このキャラクター戦略を差異化の典型だと述べている方もいますが、本質を外した、皮相的な見方だと思います。
以上のように、マーケティング戦略の視点を差異化から差元化へ拡大すると、さらに新しい方法論が広がっていきます。
物語とは、一人の人間が言語を駆使して結びつけた意味の流れ(パロール1)を、他人に向かって語りかけた(パロール2)うえ、集団的な虚構物として認めさせる(ラング)文章群で、読物、小説、散文、講談、台本などの形をとることもあります。
一方、神話とは、民族や種族などの人間集団の心の底に潜んでいる、集団無意識的な世界像を、さまざまな象徴(C.G.ユングのいう元型:archetype)に仮託させて紡ぎ出した文章群で、昔噺、民話、お伽話、伝説などの形をとることもあります。
要約すれば、
物語とは、あくまでも言語界という、意識的、目的的、共通コードを前提にしたコミュニケーション活動であり、
神話とは感覚界において、無意識的、未目標的、共通体感的に行うコミュニケーション活動ということになるでしょう。
マーケティングに応用すると、物語は差異化戦略で、また神話は差元化戦略で、それぞれ活用できます。
物語は、差異化戦略の一つ、いわゆるストーリー戦略になります。「曰く因縁由緒来歴」などの意味を一連の記号の流れに変えて、商品やサービスの上に乗せることにより、広告効果や販売拡大をねらうことができます。
神話は、差元化戦略の有力な手法の一つ、ミソロジー戦略になります。商品やサービスの上にさまざまな元型を組み入れた象徴の流れを加えることにより、生活者や消費者の感覚や無意識に訴求して、広告効果や販売拡大をねらうことができます。
実例をあげれば、次のような事例があげられます。
①Softbankの「白戸家」CM・・・「お父さん犬」を中心にした家族の動静を描く、典型的なストーリー戦略です。西部劇、宇宙編、悪代官など、劇的なシナリオ(scenario)によって、構築的に作られたイメージを視聴者に訴求しています。
②auの「あたらしい英雄」CM・・・、日本の昔話を代表する3太郎(桃太郎、金太郎、浦島太郎)が友達となって、さまざまなシーンを動き回るCMです。日本人にとって、3太郎は童子や道化など、いわゆる「元型」であり、私たちの心の奥に浸透して、郷愁や安堵感など与えますから、このCMはミソロジー戦略の一例ともいえます。
もっとも、現在までのところ、このCMのシナリオは日常的・意識的な次元に留まっていますから、ミソロジーを借用したストーリー戦略ともいえるでしょう。
③Disneyのキャラクター戦略・・・Disneyの動画はもとよりDisney land、Disney sea、Disney Resortなどにおける、さまざまなキャラクター(Mickey Mouse、Donald Duck、Pluto、Peter Pan、Cinderella、Snow Whiteなど)は、基本的に童子、童女、道化などの「元型(archetype)」であり、これらによって夢想、幻想、郷愁、追憶、安心、永遠など無意識界へ遊ぶことができます。
その意味で、典型的なミソロジー戦略といえるでしょう。
マーケティング学者の中には、このキャラクター戦略を差異化の典型だと述べている方もいますが、本質を外した、皮相的な見方だと思います。
以上のように、マーケティング戦略の視点を差異化から差元化へ拡大すると、さらに新しい方法論が広がっていきます。
2015年9月5日土曜日
デザインとアート・・・どこが違うのか?
言葉⇔感覚の垂直軸という視点から見ると、デザインとアートの違いが明白に見えてきます。
私たちはサインやシンボルを使って、さまざまなコミュニケーション活動を行っています。
記号=サインの次元でいえば、ネーミング(naming)や物語(story)などの言語記号で、あるいはカラー、デザイン、パターンなどのイメージ記号を使って、さまざまな内容=コンテンツを伝達しています。
象徴=シンボルの次元でいえば、オノマトペ(onomatopé:仏、擬声語)や神話(mythology)などの未言語象徴で、あるいはデッサン(dessin:仏)や元型(archetype)などのイメージ象徴を使って、幾つかのコンテンツを伝達しています。
いいかえると、聴覚手段では、ネーミングや物語などの言語記号で言語界内の、またオノマトペや神話などの未言語象徴で感覚界内の、それぞれのコミュニケーションを行っています。
また視覚手段でいえば、カラー、デザイン、パターンドなどのイメージ記号で言語界内の、またデッサンや元型などのイメージ象徴で感覚界内の、それぞれのコミュニケーションを達成しています。
このように考えると、同じ視角交信手段ではあるものの、デザインとアートの違いが浮き上がってきます。
デザイン(design)とは「de-sign(サインを書き出す)」ことですから、イメージ記号によって言語界の中でのコミュニケーションを促すことを意味します。
他方、アート(visual art)とは「ars(技術・人工:ラテン語)」を語源としており、より広く環境を人為的に再現することを意味していますが、その再現を根源的にみれば、イメージ象徴によって感覚界でのコミュニケーションを行うこと、そのものです。
とすれば、デザインとは、あくまでも言語界という、意識的、目的的、共通コードを前提にしたコミュニケーション活動であり、アートとは感覚界に向けて、無意識的、未目標的、共通体感的に行うコミュニケーション活動ということになるでしょう。
マーケティング戦略でいえば、デザインは差異化の、またアートは差元化の、それぞれの一要素なのです。
私たちはサインやシンボルを使って、さまざまなコミュニケーション活動を行っています。
記号=サインの次元でいえば、ネーミング(naming)や物語(story)などの言語記号で、あるいはカラー、デザイン、パターンなどのイメージ記号を使って、さまざまな内容=コンテンツを伝達しています。
象徴=シンボルの次元でいえば、オノマトペ(onomatopé:仏、擬声語)や神話(mythology)などの未言語象徴で、あるいはデッサン(dessin:仏)や元型(archetype)などのイメージ象徴を使って、幾つかのコンテンツを伝達しています。
いいかえると、聴覚手段では、ネーミングや物語などの言語記号で言語界内の、またオノマトペや神話などの未言語象徴で感覚界内の、それぞれのコミュニケーションを行っています。
また視覚手段でいえば、カラー、デザイン、パターンドなどのイメージ記号で言語界内の、またデッサンや元型などのイメージ象徴で感覚界内の、それぞれのコミュニケーションを達成しています。
このように考えると、同じ視角交信手段ではあるものの、デザインとアートの違いが浮き上がってきます。
デザイン(design)とは「de-sign(サインを書き出す)」ことですから、イメージ記号によって言語界の中でのコミュニケーションを促すことを意味します。
他方、アート(visual art)とは「ars(技術・人工:ラテン語)」を語源としており、より広く環境を人為的に再現することを意味していますが、その再現を根源的にみれば、イメージ象徴によって感覚界でのコミュニケーションを行うこと、そのものです。
とすれば、デザインとは、あくまでも言語界という、意識的、目的的、共通コードを前提にしたコミュニケーション活動であり、アートとは感覚界に向けて、無意識的、未目標的、共通体感的に行うコミュニケーション活動ということになるでしょう。
マーケティング戦略でいえば、デザインは差異化の、またアートは差元化の、それぞれの一要素なのです。
2015年8月28日金曜日
サインとシンボル・・・どこが違うのか?
差異化が「記号:サイン」の差を訴求する戦略であるとすれば、差元化は「象徴:シンボル」の差を訴える戦略ともいえます。両者の差はどこにあるのでしょうか?
「記号」と「象徴」という言葉は、両方ともさまざまな意味で使われています。
まず「記号(sign)」の意味を考えてみると、極めて多義的です。国語辞書によると、「一定の事柄を指し示すために用いる近くに対象物」であり、言語・文字から交通信号や高度の象徴までを含む、といいます(広辞苑)。
あるいは「一定の事象や内容を代理・代行して指し示すはたらきをもつ知覚可能な対象」であり、種々の符号・しるし・標識から言語や文字、さらには雨を知らせる黒雲や職業を示す制服なども含む、とされています(大辞林)。
それゆえ、日常的な使用では、発音記号や音部記号のように、「記号(sign)」とは特定の情報を示す具象的な符号をさす場合が多いようです。
しかし、思想界では、社会学者のJ.ボードリヤールが「消費される物になるためには、物は記号(signe:仏)にならなくてはならない」(『物の体系』)と述べているように、物に付加された、観念的な言説やメッセージ、つまりカラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなど、広い意味で使われています。
他方、「象徴(symbol)」もまた多義的です。国語辞書で調べてみると、「symbole:仏の訳語」であり、「本来関わりのない2つのものを何らかの類似性で関連づける作用」(広辞苑)と書いてあります。
別の辞書では「直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること」(大辞林)と述べています。
実際に使用する場合は、もっと広義的です。例えば言語哲学者の丸山圭三郎は、人間だけが持っている「言分け」能力を「シンボル化能力とその活動」と定義し、「シンボル」は「コトバを操る能力」という、広い意味で使っています(『ソシュールの思想』)。
他方、分析心理学者のC.G.ユングは、夢や幻想の中に現れるイメージを「象徴(シンボル)」と名づけ、言語体系が形成される以前の意味体系、つまり「元型:archetype」と考えて、かなり狭い意味で使っています。元型には大地母、童子、道化、老賢者、仮面、影などがあり、それぞれが人間の基本的な存在形態を〝象徴〟しています(『元型論』)。
こうしてみると、「象徴:シンボル」という言葉は極めて多義的であり、広義では人間の扱う「言語」全般を意味し、狭義では無意識下の「元型」を示しています。ある時にはコトバやイメージなど、人間の取り扱う観念道具全般を意味し、またある時にはエンジェルやサタンなど、幻想的なキャラクターを示すということです。
とすれば、「記号;サイン」という言葉と「象徴:シンボル」という言葉は、広義ではかなり重複した意味で使われています。
そこで、マーケティング戦略で使う場合には、両者を明確に分けても用いるべきだと思います。具体的にいえば、「記号」はボードリヤールのいう、観念や表象などの意識的なコード(記号体系)、また「象徴」とはユングのいうような、夢や幻想といった無意識の中に現れるイメージ、ということです。
生活願望の次元でいえば、言葉⇔感覚の垂直軸において、「記号」とは言語、意識、欲望、理性、観念、記号、物語などに対応するイメージ、「象徴」とは本能、無意識、欲動、感覚、体感、象徴、神話などに対応するイメージということになります。
いいかえれば、ヒトが欲望次元でとらえるイメージが「記号(sign)」であり、欲動次元で環境をとらえるイメージが「象徴(symbol)」ということになります。
その延長線上で、記号次元のイメージ連鎖は「物語(story)」になり、また象徴次元のそれは「神話(mythology)」になっていきます。
「記号」と「象徴」という言葉は、両方ともさまざまな意味で使われています。
まず「記号(sign)」の意味を考えてみると、極めて多義的です。国語辞書によると、「一定の事柄を指し示すために用いる近くに対象物」であり、言語・文字から交通信号や高度の象徴までを含む、といいます(広辞苑)。
あるいは「一定の事象や内容を代理・代行して指し示すはたらきをもつ知覚可能な対象」であり、種々の符号・しるし・標識から言語や文字、さらには雨を知らせる黒雲や職業を示す制服なども含む、とされています(大辞林)。
それゆえ、日常的な使用では、発音記号や音部記号のように、「記号(sign)」とは特定の情報を示す具象的な符号をさす場合が多いようです。
しかし、思想界では、社会学者のJ.ボードリヤールが「消費される物になるためには、物は記号(signe:仏)にならなくてはならない」(『物の体系』)と述べているように、物に付加された、観念的な言説やメッセージ、つまりカラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなど、広い意味で使われています。
他方、「象徴(symbol)」もまた多義的です。国語辞書で調べてみると、「symbole:仏の訳語」であり、「本来関わりのない2つのものを何らかの類似性で関連づける作用」(広辞苑)と書いてあります。
別の辞書では「直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること」(大辞林)と述べています。
実際に使用する場合は、もっと広義的です。例えば言語哲学者の丸山圭三郎は、人間だけが持っている「言分け」能力を「シンボル化能力とその活動」と定義し、「シンボル」は「コトバを操る能力」という、広い意味で使っています(『ソシュールの思想』)。
他方、分析心理学者のC.G.ユングは、夢や幻想の中に現れるイメージを「象徴(シンボル)」と名づけ、言語体系が形成される以前の意味体系、つまり「元型:archetype」と考えて、かなり狭い意味で使っています。元型には大地母、童子、道化、老賢者、仮面、影などがあり、それぞれが人間の基本的な存在形態を〝象徴〟しています(『元型論』)。
こうしてみると、「象徴:シンボル」という言葉は極めて多義的であり、広義では人間の扱う「言語」全般を意味し、狭義では無意識下の「元型」を示しています。ある時にはコトバやイメージなど、人間の取り扱う観念道具全般を意味し、またある時にはエンジェルやサタンなど、幻想的なキャラクターを示すということです。
とすれば、「記号;サイン」という言葉と「象徴:シンボル」という言葉は、広義ではかなり重複した意味で使われています。
そこで、マーケティング戦略で使う場合には、両者を明確に分けても用いるべきだと思います。具体的にいえば、「記号」はボードリヤールのいう、観念や表象などの意識的なコード(記号体系)、また「象徴」とはユングのいうような、夢や幻想といった無意識の中に現れるイメージ、ということです。
生活願望の次元でいえば、言葉⇔感覚の垂直軸において、「記号」とは言語、意識、欲望、理性、観念、記号、物語などに対応するイメージ、「象徴」とは本能、無意識、欲動、感覚、体感、象徴、神話などに対応するイメージということになります。
いいかえれば、ヒトが欲望次元でとらえるイメージが「記号(sign)」であり、欲動次元で環境をとらえるイメージが「象徴(symbol)」ということになります。
その延長線上で、記号次元のイメージ連鎖は「物語(story)」になり、また象徴次元のそれは「神話(mythology)」になっていきます。
2015年8月20日木曜日
差元化とは何か?
差別化、差異化、差延化に続いて、いよいよ新たなマーケティング戦略の一つ、差元化戦略へ踏み込んでいきます。
差元化戦略とは、感覚界の感覚、無意識、欲動、感度、体感、象徴、神話などを求める感覚願望に応えて、言葉や記号をあえて外し、身体性や直感性、原始性や動物性などの「身分け」力を回復させる手法です。
感覚界とは、単なる物質的次元ではなく、感覚や象徴で外界をとらえた次元です。現象学の「エポケ」をまねて、まずコト界の欲望や生理的な欲求を捨て、そのうえで無意識的な欲動の次元へ降りていきます。
そこに見えてくるのは象徴や神話の世界であり、さらにその下には無意識や本能の世界が広がり、もっと下には感覚や体感の世界が広がっています。感覚界はおおむねこの3層で構成されていますから、差元化戦略はそれぞれに向けて対応していきます。
①象徴次元へのアプローチ
この次元では、シンボルや元型(アーキタイプ)の動きに注意を払うべきでしょう。後述しますが、「シンボル」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系です。私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現します。
そこで、新たな戦略では、象徴や元型を拡大させていきます。始原的なキャラクターに触れ合ったり、それらを幾つか組み合わせた神話やおとぎ話を振り返ることで、私たちの心の深層にある沃野に立ち戻って、個人を超えた集合的無意識を再確認することができるでしょう。
②無意識次元へのアプローチ
この次元では、身分けと言分けの接点から生まれてくる無意識や本能の動きに、こまめに注意をはらっていきます。それらは通常、意識下の暗い深淵に潜んでいますが、時折、夢や幻想などの形をとって噴出し、記号で覆われた欲望の厚い膜を突き破ります。
とすれば、無意識や本能が見えやすい環境を、積極的に作り出すことが求められます。眠り、酩酊、陶酔といった状況に自らを追い込んで、その中でたっぷりと夢や幻想を味わい、そこから生来の直感力や超能力を回復させる。それができれば、外部から誘導された欲望の虚構性が自覚され、生身の生活願望が見えてくるはずです。
③感覚次元へのアプローチ
ここでは、個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚をいっそう鋭敏にすることが求められます。マーケティングやマスメディアの作り出す幻想を超えて、生活者の感覚を研ぎ澄ますことで、それぞれの生活行動をリフレッシュさせます。
最近の消費行動では、一方で「みせかけ消費」や「あこがれ消費」が、他方では「身の丈消費」や「実質消費」が広がるなど、二極化が進行していますが、どちらにしても、モノ選びの基準として頼れるのは、惑わされやすい視覚よりも、触覚や嗅覚など自分自身の感覚です。
こうした感覚を取り戻すには、一旦は理性的、合理的な鎧を脱ぎ捨てて、直感的、感覚的な裸身をさらけ出していくことが必要です。野性的な動物性や出生直後の乳児性などの次元に立ち戻って、触覚、嗅覚、聴覚など視覚以外の感覚、つまり肌触り、快感、快汗、芳香、悪臭、瀬音、騒音などに敏感になることです。
以上のように、差元化戦略は、一見、「モノづくり」への回帰のように見えますが、決してそうではありません。例えば、記号を剥いで象徴を求め、物語を捨てて神話に遊び、意識よりも無意識へ接近するなど、表層的なコトを除いたうえで、深層的なコトや感覚の世界へアプローチしていく手法なのです。
差元化戦略とは、感覚界の感覚、無意識、欲動、感度、体感、象徴、神話などを求める感覚願望に応えて、言葉や記号をあえて外し、身体性や直感性、原始性や動物性などの「身分け」力を回復させる手法です。
感覚界とは、単なる物質的次元ではなく、感覚や象徴で外界をとらえた次元です。現象学の「エポケ」をまねて、まずコト界の欲望や生理的な欲求を捨て、そのうえで無意識的な欲動の次元へ降りていきます。
そこに見えてくるのは象徴や神話の世界であり、さらにその下には無意識や本能の世界が広がり、もっと下には感覚や体感の世界が広がっています。感覚界はおおむねこの3層で構成されていますから、差元化戦略はそれぞれに向けて対応していきます。
①象徴次元へのアプローチ
この次元では、シンボルや元型(アーキタイプ)の動きに注意を払うべきでしょう。後述しますが、「シンボル」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系です。私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現します。
そこで、新たな戦略では、象徴や元型を拡大させていきます。始原的なキャラクターに触れ合ったり、それらを幾つか組み合わせた神話やおとぎ話を振り返ることで、私たちの心の深層にある沃野に立ち戻って、個人を超えた集合的無意識を再確認することができるでしょう。
②無意識次元へのアプローチ
この次元では、身分けと言分けの接点から生まれてくる無意識や本能の動きに、こまめに注意をはらっていきます。それらは通常、意識下の暗い深淵に潜んでいますが、時折、夢や幻想などの形をとって噴出し、記号で覆われた欲望の厚い膜を突き破ります。
とすれば、無意識や本能が見えやすい環境を、積極的に作り出すことが求められます。眠り、酩酊、陶酔といった状況に自らを追い込んで、その中でたっぷりと夢や幻想を味わい、そこから生来の直感力や超能力を回復させる。それができれば、外部から誘導された欲望の虚構性が自覚され、生身の生活願望が見えてくるはずです。
③感覚次元へのアプローチ
ここでは、個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚をいっそう鋭敏にすることが求められます。マーケティングやマスメディアの作り出す幻想を超えて、生活者の感覚を研ぎ澄ますことで、それぞれの生活行動をリフレッシュさせます。
最近の消費行動では、一方で「みせかけ消費」や「あこがれ消費」が、他方では「身の丈消費」や「実質消費」が広がるなど、二極化が進行していますが、どちらにしても、モノ選びの基準として頼れるのは、惑わされやすい視覚よりも、触覚や嗅覚など自分自身の感覚です。
こうした感覚を取り戻すには、一旦は理性的、合理的な鎧を脱ぎ捨てて、直感的、感覚的な裸身をさらけ出していくことが必要です。野性的な動物性や出生直後の乳児性などの次元に立ち戻って、触覚、嗅覚、聴覚など視覚以外の感覚、つまり肌触り、快感、快汗、芳香、悪臭、瀬音、騒音などに敏感になることです。
以上のように、差元化戦略は、一見、「モノづくり」への回帰のように見えますが、決してそうではありません。例えば、記号を剥いで象徴を求め、物語を捨てて神話に遊び、意識よりも無意識へ接近するなど、表層的なコトを除いたうえで、深層的なコトや感覚の世界へアプローチしていく手法なのです。
2015年8月9日日曜日
差延化戦略はなぜ有効か
「差延化」という発想は、現象学や記号学を生み出した現代思想の文脈の中に見つけることができます。
J.デリダは、フランス語の「différence(差異)」の動詞形(différer)に含まれる「延期する」という意味を踏まえて、「différance(差延)」という同音異議語を作りました。「差延」とは、言葉の意味を生み出す「差異」に対して、結果として差異を生み出す“動き”を意味しています(『声と現象』)。
具体的にいうと、パロール(parole:話し言葉)では、言葉の意味が話し手と聞き手の間で同一性を保っているケースが多いのですが、エクリチュール(écriture:書き言葉)になると、書き手の文章が読み手によって多様に解釈できる場合が多くなります。
なぜなら、会話で使う話し言葉では、話し手が抑揚や表情やジェスチュアなどを加えますから、単語の意味が一義的に受け手に伝わります。
しかし、手紙や文書で使う書き言葉では、文字でしか表現できませんからともすれば曖昧になりますが、逆に受け手はその意味を多義的に解釈できます。その結果、一つの言葉は新たな意味を持つようになります。
こうした言葉の開かれた機能が「差延」です。言い換えれば、差延とは「予め作られた差異ではなく、送り手と受け手の間で時間とともに作られていく差異」といえるでしょう。
以上の視点をモノや商品に当てはめてみますと、モノにおける差延とは、予め作られたモノの“価値(value)”や“効用(utility)”ではなく、売り手と買い手の間で時間とともに作られていく、私的な効用、つまり“私効(private utility)”ということになります。
価値や効用は社会的なネウチですが、私効は純私的なネウチです。つまり、参加性、変換性、編集性、あるいは「インタラクティブ」といった情報行動まで広く含んでいます。
「差延化(différarize)」とは、生活者のこうした生活行動に積極的に対応しようとするものです。量産された市場的な「価値」や「効用」の差を増すのが「差別化」や「差異化」であるとすれば、個々のユーザーにとっての独自の「私効」の差を増すのが「差延化」ということになります。
さらにいえば、モノの「差別化」や「差異化」が、売り手側が予め決定した、売買時の「価値」や「効用」に関する戦略であるのに対し、「差延化」とはユーザーが使用中に自ら作り出す「私効」に関する戦略です。
もっと突き詰めれば、メーカーや流通業が差し出す「価値」や「効用」を超えて、ユーザー1人1人に独自の「私効」を積極的に創りださせる戦略といえるでしょう。
J.デリダは、フランス語の「différence(差異)」の動詞形(différer)に含まれる「延期する」という意味を踏まえて、「différance(差延)」という同音異議語を作りました。「差延」とは、言葉の意味を生み出す「差異」に対して、結果として差異を生み出す“動き”を意味しています(『声と現象』)。
具体的にいうと、パロール(parole:話し言葉)では、言葉の意味が話し手と聞き手の間で同一性を保っているケースが多いのですが、エクリチュール(écriture:書き言葉)になると、書き手の文章が読み手によって多様に解釈できる場合が多くなります。
なぜなら、会話で使う話し言葉では、話し手が抑揚や表情やジェスチュアなどを加えますから、単語の意味が一義的に受け手に伝わります。
しかし、手紙や文書で使う書き言葉では、文字でしか表現できませんからともすれば曖昧になりますが、逆に受け手はその意味を多義的に解釈できます。その結果、一つの言葉は新たな意味を持つようになります。
こうした言葉の開かれた機能が「差延」です。言い換えれば、差延とは「予め作られた差異ではなく、送り手と受け手の間で時間とともに作られていく差異」といえるでしょう。
以上の視点をモノや商品に当てはめてみますと、モノにおける差延とは、予め作られたモノの“価値(value)”や“効用(utility)”ではなく、売り手と買い手の間で時間とともに作られていく、私的な効用、つまり“私効(private utility)”ということになります。
価値や効用は社会的なネウチですが、私効は純私的なネウチです。つまり、参加性、変換性、編集性、あるいは「インタラクティブ」といった情報行動まで広く含んでいます。
「差延化(différarize)」とは、生活者のこうした生活行動に積極的に対応しようとするものです。量産された市場的な「価値」や「効用」の差を増すのが「差別化」や「差異化」であるとすれば、個々のユーザーにとっての独自の「私効」の差を増すのが「差延化」ということになります。
さらにいえば、モノの「差別化」や「差異化」が、売り手側が予め決定した、売買時の「価値」や「効用」に関する戦略であるのに対し、「差延化」とはユーザーが使用中に自ら作り出す「私効」に関する戦略です。
もっと突き詰めれば、メーカーや流通業が差し出す「価値」や「効用」を超えて、ユーザー1人1人に独自の「私効」を積極的に創りださせる戦略といえるでしょう。
2015年8月1日土曜日
〝差延化〟を初めて提唱した論文の要旨です!
21年前の日本経済新聞(1994年4月29日)の経済教室に掲載された拙論「消費、〝効用〟創造型に移行」について、大略を再掲しておきましょう。
マーケティングや商品学の分野でも、次の時代をリードする新しい消費理論への期待が高まっている。
振り返れば、1980年代の高度消費社会の構造を解明し、付加価値中心のマーケティングをリードした消費理論は、記号学や構造主義という、現代思想の最先端であった。「消費されるのはモノではなく、記号である」というJ・ボードリヤールの主張のように、それは色、デザイン、ネーミング、ブランドといった“記号”消費を解明する最適の方法だったからである。
その意味で、80年代は身近な消費行動と高邁な哲学が連動した、まことに幸せな時代であったといえる。
ところが、90年代に入ると、バブルが崩壊し、それに伴って消費者の間に低価格志向や実質志向が強まり、こうした理論はほとんど説明力を失った。代わって復権してきたのが、旧来の数理科学や行動科学などの科学的実証主義である。
それはまさしく、付加価値優先から基本価値復権へ移行した消費傾向と軌を一にした、消費理論そのものの定番回帰であった。
しかし、科学的実証主義は、消費行動の過去の分析や現状の意味づけには役立つものの、急速に転換しつつある今後の展望となると、いささか力不足だ。なぜなら、すでに消費市場の最前線では、生活者主導型の商品、マルチメディアを投入できる需要分野などの模索が始めている。
厳しさを増す地球環境問題、先進国間の競争激化や途上国の追い上げなどに耐えられる商品作りが、厳しく問われ始めているからだ。この期待に創造的にこたえるためには、哲学なき科学主義や仮説なき実証主義を越える新たな理論が必要になってくる。
では、その理論をどこに求めたらいいのか。実をいえば、それはすでに80年代の消費理論の中に示唆されていた。
記号学や構造主義の消費理論とは、一方では確かにデザインやブランド消費の深層を解明するものであったが、他方ではそれらを超えて、人間の生活や消費の本質に迫るものだった。例えば、F・ソシュールの記号学の本質は、記号に支配される人間の描写ではなく、それを操作し、生成していく個人の力を見つけだすことにあった。
レヴィ・ストロースの構造主義は、構造への「服従」ではなく、構造の「変換」に力点が置かれていた。さらにはJ・クリステヴァの「記号生成論」や丸山圭三郎の「欲動論」なども、記号化社会の分析というより脱記号化への展望を強力に主張するものだった。
こうした思想を統合する立場から、ポスト構造主義の主導者、G・デリダは「差異化」の延長上に「差延化」を展望している。差延化とは「差異とはあらかじめ作られたものではなく、時間とともに作られていく」という考え方に基づく。これを商品のレベルでいえば、「差異」があらかじめ決定された売買時の「価値」であるのに対し、「差延」とは使用している間に作られていく「効用」ということだろう。
このように、現代思想はいち早く、記号化社会や差異化社会のかなたに、来るべき脱記号化社会や差延化社会を予想していた。
そこで、この視点からこれまでの消費社会を振り返ってみると、これからの展望が表に示したように開けてくる。
まず1960~70年代は、供給側が商品を作れば必ず売れるという生産者主導社会であり、消費者は生理的な「欲求」に基づいて商品に飛びつく時代であった。従って、マーケティングの核心は商品の基本機能を「差別化」することにあった。
80年代になると、商品の過剰供給が進む中で、消費者は一通りの欲求を満たした。今度は文化的・情報的な「欲望」に基づいて商品を購買する消費者主導社会に進んだ。そこで、マーケティングのポンイトは、色、デザイン、ネーミング、ブランドなど付加価値の「差異化」に代わった。
しかし、好況と深刻な不況を経験した後の消費社会は、その経験を生かして、生活者自らが「効用」の創造者となって生活を構成していく生活者主導社会へ移行していく。このため、マーケティングの方法も、時間とともに効用を生み出していく「差延化」に代わる。
なお、ここでいう「生活者」とは、次のような特性を持つ人のことである。
- 市場の提供する商品の価値をそのまま受け入れる消費者ではなく、商品を素材として購入し、自ら再編集して独自の効用をつくり出すユーザーである。言い換えれば、生活は、企業の差し出す社会的な商品を材料にして、自ら個人的な道具を作り替える人である。
- 生理的次元の「欲求」でも、文化的次元の「欲望」でもない、より根源的な生命の動き、つまり「欲動」に基づいてモノの「効用」を求める人である。
- 購入した商品を「消費」するのではなく、それを「常用」する人である。つまり、商品の購入とは、「常用」という時間的関係に入ることを意味している。
それゆえ、このような社会では、商品とは万人に共通の価値から、1人のユーザーにとっての効用“素”に変わる。また流通市場とは価値を売る場所から、柔軟な効用“素”を提案する場所に変わる。
さらに流通市場は、単なる商品の売り切りの場から、生活の使い切りまでを対象にした、長期的な需給の場に転換していくことが予想できる。
これこそ、究極の生活者の立場に立つ商品であり、究極の生活財市場のイメージなのである。
今後の消費市場が以上のような方向へ向かうとすれば、これからのマーケティングや商品開発も、当然大きく変わらねばならない。そのポイントは、生活者の「創造効用」や「愛用効用」などを的確に把握することだと思われる。具体的にはいくつかの先行事例の示す、次のようなマーケティング対応が必要になる。
創造効用に関しては、まず2~3割程度の素材を提供する「手作り」対応がある。例えば手作りビール、ミニチュアの家を作る人形の家、デコラティブ(装飾的)・ペインティングやデコパージュなどのニュー手芸、場所を変えて開くフリーディスコ、個人手配海外旅行などがあげられる。
次に7~8割程度の素材を提供する「参加」対応がある。このタイプとしては雑誌の読者記者制度、組み替えスーツ、キット家具製作クラブ、自由設計プレハブ住宅、ログハウスなどが考えられる。
あるいは、“自主編集権”を満足させる「編集」対応。各社の衣料を組み合わせて独自のスタイルをつくり出すいわば消費者編集ファッション、各社の部品を編集して独自の車をつくり出す改造車や改造バイクなどが考えられる。
最後に商品の用途を自由に作り出せるような「変換」対応で、ポケットベルの用途の多様化、冷蔵庫の総合保管庫化などがこの仲間になる。
こうしてみると、差延化対応とは、一面では従来の付加価値を超えた“超”付加価値の創造を意味しているが、他面では単なる「価格革命」や「価値革命」を超えた「効用革命」をめざすものといえよう。
現在の時点で読み返すと、やや雑駁な感じもあり、修正すべき点も幾つかありますが、基本的な論旨については、このまま通用するのではないか、と思います。
2015年7月31日金曜日
21年前、差延化戦略を提案しました!
「差別化」「差異化」と話を進めてきましたので、先に掲げた一覧表でいえば、「差元化」「差汎化」「差延化」「差真化」「差戯化」の順に、諸戦略を説明していくべきかもしれません。
しかし、伝統的な「差別化」から「差異化」が独立したように、さらなる細分化のきっかけを作ったのは「差延化」でしたので、順番を変えて、この戦略から説明していきます。
「差延化」という戦略を最初に提案したのは、他でもない、この筆者です。
21年前の1994年4月29日の日本経済新聞・経済教室で「消費、〝効用〟創造型に移行」と題する論文において、次のように書いています。
- ポスト構造主義の主導者、J・デリダは「差異化」の延長上に「差延化」を展望している。差延化とは「差異とはあらかじめ作られたものではなく、時間とともに作られていく」という考え方に基づく。
- これを商品のレベルでいえば、「差異」があらかじめ決定された売買時の「価値」であるのに対し、「差延」とは使用している間に作られていく「効用」ということだろう。
- 好況と深刻な不況を経験した後の消費社会は、その経験を生かして、生活者自らが「効用」の創造者となって生活を構成していく生活者主導社会へ移行していく。このため、マーケティングの方法も、時間とともに効用を生み出していく「差延化」に変わる。
「差別化」から「差異化」へ、さらに「差延化」へと視野を広げると、マーケティング戦略は従来の〝機能・効率・利便の差〟という欲求次元や、〝記号・イメージ〟という欲望次元を超えて、より広大な沃野に歩み出ることが可能になってきます。
2015年7月29日水曜日
差異化戦略はなぜ登場したのか?
差異化戦略が注目されるようになったのは、1980年代の半ばからです。その背景には、次の3つの事情が重なっていました。
第1は工業社会の高度化。これに伴って、各企業の商品やサービスの水準が均一化し、どれをとってもさほど差が見られないという状況が生まれたことです。新しい機能・効率・利便性は、アッという間に他社の商品にも広がり、自社商品の優位性を失わせました。
第2はテレビや週刊誌といったマスメディアの拡大。多様なメディアは、ユーザー層の情報感度を刺激して、流行やムードに乗りやすい社会風潮を創りました。ユーザーは商品の機能・効率・利便性よりも、ファッション性や流行性に強い関心を向けるようになりました。
第3はバブル経済の進行。これに伴って、株や不動産で資産を増やした消費者の多くは、機能・効率・利便型の商品では一通り所有欲を満たしたうえ、次の消費目標として、ステータスやファッションなど、文化的・記号的なネウチを求めるようになりました。
以上のように、①差別化競争の飽和化、②情報化の進展、③バブル経済の進行という、3つの要因が重なった結果、生活者の願望はもはや単なる機能・効率・利便といった〝差別〟次元を超えて、自己表現や自己誇示といった、表層的な記号の〝差異〟へ重心を移していったのです。
そこで、マーケティングにおいても、機能・効率・利便性といった基本的なネウチの競争ではすまなくなり、その上に表現性、流行性、誇示性など、表層的なネウチを載せて、新たな需要を作り出すという手法が広がりました。
これがカラー、デザイン、ネーミング、ブランド、ストーリーといった記号を駆使する、いわゆる「差異化」手法でした。
また、これらの差異を強く刺激、誘導、喚起するため、広報・広告手法においても、急拡大したマスメディアを最大限に利用する、新たな戦略が展開されました。
商品イメージ戦略としては、流行、センス、ライフスタイルなどの〝記号〟を幾重に張り巡らすために、イメージ広告や販促イベントが積極的に実施されました。
また企業イメージ戦略としては、センスや感性に強い〝情報発信型企業〟をユーザーに印象づけるため、感性広告、CI(コーポレイト・アイデンティティー)、メセナ(mécénat:企業が資金を提供して支援する文化・芸術活動)など、いわゆる〝感性マーケティング〟が頻繁に行われました。
以上の傾向を的確に象徴しているのが、80年代後半に「便利な生活」から「おいしい生活」へと移行したCMの変化です。
デパートはもはや「便利な生活用品」を売る場所ではなく、「おいしいライフスタイル」を売る場所に変わったのです。
第1は工業社会の高度化。これに伴って、各企業の商品やサービスの水準が均一化し、どれをとってもさほど差が見られないという状況が生まれたことです。新しい機能・効率・利便性は、アッという間に他社の商品にも広がり、自社商品の優位性を失わせました。
第2はテレビや週刊誌といったマスメディアの拡大。多様なメディアは、ユーザー層の情報感度を刺激して、流行やムードに乗りやすい社会風潮を創りました。ユーザーは商品の機能・効率・利便性よりも、ファッション性や流行性に強い関心を向けるようになりました。
第3はバブル経済の進行。これに伴って、株や不動産で資産を増やした消費者の多くは、機能・効率・利便型の商品では一通り所有欲を満たしたうえ、次の消費目標として、ステータスやファッションなど、文化的・記号的なネウチを求めるようになりました。
以上のように、①差別化競争の飽和化、②情報化の進展、③バブル経済の進行という、3つの要因が重なった結果、生活者の願望はもはや単なる機能・効率・利便といった〝差別〟次元を超えて、自己表現や自己誇示といった、表層的な記号の〝差異〟へ重心を移していったのです。
そこで、マーケティングにおいても、機能・効率・利便性といった基本的なネウチの競争ではすまなくなり、その上に表現性、流行性、誇示性など、表層的なネウチを載せて、新たな需要を作り出すという手法が広がりました。
これがカラー、デザイン、ネーミング、ブランド、ストーリーといった記号を駆使する、いわゆる「差異化」手法でした。
また、これらの差異を強く刺激、誘導、喚起するため、広報・広告手法においても、急拡大したマスメディアを最大限に利用する、新たな戦略が展開されました。
商品イメージ戦略としては、流行、センス、ライフスタイルなどの〝記号〟を幾重に張り巡らすために、イメージ広告や販促イベントが積極的に実施されました。
また企業イメージ戦略としては、センスや感性に強い〝情報発信型企業〟をユーザーに印象づけるため、感性広告、CI(コーポレイト・アイデンティティー)、メセナ(mécénat:企業が資金を提供して支援する文化・芸術活動)など、いわゆる〝感性マーケティング〟が頻繁に行われました。
以上の傾向を的確に象徴しているのが、80年代後半に「便利な生活」から「おいしい生活」へと移行したCMの変化です。
デパートはもはや「便利な生活用品」を売る場所ではなく、「おいしいライフスタイル」を売る場所に変わったのです。
2015年7月28日火曜日
トイレットペーパーから何を学ぶ!?
トイレットペーパーの市場動向が注目されている。人口が減っているのに、販売量が増えているからだ。この背景には業界が打った、7つの新戦略がある。
・・・繊研新聞(2015年7月21日)Study Roomに書きました。
・・・http://gsk.o.oo7.jp/insist15.htm#tp
・・・繊研新聞(2015年7月21日)Study Roomに書きました。
・・・http://gsk.o.oo7.jp/insist15.htm#tp
2015年7月22日水曜日
差別化と差異化・・・何が違うのか?
1970~80年代には、「差別化」と「差異化」がマーケティングの2大戦略として、さまざまな生活財関連企業に採用されてきました。
しかし、一部の学者や経営者からは、2つの区別を無視する意見が出されています。商品やサービスの違いを示すのだから、「差別化のうちカラーやデザインの差を訴求するのが差異化」とか、「差異化も差別化の一つの手法にすぎない」などというものです。
けれども、こうした見方はモノ界とコト界の違いや人間のさまざまな能力をまったく理解していない、まことに浅薄な主張です。「差別化」戦略と「差異化」戦略には、単なる言葉の差を超えて、内容面で根本的な違いがあるからです。
なぜなら、1970年代に、フランスの社会学者J.ボードリヤールが「消費されるためには、モノは記号にならなければならない」(『物の体系』:Le Système des objets,1968)と主張したことによって、私たちの〝消費〟観は根本的に覆りました。
ヒトは他の動物とは異なり、本能や身体が要求するものを求めるだけでなく、言葉が要求するものも求める、ということに気づいたからです。
のどが渇いた時、水道の水を求めるだけでなく、カラフルな軽飲料やCMで見たドリンクを求めます。寒さを感じた時、木綿の下着を増やすだけでなく、鮮やかなカラーのセーターを着たり、流行のデザインのオーバーコートを求めます。
本能や身体が要求するものを求める願望が「欲求」であり、言葉が要求するものも求める願望が「欲望」です。
欲求も欲望もともにコト界の生活願望ですが、前者は感覚という身体性、つまり身体の求めるものを言語によって意識化したものであり、後者は言葉が作り出した幻想そのものを追いかけるものです。
極言すれば、欲望とは「身体がまったく求めないものも、あえて求める願望」といってもいいでしょう。
どちらの願望に応えるかによって、マーケティングの基本的なスタンスが大きく変わってきます。前者の欲求に対するマーケティング戦略が「差別化」であり、後者の欲望に対するそれが「差異化」なのです。
差別化は、生活界の中心の日常界で発生する、身体の求めるものを言語化した「欲求」を対象にして、さまざまな〝機能〟を投げかける戦略です。
これに対し、「差異化」は、記号界から生まれてくる願望、つまり身体よりも言語を重視する「欲望」に向けて、さまざまな〝記号〟を投げかける戦略ということになります。
差別化と差異化という、2つのマーケティング戦略の間には、これほど大きな違いがあるのです。これを無視するのは、鈍感以外のなにものでもありません。
しかし、一部の学者や経営者からは、2つの区別を無視する意見が出されています。商品やサービスの違いを示すのだから、「差別化のうちカラーやデザインの差を訴求するのが差異化」とか、「差異化も差別化の一つの手法にすぎない」などというものです。
けれども、こうした見方はモノ界とコト界の違いや人間のさまざまな能力をまったく理解していない、まことに浅薄な主張です。「差別化」戦略と「差異化」戦略には、単なる言葉の差を超えて、内容面で根本的な違いがあるからです。
なぜなら、1970年代に、フランスの社会学者J.ボードリヤールが「消費されるためには、モノは記号にならなければならない」(『物の体系』:Le Système des objets,1968)と主張したことによって、私たちの〝消費〟観は根本的に覆りました。
ヒトは他の動物とは異なり、本能や身体が要求するものを求めるだけでなく、言葉が要求するものも求める、ということに気づいたからです。
のどが渇いた時、水道の水を求めるだけでなく、カラフルな軽飲料やCMで見たドリンクを求めます。寒さを感じた時、木綿の下着を増やすだけでなく、鮮やかなカラーのセーターを着たり、流行のデザインのオーバーコートを求めます。
本能や身体が要求するものを求める願望が「欲求」であり、言葉が要求するものも求める願望が「欲望」です。
欲求も欲望もともにコト界の生活願望ですが、前者は感覚という身体性、つまり身体の求めるものを言語によって意識化したものであり、後者は言葉が作り出した幻想そのものを追いかけるものです。
極言すれば、欲望とは「身体がまったく求めないものも、あえて求める願望」といってもいいでしょう。
どちらの願望に応えるかによって、マーケティングの基本的なスタンスが大きく変わってきます。前者の欲求に対するマーケティング戦略が「差別化」であり、後者の欲望に対するそれが「差異化」なのです。
差別化は、生活界の中心の日常界で発生する、身体の求めるものを言語化した「欲求」を対象にして、さまざまな〝機能〟を投げかける戦略です。
これに対し、「差異化」は、記号界から生まれてくる願望、つまり身体よりも言語を重視する「欲望」に向けて、さまざまな〝記号〟を投げかける戦略ということになります。
差別化と差異化という、2つのマーケティング戦略の間には、これほど大きな違いがあるのです。これを無視するのは、鈍感以外のなにものでもありません。
2015年7月17日金曜日
差異化とは何か?
差異化とは、生活球の上部に位置する生活願望「欲望」に向けて、商品やサービスのうえに、言語やイメージなど、さまざまな「記号」を載せて、新規性や異質性を訴求するマーケティング戦略です。
基本的な手法としては、カラー化、デザイン化、ネーミング化、ブランド化、ストーリー化などの手法が含まれます。
差異化と差別化の間には、次のような違いがあります。
平常球から生まれる生活願望「日欲」は、身体が求めるものを意識化した「欲求」が中心ですから、その内容は具体的、実体的なコトへと向かいます。商品やサービスに対しても、機能や品質、つまり「便利さ」「使い易さ」「確かさ」などを求めます。それゆえ、メーカーや流通業などの供給側がこれに対応するには、〝機能・効率・利便の差〟をユーザーに強く訴えかける「差別化」手法が有効です。
しかし、供給水準の向上で機能・効率・利便の差が縮小したり、あるいは日常的な「日欲」にユーザーが一通り満足してしまうと、今度は上下・前後・左右の6つの方向へ、新たな生活願望が拡大していきます。その1つが、機能・効率・利便性に加えて、言語、記号、意識、理性、観念、物語など記号やイメージなどを求める「欲望」という願望です。
この欲望に対応するのが「差異化」という手法です。そこで、「差別化」が機能や品質という、モノ次元の〝差〟を強調する手法であったのに対し、「差異化」はモノの性質を離れて、モノの上に載せたコトの〝差〟を訴えかける手法になります。
ところで、英語圏では一般に、「差別化」は“Differentiation”、「差別化戦略」は“Differentiation Strategy”などと英訳されていますが、これは極めて不正確な表現であり、より正確に表すには“Discrimination”を使うべきだと思います。
その「差別(Discrimination)」という言葉は、明らかに上下や強弱の関係を意味しています。ところが、「差異(Difference)」という言葉は単なる〝違い〟しか示していません。
というのは、言葉やイメージなど、いわゆる〝記号〟の本質が、上下や強弱には関わりなく、ひたすら他の記号との〝違い〟を示すことにあるからです。言葉やイメージは〝差異〟を作ることによって、それぞれの存在意義を持っているのです。
それゆえ、差異化戦略では、モノの性質とは関係のない次元で、カラー、デザイン、ネーミング、ブランド、ストーリーなど、いいかえれば色彩、形態、名称、商標、物語などの差異を作り出し、そこで生まれた、新たなネウチをユーザーに提供していきます。
基本的な手法としては、カラー化、デザイン化、ネーミング化、ブランド化、ストーリー化などの手法が含まれます。
差異化と差別化の間には、次のような違いがあります。
平常球から生まれる生活願望「日欲」は、身体が求めるものを意識化した「欲求」が中心ですから、その内容は具体的、実体的なコトへと向かいます。商品やサービスに対しても、機能や品質、つまり「便利さ」「使い易さ」「確かさ」などを求めます。それゆえ、メーカーや流通業などの供給側がこれに対応するには、〝機能・効率・利便の差〟をユーザーに強く訴えかける「差別化」手法が有効です。
しかし、供給水準の向上で機能・効率・利便の差が縮小したり、あるいは日常的な「日欲」にユーザーが一通り満足してしまうと、今度は上下・前後・左右の6つの方向へ、新たな生活願望が拡大していきます。その1つが、機能・効率・利便性に加えて、言語、記号、意識、理性、観念、物語など記号やイメージなどを求める「欲望」という願望です。
この欲望に対応するのが「差異化」という手法です。そこで、「差別化」が機能や品質という、モノ次元の〝差〟を強調する手法であったのに対し、「差異化」はモノの性質を離れて、モノの上に載せたコトの〝差〟を訴えかける手法になります。
ところで、英語圏では一般に、「差別化」は“Differentiation”、「差別化戦略」は“Differentiation Strategy”などと英訳されていますが、これは極めて不正確な表現であり、より正確に表すには“Discrimination”を使うべきだと思います。
その「差別(Discrimination)」という言葉は、明らかに上下や強弱の関係を意味しています。ところが、「差異(Difference)」という言葉は単なる〝違い〟しか示していません。
というのは、言葉やイメージなど、いわゆる〝記号〟の本質が、上下や強弱には関わりなく、ひたすら他の記号との〝違い〟を示すことにあるからです。言葉やイメージは〝差異〟を作ることによって、それぞれの存在意義を持っているのです。
それゆえ、差異化戦略では、モノの性質とは関係のない次元で、カラー、デザイン、ネーミング、ブランド、ストーリーなど、いいかえれば色彩、形態、名称、商標、物語などの差異を作り出し、そこで生まれた、新たなネウチをユーザーに提供していきます。
2015年7月7日火曜日
差別化の3つの側面
生活体27界の中で「日欲」を構成する3つの願望(欲求・実欲・常欲)の視点に立つと、差別化には3つの側面が考えられます。
①機能性・品質性・・・
水平軸(横軸)を「常欲」の断面で切り取ると、下図の左のような9つの願望が含まれていますが、これらに対応する差別化が「機能性・品質性」です。
それは、さまざまな商品の、物・モノ・コトの次元において、物質的な特性や効能など、新たな関係を創りだすことを意味しています。
具体的には、物の新たな特性、新しい利用法、新規の特殊な用途などを創造することです。②効率性・能率性・・・
垂直軸(縦軸)を「欲求」の断面で切り取ると、下図の中のような9つの願望が含まれていますが、これらに対応する差別化が「効率性・能率性」です。
それは、ラング・パロール1・パロール2の次元において、物・モノ・コトに関する、新たな順位や優位性を創りだすことを意味しています。
具体的には、従来品を超える特性、他より優れた利用法、従来品を超える用途などを創造することです。
③利便性・実効性・・・
前後軸(左右軸)を「実欲」の断面で切り取ると、下図のう右のような9つの願望が含まれていますが、これらに対応する差別化が「利便性・実効性」です。
それは、真実・日常・虚構の次元において、日常生活への新たな関与度の創りだすことを意味しています。
具体的には、新たな実用的特性、新たな利便性、生活に応用できる簡易性などを創造することです。
一般的に使われている「差別化」という言葉にも、以上のような3面がありますから、これを戦略としてマーケティングや商品開発に応用する場合にも、それぞれの意味に十分配慮することが求められます。
2015年7月3日金曜日
差別化とは何か?
差別化とは、生活球の中心に位置する生活願望、「日欲」(欲求・実欲・常欲)に対して訴求するマーケティング戦略です。
基本的には、新たな機能・性能・品質を提示するもので、具体的には新機能化、高性能化、高品質化などの手法が含まれます。
これまでのマーケティング戦略では、「差別化」という手法が主流でした。商品開発戦略といえば差別化に尽きる、といわれるほど、現在でもこの手法が広く用いられています。
その理由は、それこそがユーザーの生活願望の最も中心にある日常的な願望=日欲に向けて、これまた商品のネウチの中の最も中心にある機能や品質を訴求する手法であったからです。それによって、自社製品が他社製品より優れていることを強調したのです。
ユーザーの生活願望の中核は、すでに述べたように、生活世界の中心にある平常球から生まれてきます。この小世界は記号⇔感覚、社会⇔個人、真実⇔虚構の交点に位置しているため、微妙なバランスのうえになりたっています。いいかえれば、私たちの日常生活とは、記号と五感の、外向と内向の、儀礼と遊戯の、絶え間ないせめぎあいの中で営まれているものです。
それゆえ、平常球の中での生活は、身体の奥底から無意識的な「欲動」でも、世の中の情報に煽られた記号的な「欲望」でもなく、身体が求めるものを自ら意識化した「欲求」に基づいて展開されています。
この欲求に基づいて、テレビや新聞を見たり、学校や会社などで講義を聴いたり、会議に参加したり、あるいは家族や友人と会話をしています。
同時に、虚実の入り混じった言語行動の中から、一つひとつ真偽を確かめながら、自分なりの選択をしています。毎日の生活を実際に形成していくには、最も基本的な生活要素を確保しなければなりませんから、幾つかの願望のせめぎあいの中で適切にバランスをとっていくことが求められるのです。
平常球の生活がこのようなものである以上、そこから生まれてくる願望もまた、具体的、実体的なコトへ向かいます。商品やサービスに対しても、主に機能性、品質性、能率性、効率性、利便性、実効性といったネウチ、つまり「便利さ」「使い易さ」「確かさ」などを求めます。
こうした平常球からの願望=日欲に積極的に対応するのが「差別化」であり、〝機能や品質の差〟をユーザーに強く訴えかけていきます。具体的にいえば、テーブルの高さ、椅子の座り易さ、洋服の着心地などの使い勝手や、冷蔵庫の冷却効率、電気洗濯機の洗浄効率、自動車の速度や燃費など、他の商品に対する比較優位性を強調します。
「差別化」戦略は、著しい経済成長によって、私たちの日常生活が急速に拡大した1960~70年代には、最も中心的なマーケティング戦略でした。
そこで、広告や広報でも、差別すべき利点を告知、説明、広報することに重点がおかれ、「私にも写せます」(富士写真フィルム・フジカシングル8、1965)、「大きいことはいいことだ」(森永製菓・エールチョコレート、1968)、「となりのクルマが小さく見えまーす」(日産自動車・サニー1200,1970)といったテレビCMが頻繁に流されていました。
しかし、1980年代になると、これを超える戦略が求められるようになってきました。
基本的には、新たな機能・性能・品質を提示するもので、具体的には新機能化、高性能化、高品質化などの手法が含まれます。
これまでのマーケティング戦略では、「差別化」という手法が主流でした。商品開発戦略といえば差別化に尽きる、といわれるほど、現在でもこの手法が広く用いられています。
その理由は、それこそがユーザーの生活願望の最も中心にある日常的な願望=日欲に向けて、これまた商品のネウチの中の最も中心にある機能や品質を訴求する手法であったからです。それによって、自社製品が他社製品より優れていることを強調したのです。
ユーザーの生活願望の中核は、すでに述べたように、生活世界の中心にある平常球から生まれてきます。この小世界は記号⇔感覚、社会⇔個人、真実⇔虚構の交点に位置しているため、微妙なバランスのうえになりたっています。いいかえれば、私たちの日常生活とは、記号と五感の、外向と内向の、儀礼と遊戯の、絶え間ないせめぎあいの中で営まれているものです。
それゆえ、平常球の中での生活は、身体の奥底から無意識的な「欲動」でも、世の中の情報に煽られた記号的な「欲望」でもなく、身体が求めるものを自ら意識化した「欲求」に基づいて展開されています。
この欲求に基づいて、テレビや新聞を見たり、学校や会社などで講義を聴いたり、会議に参加したり、あるいは家族や友人と会話をしています。
同時に、虚実の入り混じった言語行動の中から、一つひとつ真偽を確かめながら、自分なりの選択をしています。毎日の生活を実際に形成していくには、最も基本的な生活要素を確保しなければなりませんから、幾つかの願望のせめぎあいの中で適切にバランスをとっていくことが求められるのです。
平常球の生活がこのようなものである以上、そこから生まれてくる願望もまた、具体的、実体的なコトへ向かいます。商品やサービスに対しても、主に機能性、品質性、能率性、効率性、利便性、実効性といったネウチ、つまり「便利さ」「使い易さ」「確かさ」などを求めます。
こうした平常球からの願望=日欲に積極的に対応するのが「差別化」であり、〝機能や品質の差〟をユーザーに強く訴えかけていきます。具体的にいえば、テーブルの高さ、椅子の座り易さ、洋服の着心地などの使い勝手や、冷蔵庫の冷却効率、電気洗濯機の洗浄効率、自動車の速度や燃費など、他の商品に対する比較優位性を強調します。
「差別化」戦略は、著しい経済成長によって、私たちの日常生活が急速に拡大した1960~70年代には、最も中心的なマーケティング戦略でした。
そこで、広告や広報でも、差別すべき利点を告知、説明、広報することに重点がおかれ、「私にも写せます」(富士写真フィルム・フジカシングル8、1965)、「大きいことはいいことだ」(森永製菓・エールチョコレート、1968)、「となりのクルマが小さく見えまーす」(日産自動車・サニー1200,1970)といったテレビCMが頻繁に流されていました。
しかし、1980年代になると、これを超える戦略が求められるようになってきました。
2015年6月28日日曜日
事業構想大学院大学で講演しました。
6月24日、東京青山の事業構想大学院大学で、創造的思考法講座の一つとして、「人間は何を求めているのか:生活学マーケティングという視点」を講演しました。
私のブログの一つ「生活学マーケティング」で、これまで展開してきた議論とこれからの方向を、2時間ほどにまとめたものです。
同大学院生20名の方々から、熱心なご質問やご意見をいただきました。ありがとうございました。
主な内容は、現代社会研究所サイト(http://gsk.o.oo7.jp/insist15.htm)に載せてあります。ご関心があれば、お立ち寄りください。
私のブログの一つ「生活学マーケティング」で、これまで展開してきた議論とこれからの方向を、2時間ほどにまとめたものです。
同大学院生20名の方々から、熱心なご質問やご意見をいただきました。ありがとうございました。
主な内容は、現代社会研究所サイト(http://gsk.o.oo7.jp/insist15.htm)に載せてあります。ご関心があれば、お立ち寄りください。
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