2018年10月30日火曜日

「消費者」論を超え、「生活民」を活かす学問を求めて!

「交換価値」や「共効」を基盤として「市場経済社会」が成立し、急速に発展するとともに、それを説明する理論として、いわゆる「経済学」が誕生し、さまざまな形で発展してきました。

それにつれて、もともと人類に備わっていたはずの「使用価値」や「私効」を重んじる「自給自足生活」は次第に影を薄め、理論的な追及もまた忘れられるようになりました。

経済学の世界では、社会や国家単位の経済構造を究明するマクロ経済学とともに、最小の経済単位である消費者(家計)、生産者(企業)、および両者が経済的な交換を行う場(市場)を分析対象として、ミクロ経済学(Microeconomics)が成立しています。

ミクロ経済学では、家計や消費行動など、個人的な経済生活を対象にして、詳細な分析を行ってはいますが、あくまでも前提になっているのは「交換価値(共効)」であり、ミクロとはいっても、有用性では「個効」の次元までです。

一方、家事や家政を対象とする家政学では、衣食住や育児・教育など、家庭での日常的な生活について、ノウハウや価値観に関する技術の研究が行われてきました。

ここでは、家庭経済学生活経済学という形で、家庭という主体がおもに貨幣を通じて社会と結びつきつつ、構成員それぞれの生活の内容を調整しているという構造について、利点や欠点などを多面的に研究しています。

だが、この分野でも、家政学原論の英訳名が「Principles Home Economics」とよばれているように、大前提となっているのは市場社会と貨幣による交換構造であり、その外縁に広がる、自律的・自給的な生活行動については補充的な位置づけです。有用性の次元でいえば、研究の対象は個効」に留まっているのです

そこで、ミクロ経済学や家政学を超えようとして、新たにわが国で生まれた生活学では、市場社会の交換経済を超えた「自己生産」や経済的生活を超える全体的な生活主体、つまり「生活者」や「生活人」をベースとした理論を追及してきました。

有用性の次元でいえば、ここで初めて「私効」を核とした生活分析の理論的な究明が始まったといえるでしょう。

しかし、その追及はさほどはかどってはいません。「生活者」を提唱した大熊信行も、「生活人」を主張した今和次郎も、すでに述べたように、さまざまな限界を示しています。
大熊信行の提唱した「生活者」像は、「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」というものですが、その生活願望を「必要」次元に限るという点で、やはり経済学の次元に留まっています。

また
今和次郎の提唱した「生活人」像もまた「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行などを厳しく排除している点で、やや狭隘な視点にとらわれています。

とすれば、生活学の今後に期待されているのは、「私効」次元から出発した生活行動論や生活構造論などではないでしょうか。

自立自助」「自給自足」といった立場から、市場社会やミクロ経済学などを軽々と手玉にとって、柔軟な生き方、強靭な暮らし方を展開する学問だと思います。

2018年10月21日日曜日

「価値創造」より「私効復活」へ!

高度市場社会においては、供給者である企業の側が、綿密なマーケットリサーチによって、顧客の需要にきめ細かく応えようとしたとしても、本格的であればあるほど、生活民の真の願望に辿り着くことはほとんど困難でしょう。

さまざまな企業がどれだけ「顧客価値」や「顧客満足」などと唱えたところで、本質的な満足にはほど遠い、ということです。

もし「十分に満足した」との回答があったとしても、それは需要者である生活民の側が、「消費者」の立場に甘んじて、とりあえず妥協した、ということにすぎないのです。

このように書くと、マーケティング関連の学者や業界などから、カスタマイゼーション(customization:顧客個別対応)という、新たな手法があるじゃないか、という反論が必ず出てきます。「個効」を顧客別に修正して、一人ひとりの「私効」を実現する、というマーケティング手法です。

だが、これについても、B.スティグレール(Bernard Stiegler)痛烈に批判しています(『象徴の貧困』)。


「カスタマイゼーション、一対一の個別マーケティング、市場のハイパーセグメント化などとしての個性化(individualization)とは、特異化(singularisation)をデジタル記号化によって特殊化(particulalisation)に変化させることであり、その記号化のコントロールとしての効果には限りなく強力なもの」となる。

「特異なもの(singulier)を特殊なもの(particulier)に変えてしまうカスタマイゼーションとは、前個体的な環境へのアクセスモードを規格統一して画一化すること」にすぎない。                   


昨今、急速に注目を集めているIT技術を駆使したカスタマイゼーション。それですら、需要者の個性を「特殊」という類型にふり分ける、一つの手法にすぎない、というのです。

価値創造」や「顧客価値」という言葉に、どことなくつきまとう虚しさ、うさん臭さの要因の一つは、こうした虚構性にあります。



供給者が新しい価値をどれほど創り出したとしても、顧客側が「個体性の衰退」や「アイデンティティーの喪失」から抜け出すのはかなり困難、といわざるをえません。

では、どうすればいいのか。スティグレールによると、「中毒的消費」や「消費依存症」を解毒するためには、新しい「生の様式」や新たな「生き方」が求められますから「象徴制度」の再構築、つまり「教育の計画」や「政治の計画」の再建、さらには「文明の大言説」の復興が必要だ、と主張しています。

この主張にはそれなりに頷けます。だが、あまりに壮大かつ長期的な改革案ですから、現実の市場社会の方向を直ちに変えるのは難しいのではないでしょうか。

とすれば、現実的な方法は、現状の市場社会を前提にしつつも、需要者と供給者の関係、生活財と商品の関わり方を、より深化させていく方向だと思います。

つまり、生活民の側から、より暮らしに身近なところから始めて、段階的に少しずつ市場社会の構造を転換していくことです。いわば「柔軟型市場社会(flexible market society)」ともいうべき方向ではないでしょうか。

具体的にはどうすべきなのか。一つの方向は、過剰な「共効」支配を抑えて、衰退した「私効」を復活させることです「共効」優先から「私効」重視への転換を図る。あるいは個効」と「私効」のバランスを回復する、という方向です。

生活民としては、マスメディアや消費市場から押し付けられる流行やライフスタイルを一旦棚上げにしたうえで、自分自身の中身や暮らしを見つめ直し、そこから改めて「何が欲しいのか」、生活願望を再構築していくことです。

過剰な消費社会に慣れた身には、簡単なことではないのかもしれません。


けれども、その可能性を探ることから、「消費者」という低位を脱却し、「生活民」の優位を復活させる可能性が生まれ、さらには市場社会そのものの再構築という、大きな方向が見えてくるのではないでしょうか。

2018年10月9日火曜日

マーケティングは何を破壊したのか?

ながながとモノへの評価観を見直してきたのは、「マーケティング」という社会的装置の問題点を根本から見直してみたいからです。

例えば、現代フランスを代表する思想家、B.スティグレール(Bernard Stiegler)は「マーケティングは、家族構造や文化構造といった象徴制度をなしくずしに破壊してきた」と告発しています(『世界』2010年3月号)。・・・【差異化手法を批判する:2016年2月11日】

さらに彼は、マーケティングの横行によって、「個々が得意な物やその特異性に感覚的に愛着を持つということができなくなった」とし、「象徴の生産に参加できなくなって、個体性』が衰退していく」とも述べています(『象徴の貧困』)。

スティグレールの批判を、これまで述べてきた「共効―個効―私効」の文脈に載せてみれば、社会的な「共効」が肥大化して、個人的な「私効」を駆逐した、あるいは供給側の差し出す「共効」に圧倒されて、需要側の「私効」創造力が衰退した、ということになるでしょう。

このようなスティグレールの告発は、単なるマーケティング批判を超えて、現代市場社会、あるいは後期資本主義社会本質的な欠陥を指弾している、ともいえるでしょう。

現代の市場社会とは、供給者と需要者の両方がほとんどの全ての生活財を、市場という社会的な場を通じて交換するという構造を持っているからです。

供給者である企業は、市場の存在を前提にして、商品の有用性を作り出し、かつ供給しています。


その有用性とは、市場を支える多くの需要者が共通して求める、社会的、共同主観的なものですから、いうまでもなく「共効」です。

つまり、商品の「共効」とは、多くの需要者が共通して商品に求める有用性、いわば有用性の〝最大共通素〟とでもいうべきものです。

需要者である個人は、通常はそれらの「共効」に従って商品を購入し、そのとおりに使用して「個効」を享受しています(ヰティリゼ1)。

だが、そうでないケースもあります。個性や独創性を重んじる個人の場合は、純個人的、主観的な「私効」を目的に、既存の商品を購入したうえで、自分なりの手法で使用します(ヰティリゼ2)。

後者の場合、一つの商品の有用性は、市場での最大共通素を前提にしながらも、その中から個人的、主観的に選ばれています。

この時、個性的な需要者が商品に求めるものは「私効」ですが、それは有用性の“最小共通素〟となる場合が多いでしょう。なぜなら、彼らは自分自身の求める有用性の〝最小要素〟を求めて商品を購入し、それらを独自に組み合わせて使いこなしていくからです。

こうした需要が増えてくると、供給側でもそれに対応して、できるだけ多くの人に共通する〝最小要素〟を商品におりこむようになります。

となると、一つの商品の持つ「共効」と「私効」には微妙なズレが出てきます。



企業の側では、できるだけ多くの顧客の求めに共通する有用性を抽出して、商品の「共効」を作り出そうとします。

これに対し、純個性的な個人の側ではできるだけ自分だけの有用性を求めて、商品の「私効」を購入しようとします。



両者は当然重なっていますが、本質的にいえば、最大共通素と最小共通素がぴったり一致するのはごくなことでしょう。

そこで、企業は少数需要者の「共効」の一部を切り捨てることで大量生産を可能にし、また個人は自分なりの「私効」をある程度犠牲にすことで、己の消費行動を実現していきます。

ところが、現代のような高度市場社会では、先に述べたように、ほとんど全ての生活財が生産者の手で生産され、市場を通じて供給されていますから、需要側に立った生活民の一人ひとりは生産側の「共効」に従わざるをえません

つまり、現代社会では、市場性が私用性に優越し、最大共通素が最小共通素に優越し「共効」が「私効」を圧倒しているのです。そこに現代市場社会の、基本的な問題点があるといえるでしょう。