2015年2月26日木曜日

縦軸の構造・・・「身分け」と「言分け」

縦軸とは何をあらわしているのでしょうか。井筒俊彦によれば、人間は周囲の存在を第1次、第2次の二つの分節によって把握している、といっています。

「動物である限りにおいて、人間もまた原初的には、独自の『環境世界:umwert』(J.Ⅴ.ユクスキュール:1864~1944の定義)に住んでいる。(中略)動物的存在の必要に応じて分節化された事物・事象と、それら相互の関係とが構成する自然的世界。(中略)だが、幸か不幸か、人間はこの生物学的、第一次的存在分節の上に、もう一つの、まったく異質の存在文節を付け加えた。それが『文化』とよばれるものなのである(井筒俊彦『意味の深みへ』)。


この視点は、現象学や深層心理学から構造主義やポスト構造主義に至る、現代思想に広く共通しているものであり、日本の思想界では「身分け・言分け構造」というキーワードで表現されています。簡単にいえば、私たち人間は周りの世界を、「身分け」という網と「言分け」という網の、二つの網の目を通して見ているということです。



身分け(みわけ」というのは、哲学者の市川浩(1931~2002)が「身によって世界が分節化されると同時に、世界によって身自身が分節化されるという両義的・共起的な事態」(『〈身〉の構造』)と定義したものです。周りの物質的世界を、ハエはその感覚器でハエなりに把握し、イヌはその目や鼻でイヌなりにゲシュタルト化しています。


ゲシュタルトとは、部分の集まりを超えた、全体的なイメージのことですが、あらゆる動物はそれぞれの身に備わった生命の機能によって、〈種〉独自の方法で外界を分類し、地(身の外の外界)と図(身の内のゲシュタルト)に分けています。


人間もまた動物である限り、物質的世界の中の一個の存在として、このような「身分け構造」の中で生きています。外部世界をその感覚器の精度内でヒトなりに把握して、ヒト特有のゲシュタルトを描いています。つまり、人間は自らの本能という網の目によって、周りの外界を「身分け」し、ヒトという〈種〉特有の環境世界を作り出しているのです。


ところが、それだけではありません。「身分け」に加えて、人間はもう一つ別の網の目を持っています。言語学者の丸山圭三郎(1933~1993)が「言分け(ことわけ)と名づけたもので、「シンボル化能力とその活動」、つまり広い意味でのコトバを操る能力です。
 

この網の目を通すと、外部世界は本能という図式に加えて、コトバやシンボルによって把握した、もう一つ別の外界像を結ぶことになります。実をいえば、こうした能力を過剰物として持ったがゆえに、ヒトという動物は「人間」に変わったともいえるのです(『文化のフェティシズム』)。

以上で見てきたように、私たち人間は「身分け」構造という生物次元に加えて、「言分け」構造という人間的な次元の“二重のゲシュタルト”によって、周りの外界を把握しています。

2015年2月25日水曜日

生活構造の縦と横

「生活構造」というと、ミクロ経済学的な収支構造や消費分析を考えがちですが、ここではもっと視野を広げて、人間という動物に特有の言語能力が生み出す、生活の仕組みを考えていきます。

人間の言語能力については、古今東西を問わず、宗教や哲学の基本的なテーマでした。インド仏教の唯識論やギリシャ哲学のイデア論から、20世紀に生まれた、幾つかの西欧思想に至るまで、「言葉とは何か」については、さまざまな視点で考えられてきました。



その中で、思考のベースとしてもっともふさわしいのは、わが国の碩学、井筒俊彦(1914~1993)の提起した言語観だと思います。イスラーム学者として出発した井筒は、ギリシャ哲学やスコラ哲学、インド仏教や儒教などの東洋哲学、さらには20世紀の近代思想まで、脱領域的な思考を展開した人です。その広大な思想的枠組みを応用すれば、ともすれば西欧思想に偏りがちな議論を超えていくことができます。
 

井筒によると、人間の言語能力については、「垂直的(vertical)」と「水平的(horizontal」という2つの軸で整理できます。垂直的とは「人間の言語意識を、いわば深みに向かって掘り下げていく」軸であり、水平的とは「(言語の社会約定的記号コードとしての側面)に基づいてなされる人間相互間のコミュニケーション」の場を考察しようとする軸です(『意味の深みへ』)。

人間の言語能力は、その心理状況や生活行動に密接に関わっていますから、以上の視点を拡大すれば、垂直的とは表層から深層へ、意識から無意識へと、階層的に深化する、心理的な〝縦軸〟 であり、また水平的とは内側から外側へ、個人から集団へと、空間的に広がる、行動的な〝横軸〟 ということができます。

このように理解すると、私たちのさまざまな生活願望が生まれてくる〝場〟、つまり現象学的社会学が「生活世界」と名づけた生活空間は、縦軸としての心の階層と、横軸としての行動の空間の、相互にクロスする次元において、まずは把握できると思います。 

2015年2月24日火曜日

「生活体」の3つの軸

私たちの生活構造を、人文・社会科学の業績を活用して、改めて描き出してみると、3つの軸が見えてきます。

感覚・言語軸・・・体感的・感性的な世界と記号的・言語的な世界を両端とする軸


個人・社会軸・・・私的・個人的な世界と集団的・社会的な社会を両端とする軸

真摯・虚構軸・・・目標的・真摯的な世界と遊戯的・虚構的な世界を両端とする軸
 

3つの軸をクロスしてみると、立体的な球、あるいはキューブ(立方体)が浮かんできます。細分すると、日常界を中心に、感覚界、記号界、個人界、社会界、真実界、虚構界の、6つの世界がとりまいた、立体的な構造です。

このキューブが「生活体」であり、私たちの生活願望はその中から発生し、それゆえに生活行動もまたその中で営まれています。

とすれば、生活体のこのような構造を詳しく理解することから、生活者の真に求める商品やサービスが浮上し、それに対応する供給側からのマーケティング戦略が見えてくるはずです。

2015年2月23日月曜日

「生活体」を提唱する!

大熊信行の提唱した「生活者」は「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」というものですが、その生活願望を「必要」次元に限るという点で、やはり経済学の次元に留まっています

一方、今和次郎の提唱した「生活人」は「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行などを厳しく排除している点で、やや狭隘な視点にとらわれています

現実の生活者とは、決してこのようなものではありません。私たちの生活実態とは、生活願望の「必要・不必要」という次元を超えて、遊びや虚栄を求めるとともに、儀礼や風習から俗信や迷信まで、さらにはファッションやトレンドもまたまた追い求めるものです。そうした視点に立たない限り、「生活者」の生の全体像を的確にとらえることはまず不可能といえるでしょう。


そこで、筆者はよりトータルな生活者像として、新たに「生活体」を提案します。大熊の「生活者」像も、今の「生活人」像もともに含みつつ、さらに外側に広がる、幾つかの生活領域にまで幅を広げた、新しい概念です

「生活体」という言葉は、①生活の主体であるという意味と、②私たちの生活の構造は立方体である、という意味の、2つを重ねたものです。

「新・生活者」とよぶべきかもしれませんが、大熊の定義と区別するために、敢えてこのような名称を提起してみました。

 この「生活体」とはいかなるものか、人文・社会科学の、豊富な業績を応用しつつ、改めて説明していきましょう。

2015年2月20日金曜日

今和次郎は「生活人」を提唱!

社会経済学者・大熊信行の唱える「生活者」に対し、建築学や民俗学の立場からは、今和次郎が「生活人」という言葉を提案しています。


今和次郎(1888-1973)は、東京美術学校工芸科の出身で早稲田大学理工学部建築学科教授として、建築学、住居学、意匠研究などを研究し、「考現学」や「生活学」の提唱者として知られています。





彼は1952年に「『生活人』の意識」というエッセイの中で、「『経済人』の代りに『生活人』という言葉を用いて、いっそうわれわれに近接した思索を語らしめる言葉」にしたい、と提案しています。

明確に定義されているわけではありませんので、文意から推しはかってみると、「生活人」とは「これまでのような没個人的な倫理のうつろなお題目に幻惑されることなく、外回りの倫理でかっこうだけをつけさせようとあせることなく、日常生活を通じての自己生活の倫理」を高めていく人格、と読みとれます。これは、かなり倫理的、道徳的なイメージです。

もっとも、その前年1951年に書いたエッセイ「生活学への空想」では、「生産学として威力を発揮している経済学のふところから離れ」た「生活学」を構想し、それは「人間の生活行動の各分野を内容的に吟味した、労働論、休養論、娯楽論、教養論、などを一貫したものとして総合思索した生活原論」を基礎にする、と述べています。ここから類推すると、日常生活の主体となる「生活人」とは、労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像である、と思われます。

とすれば、今の「生活人」は、大熊のいう「生活者」が消費者という経済学的範疇を超えながらも、なお「必要」次元という、社会科学的次元に留まっていたのに対し、美学や哲学などの次元にまで幅を広げた、より総合的な人間像を意味していることになります。

もっとも、その一方で今は、農村に残る冠婚葬祭のような慣習は「封建的な真似ごと」であり、都市生活が取り入れる流行もまた「近代的な真似」だとして両方とも退け、「いきいきした生活というものは、社会的な力である慣習と流行へのたゆまざる戦いから生まれる」と述べています(「慣習と流行との闘い」)。

今がこれらの文章を書いたのは、戦後復興期の生活改善運動が隆盛する時代でしたから、封建的な慣習や軽薄な流行を排除する気持ちは、それなりに理解できます。しかし、全体的な人間像という意味では、新たな制約を作ってしまったのではないでしょうか。儀礼や風習から俗信や迷信まで、これらもまた人間生活の重要なセクターであるからです。ファッションやトレンドを追い求めるのもまた、人間という動物特有の特性と考えるべきでしょう。

このようにとらえると、今和次郎の「生活人」もまた、大熊信行の「生活者」とさほど離れてはいないのではないか、とも思えてきます。

2015年2月19日木曜日

大熊信行の提起した「生活者」とは・・・

「消費者」という言葉に代えて、「生活者」という言葉を初めて提案したのは、経済社会学者の大熊信行(1893-1977)です。東京高等商業学校を卒業後、小樽高商、高岡高商、富山大学、神奈川大学などの教授を歴任した経済学者で、歌人としても活躍しました。


大熊は、半世紀前の1963年、「“消費者”という一つの言葉は経済学に返納して、日常生活では私たちは生活者である、という新しい自覚に立ちたい」と宣言しました(「消費者から生活者へ」)。すでに1940年ころから、大熊はこの言葉を使っていましたが、日本経済が大量生産・大量消費時代に入った1960年代に、そうした社会風潮への批判として、改めて宣言したものでした。


彼のいう「生活者」とは、どのような人間をいうのでしょうか。生活の基本が「自己生産であることを自覚して」おり、「時間と金銭における必要と自由を設定し、つねに識別し、あくまで必要を守りながら」、大衆消費社会の「営利主義的戦略の対象としての、消費者であることをみずから最低限にとどめよう」とする人々のことだ、といっています(『生命再生産の理論』)。

逆にいえば、①営利主義の対象である「消費者」を抑制し、②「必要」という願望次元を守りながら、③自己生産を基本にする、という3点にまとめられます。この新しい定義は、供給過剰市場の拡大で、すでに実権を拡大しつつあった需要者側の立場を追認するものでもありました。

そのせいか、1970年代の後半から、経済学者はともあれ、マーケティングの分野では、「消費者」の使用をやめて、「生活者」にいい変えるケースが広がってきました。いわゆる「生活者マーケティング」というものですが、その延長線上で、先に見たように、両者が平行して使われるケースも増えています。

だが、それによって、かえって両者の区別が曖昧になってきました。「消費者・生活者一人一人」などと並べて使われて、ほとんど言い換えにすぎないケースも増えています。そればかりか、昨今では大熊の意図を大きく離れて、消費喚起の対象という立場を隠蔽するために、あえて「生活者」を多用するケースも増えています。こうなると、消費者と生活者を区別する効果は、ほとんど失われているといえるでしょう。

一方、大熊のいう「生活者」の定義についても、①営利主義の対象から脱却、③自己生産を基本にする、という要件については頷けますが、②の「必要」次元に限るというのは、やはり経済学の次元に留まっています。私たち一人一人の需要者は、「必要・不必要」という次元を超えて、例えば気晴らしや見せびらかしのためにも、モノやサービスを求めるものであり、それを否定しては、人間の生活行動をトータルに把握することはできないと思うからです。

こうした点で、大熊のいう「生活者」もまた、再検討すべきではないでしょうか。

2015年2月15日日曜日

消費者とは誰のことか?

消費者(consumer)という言葉は何を意味しているのでしょう。辞書を引いてみると、「物資を消費する人」とか「商品を買う人」とか書かれていますので、「商品やサービスを購入して、消費する人」ということになるでしょう。


歴史的にみると、最も古くは16世紀末のイギリスにまで遡れる可能性があります。この時期までに、同国では一般人が購入できるような消費財が普及したことが確認されていますから、「消費者」の誕生もまた、ここまで遡れるのかもしれません(J.サースク『消費社会の誕生』)。




しかし、経済学の通説によると、消費者が誕生したのは、近代的な「市場社会」が成立した19世紀末だ、とされています。市場社会とは「あらゆるモノやサービスが商品として市場で取引されるようになっている社会」と説明されているからです。この市場社会では、ほとんどの生活財が生産者によって供給されていますから、需要者はそれらを市場から購入しなければなりません。つまり、消費者というのは「生産者の提供するモノやサービスを、市場を通じて購入し、消費する人」なのです。

このため、消費者という言葉には、最初から幾つかの問題がつきまとっています。例えば、生産者の提供する範囲内でしか選べない、②市場を通じて買うしかない、③一方的に消費するしかない、などの諸点です。

市場社会が未成熟で、生産側が市場を誘導していた時代には、供給不足の影に隠れて、これらの欠点はほとんど目立ちませんでした。しかし、市場社会が進展し、供給過剰が進むにつれて、欠点が次第に表面化し、その立場に不満を漏らす人々も現れるようになってきました。

そこで、改めて求められたのが「生活者」とか「生活人」という言葉ではないか、と思います。

2015年2月14日土曜日

消費者志向から生活者志向へ

最近のマーケティング関係者の間では「従来の消費者志向を脱して、生活者志向を強めるべきだ」という主張がしばしば交わされています。

もともと、マーケティング業界では、「消費者志向のマーケティングとは、健康で文化的な生活を築くために、消費者の権利を重視し、消費者のニーズをよりよく満たして、消費生活に貢献することを目的とする経営活動だ」とか、「消費者主権のマーケティングとは、企業の社会的責任や顧客満足を重視したマーケティングである」といった主張が提起されていました。

ところが、最近では「消費者ではなく生活者を対象にすべきだ」という主張が増えています。

「消費者を理解するには、消費者を生活者としてとらえ、その意識を把握することが重要」であるから、「消費行動を自分の暮らし方表現の一つとして強く意識している現代の消費者の意識を知るためには、『消費者の求める(商品)』ではなく、『生活者として実現したいことややってみたいこと』の把握がより重要になる」というものです(日本リサーチセンター『マーケティングがわかる事典』)。

広告会社系の研究所でも「生活者発想とは、ひとことで言えば[消費者<生活者]という考え方です。(中略)個々の商品の買い手ではなく、暮らしの作り手である人間を『まるごと』観察し、その根源にある価値観や欲求の変化を読み解いていく…、それが生活者発想という考え方」(生活総研ONLINE)と述べています。

ここでいう「消費者」とは、あるいは「生活者」とは、どのような意味、いかなる定義で使われているのでしょうか。

2015年2月11日水曜日

生活者と市場社会の矛盾を超える!

前回、「立場は異なるが、すべてに共通するのは、消費者とは市場社会の内にとどまる人であり、生活者とは市場社会を超えた人なのである」と、15年前の主張を紹介しました。

この文意からいえば、生活者とマーケティングは相いれないもの、ということになります。生活者は「市場社会を超えた人」であり、マーケティングは、その言葉通り「市場行為」、つまり「市場社会を前提にした企業行為」である以上、両者は明らかに矛盾した概念です。

しかし、あえて「生活学マーケティング」という、一見矛盾したブログを始めたのは、私たちの生きている世界が市場社会そのものであり、その生活を構成している、ほとんど全てのモノやサービスは、市場からの供給を前提にしているからです。いいかえると、私たちは「市場」を否定しては、暮らしを構成できない社会に生きている、ということです。

とはいえ、生活者の生活欲求と企業の差し出す商品やサービスの間には、限りなく深いギャップがあります。消費者を脱した生活者は、市場の差し出すモノやコトを、そのまま受容しているわけではありません。さまざまな不満を抱きつつ、妥協しているにすぎません。
他方、供給者である企業の側も、生活者の求めるモノやコトを、すべて的確に把握しているとは限りません。詳細なマーケティングリサーチや市場分析などを行いつつも、既存の市場概念に基づいて、新商品や新サービスを提案しているだけです。

生活学マーケティングとは、このギャップを埋めるものです。生活者の求める、多様な生活願望に応えるため、企業としてできることは何かを追及していきます。一方では、市場社会を利用しつつ、生活者が自らの生活願望を実現していくにはどうすればいいのか。他方では、市場社会を通じつつ、供給者がどこまで生活者の願望の隅々にまで到達できるのか、を検討していきます。

生活者と市場社会の矛盾、それがあればこそ、従来とは全く異なるマーケティングの方向が見えてくるのです。

2015年2月10日火曜日

生活者とは誰か・・・生活学事典

生活学マーケティングの基本は、消費者と生活者の違いを明確化することから始まります。


この課題については、すでに15年ほど前、日本生活学会編『生活学事典』(TBSブリタニカ、1999)の中で、筆者は次のように述べています。
 


消費社会が進むにつれて、生産者の側でも、売れる商品を作るために、消費者の望む需要を的確に把握する必要が生じ、消費者行動の調査や市場調査を細かく行うようになる。

だが、さらに市場社会が成熟し、需要が飽和してくると、消費者を単なる買い手として把握しているだけでは不十分になる。消費者の本当の要望を知るためには、彼らが店頭に現れるときだけでなく、実際の生活の場でどのように使い、どのように満足し、どのように不満を持っているか、を知らなければ、十分な対応ができなくなったからである。

このため、生産者は、より総合的な需要者を意味する言葉として「生活者」を使うようになった。いわゆる「生活者マーティング」である。この立場では、消費者とは「商品を購入して消費する人」であり、また生活者とは「購入した生活財によっておのおのの生活をつくりあげている人」という区別になる。

一方、消費者の側でも、生産者が消費市場に提供する生活財の範囲内で、自らの生活を構成せざるをえなくなった。が、市場社会では、買い手の立場が売り手よりも弱くなることが多く、交渉、売買、故障などで、いわゆる「消費者問題」が多発してくる。そこで、これに対抗すべく、より主体的に消費者の立場を「生活者」として確認する動きが生まれてくる。すなわち、消費者とは「営利主体の客体として、交換価値を重視する、消費の担い手」であり、生活者とは「営利主義の主体として、使用価値を重視する、生産と消費を統一した生活の担い手」という定義である(大熊信行「消費者から生活者へ」)。

さらに進んで、消費者の多くは団結して「消費者運動」を組織し、生産者に対抗するようになった。こうした運動にかかわる人たちの間からは、消費者とは「市場社会の商品に依存する人」であり、生活者とは「消費や労働とともに、地域の社会や政治にも主体的、共同的にかかわる統合体」という区別も生まれてくる(天野正子『「生活者」とはだれか」』)。

また現代思想の立場からは、豊富な物を提供する消費社会が、実は流行やマスメディアなどによって生活を画一化する社会であることを見抜き、物の浪費とともに人間の浪費からも脱するために新たな人間像が提案されている。つまり、真の豊かさを実現するためには、物や人間の記号化と流行的画一化に抗って、各人が創意を発揮して個性的な生活をつくりあげていくということである。

こうした立場では、記号学のパロール(発話行為)優位論や現象学的社会学の多元的生活論を継承して、消費者とは「生産者の提供する価値や用途に従う人」であり、生活者とは「消費市場から購入した生活財を素材にして、より独創的に財の効用や用途を創り出す人」ということになる。


立場は異なるが、すべてに共通するのは、消費者とは市場社会の内にとどまる人であり、生活者とは市場社会を超えた人なのである。
                      [古田隆彦]

2015年2月9日月曜日

生活学マーケティングを始めます!

最近のマーケティングでは「消費者志向」という言葉が消えて、新たに「生活者志向」というキーワードが提唱されています。

消費者と生活者、2つの違いはどこにあるのでしょうか? 消費者という言葉と、生活者という言葉は、一体どこが違っているのでしょうか

筆者はこれまで、一方では食品・ファッション・住宅・自動車から出版・受験産業・冠婚葬祭まで、数多くの業種・業界のマーケティングに携わり、他方では日本生活学会の常任理事・事務局長を8年間勤めるなど、生活学の新たな展開を研究してきました。


その立場を活かして、このブログでは、従来のマーケティングを超えた、まったく異なる視点から、より本格的な「生活者マーケティング」を考えていこうと思います。