2019年7月30日火曜日

象徴制度を再構築する!

「コト・モノ・モト」論を一区切りしましたので、もう一度「消費社会からポスト消費社会へ」の第2条件「統合社会への転換」へ戻ります。

統合社会へ転換する!・・・その2:2019年6月26日】で述べましたように、「表層的な記号の支配を脱して、感覚や象徴の世界を回復させる」という方向は、消費社会を克服する手段として、B.スティグレール(Bernard Stiegler)などが積極的に提案しているものです。


スティグレールによると、20世紀型消費主義の尖兵であるマーケティングは、「中毒的消費」や「消費依存症」を拡大して、家族構造や文化構造などの「象徴制度」を破壊してきました【
差異化手法を批判する!:2016年2月11日】。

この病根を解毒するには、新しい「生の様式」や新たな「生き方」を作り出す「象徴制度」の再構築が必要ですから、「寄与の経済」や「贈与の経済」が中心の、次世代経済モデルをめざすべきだ、と提案しています。

彼のいう「象徴制度」とは、意識的な欲望や欲求次元の、さらに下に潜んでいる、無意識的な次元、つまり感覚や欲動の次元に広がる、最も始原的な世界認識体系です。

この象徴制度には、民族の習慣や習俗の歴史が幾重にも蓄積されており、モノやサービスの交換についても、北西部アメリカ・インディアンのポトラッチや、ポリネシア原住民のクラ交易のような「義務的贈答制度」が濃厚に残っています。

個人や集団もまた、この制度を巧みに利用して贈答や寄贈を行い、相互扶助を達成することができれば、新たな産業社会はその上に築くべきだ、というのです。

スティグレールが「寄与経済」と名づけている経済制度は、決して新奇なものではなく、文化人類学や経済人類学が20世紀の初頭から「互酬」あるいは「互酬制」とよんできた生産・分配制度です。

それは民族集団の中に潜む、集合的無意識や体感的な感覚に基づいた「象徴」体系であり、この体系を個人や集団がいわば無意識的に実践することによって、「贈与」や「寄与」といった交換行動が生れてきます。

互酬制を再建しようというのであれば、それはまさしく象徴社会の再建を意味していますから、統合社会をめざす第2の方向とほとんど同じです。

とはいえ、これだけ市場経済が拡大してしまった現代社会において、実際にそれを実現していくとなると、かなりの困難がつきまといます

どのような対応が求められるのでしょうか。

2019年7月20日土曜日

「モト」の3次元を考える!

「モノからコトへ」の次は「コトからモトへ」進むべきだ、と述べてきましたので「モト」の中身について少し触れておきましょう。

前回述べたように、「モト」には、(モト)、(モト)、(モト)の、3つの次元があります。

①感覚・体感・・・
②無意識・未言語・・・意識
③象徴・神話・・・

3つの次元については、【
差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】で詳しく述べていますので、改めて要旨を紹介しておきます。

現象学の「エポケ(epokhē:判断中止)を応用して、記号界のさまざまな「欲望」をかなぐり捨て、そのうえで生理的な「欲求」や無意識的な「欲動」の次元へ降りていきます。すると、そこに見えてくるのは象徴や神話の世界であり、さらにその下には無意識や下意識の世界、もっと下には感覚や体感の世界が広がっています。



それぞれの次元に浮遊している「モト」とは何なのか、その中身は次のようなものです。

感覚・体感の次元
個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚、いわゆる本能の活動する次元です。

これらを鋭敏にするには、一旦は理性的、合理的な鎧を脱ぎ捨て、直感的、感覚的な裸身をさらけ出すことが必要です。

野性的な動物や出産直後の乳児などの「本能」次元に立ち戻って、触覚、嗅覚、聴覚など視覚以外の感覚、つまり肌触り、快感、快汗、芳香、悪臭、美声、騒音などに敏感になることが求められるでしょう。


無意識・下意識の次元

身分けと言分けの裂け目から生まれてくるカオスが、どろどろと蠢いている次元です。

通常は意識下の暗い深淵に潜んでいますが、時折、夢や幻想などの形をとって噴出し、記号で覆われた欲望の厚い膜を突き破って出てきます。

これを活かすには、無意識や下意識が見えやすい環境を、積極的に作り出すことが必要です。


眠り、酩酊、陶酔といった状況に自らを誘い込んで、その中でたっぷりと夢や幻想を味わい、そこから生来の直感力や超能力を回復させる。それができれば、外部から誘導された欲望の虚構性が自覚され、生身の生活願望が見えてくるはずです。

象徴・神話の次元

無意識・下意識が漂う中で、言語や記号の生まれる以前のシンボル元型(archetype)が蠢いている次元です。

C.G.ユングによると、【
サインとシンボル・・・どこが違うのか?:2015年8月28日】で紹介したように、「象徴(シンボル)」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系である、と定義されています(『人間と象徴』)。


私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現している、ということです。

とすれば、象徴が生み出した元型【象徴」を応用する!:2016年4月9日】の微妙な動きやそれが繋がった神話の流れに敏感につかみ取ることが求められるでしょう。

なお、以上のような3次元を私たちが実際に活用する手法については、【差元化とは何か?:2015年8月】で詳述していますのでご照覧ください。

ともあれ、生活民自身が上記のような「モト」次元へと焦点をあて、それらを享受することができるようになれば、「モノ」や「コト」の次元を大きく飛び超えていく、一つの足掛かりとなるでしょう。

2019年7月9日火曜日

「モノ」から「コト」へ、「コト」から「モト」へ

前回、「コト・モノ・モト」論を紹介したところ、多くの皆様からリツィートやご質問をいただきましたので、本論をちょっと外れ、「モト」論を述べておきます。

最近、旧来型のマーケティングの世界では、「モノからコトへ」の次の消費動向として「トキ(時)」とか「イミ(意味)」、あるいは「エモ(エモーション)」などの言葉が提案されてきました。

これらは表層的な消費動向や経営学的なマーケティングの分析対象として予想されているもので、その限りにおいてはまったく構わないと思います。

しかし、より根源的、より理論的に生活行動の仕組みを思考しようとすると、ほとんど首尾一貫性のない、単なる思いつきのようにも思えてきます。

もともと私たちの意識構造は、【
分け・言分けが6つの世界を作る!:2015年3月3日】で述べたように、「感覚界=モノ界」をベースとして「言語界=コト界」と「現実界=モノコト界」の、3つの次元で構成されています。


モノ界」とは、本能や感覚器がとらえた限りでのモノの世界。

コト界」とは、「モノ界」の中から、言葉によって捉えられた限りでの世界。

モノコト界」とは、両世界の間にあって、言葉が捉えられなかった対象が浮遊したり、沈潜している世界。

このように考えると、「モノ」「コト」「モノコト」は、次のように定義できます。

モノ」とは、単なる物質や材質などを超えて、人間という種がその感覚で捉えた知的世界を意味しており、漢字で表わせば「」であり「」となります。

コト」もまた、単なるカラー、デザイン、ネーミング、ブランド、ストーリーなどを超えて、人間特有のシンボル化能力が描き出した
知的世界を意味しており、漢字で表わせば「」であり「」となります。

モノコト」とは、「モノ」と「コト」の間にあって、言葉が捉えきれないモノ、捉えていないモノなどを意味し、漢字の「物事」に相当しますが、やや異なる状態を示しています。

この「モノコト」は、言語的な「コト」界と本能的な「モノ」界の間を浮遊して、コトとモノを繋ぐ本源的な役割を担っていますから、その意味では「モト」とよんでもいいでしょう。

そこで、「モト」の実態を詳しく眺めて見ると、【
差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】で述べたように、①象徴・神話、②無意識・未言語、③感覚・体感、の3次元に分けることができます。

①象徴・神話次元・・・

②無意識・未言語次元・・・意識

③感覚・体感次元・・・

とすれば、「モト」は「元(モト)」「下(モト)」「本(モト」の3次元で構成されていることになります。

これこそ、「モノからコトへ」のさらに向こう側に「コトからモトへ」を展望しなければならない、重要な理由といえるでしょう。

3次元の内容は、次回以降で考えていきます。