2015年5月28日木曜日

欲求段階説の基本的な問題点

マズローの欲求段階説については、より基本的な次元で、幾つかの疑問が指摘できます。

第1は、私たちの生活願望を「Needs(欲求)」という一面でしかとらえていないことです。

仏教の唯識論から20世紀の現代思想まで、私たちの生活願望には、性格の異なる、いくつかの次元があることを指摘してきていますが、欲求段階説では一元的に扱われています
生理的・感覚的な「欲動(仏plusion、英drive、独trieb)」と、日常生活的な「欲求(仏besoin、英want、独wunsch)」や文化的・記号的な「欲望(仏désir、英desire、独begierde)」は、同じ生活願望とはいうものの、質的な次元で大きな差があります。

第2に、仮に欲求段階説を認めるにしても、一方向な発展段階には無理があります。

私たちの生活願望は、日常的次元の充実を追求するだけでなく、遊戯や儀礼といった非日常的次元の比重を高めたり、他人とは異なる、自分独自の生活様式を求めこともあります。
あるいは、肌触りや食感といった感覚的次元から、癒しや信仰といった象徴的次元まで、極めて多元的に噴出しています。
こうした実状を一元的な段階説ではとてもとらえることは、まず不可能といえるでしょう。


第3に、最も根本的な欠点として、この理論は「生存的欲求が最初に存在する」という幻想にとらわれています。

フランスの思想家G.バタイユを継承して、同国の社会学者J.ボードリヤールが鋭く指摘しているように「《人類学的最低生活必要量》なるものは実在しない。どんな社会においても、過剰への根本的要求があり(神の部分、供犠の部分、贅沢な浪費、経済的利潤)、それが《最低必要量》なるものを残余として決定する。生きのびることの水準を否定的に決定するのは、この贅沢部分の控除であって、その逆ではない」のです(『記号の経済学的批判』)。

つまり、生存的欲求、つまり生理的欲求がその他の欲求に先行する、というのは一種の「観念的虚構」にすぎません。
実例をあげると、生活水準が低いはずの未開民族の間にも、すでに自己実現的な宗教が実在していますし、極限状態の生理的な限界下でも、他人のために自らの命を捧げて、自己の尊厳を全うする人格者もいるのです。
これらの事例からみると、生理的欲求を基礎にして他の欲求を積み上げること自体が無理だ、ということになるでしょう。


私たちの生活願望は決して段階的に進むものではありません。初めから生理も安全も、愛情も所属も、自我も自己実現も、全てを求めています。ただそれぞれを求める大きさが、生活水準によって伸び縮みするだけなのです

2015年5月27日水曜日

マズローの欲求段階説は狭すぎないか?

マズローの「欲求段階説」が主張する、5つの「欲求」を、筆者の提起する「生活願望球」の7つの「願望」と比較してみましょう。

いうまでもなく、5つの内容についてはさまざまな解釈ができますから、単純に比較することはできませんが、敢えて生活願望球の中に位置づけてみると、図のようになります。




両者を比べてみると、欲求段階説については、ざっと見ただけでも、次のような疑問が浮かんできます。


➊5つの欲求は生活願望球の一部を占めているにすぎない

➋生活願望の基本である、3つの願望(欲動・欲求・欲望)が区別されていない

➌一方向的な上昇志向が強く、真面目志向はともかくも、虚脱志向や遊び志向が無視されている


こうしてみると、欲求段階説は、かなり狭い視点に立っているともいえるでしょう


もしこの比較が正しいとすれば、欲求段階説に基づいて、さまざまなマーケティング理論や戦略を考えるのは無謀なことなのかもしれません。

2015年5月23日土曜日

マズロー理論でいいのか?

生活球に基づく生活願望論は、これまでのマーケティング分野でしばしば応用されてきた、A.マズローの「欲求段階説」とは、根源的な次元で異なるものです。


アメリカの心理学者A.マズロー(Abraham Harold Maslow, 1908~1970年)は、1940~50年代に、人間性心理学の創始者として「欲求段階説」を発表し、私たちの欲求は、生理→安全→愛情と所属→尊敬→自己実現と段階的に進むものだ、と主張しました。





彼の理論によると、人間の欲求は階層をなしており、下位の欲求が満たされると、次々に上位の欲求へ移行していくそうです。つまり、生理的なものから安全、所属、愛、尊敬など社会的なものへと次第に移行し、最終的には自己実現(Self-actualization)へと向かっていきます。




具体例をあげれば、当面の食べ物や衣類に満足すると、身を守ることに注意が向き、それも満たされると、良い大学や良い会社に入りたくなり、いい夫や妻を探しはじめ、さらに地位や名声が欲しくなる。全てに満足すると、最後には生き甲斐や生きる証へと向かっていく、ということでしょう。



この理論は、組織や労働の動機分析から消費者の心理分析まで多方面に応用されており、とりわけマーケティング分野では基本的な定理にように扱われています。

しかし、哲学者や心理学者などからは、すでにいくつかの疑問が提示されています。

例えば、①欲求の発展は環境の差異に依存することが多いから、誰もが一律この順序を辿るとはいえない、②人類の普遍的なモデルというが、個人主義に価値をおく西洋的人間観をモデル化したものにすぎない、③自己実現に到達するには、4つの前提段階を踏まなければならないというが、それぞれの段階において自己実現への移行も考えられる、といったものです。

要するに、「衣食足りて礼節を知る」や「恒産なくして恒心なし」の立場をとるのか、「人はパンのみにて生くる者に非ず」や「武士は食わねど高楊枝」の視点に立つのか、どちらに重点をおくべきかという議論ともいえます。

そこで、これらとはやや別の次元から、筆者もまたこの理論に異論を挟んでみたい思います。


2015年5月18日月曜日

生活水準は生活願望をどのように変えるのか?

7つにまとめた生活願望は、生活環境や生活水準が変化すると、どのように変わるのでしょうか。

私たちの生活球は、生活水準の上下変動に伴って、膨らんだり萎んだりしています。生活水準が上がれば、生活球が膨らんで生活願望も広がり、生活水準が下がれば生活球が萎んで、生活願望もまた縮小します。

しかし、中央の「日欲」は欲求・実欲・常欲の3つを複合した、日常生活の基本的な願望(必需的願望)ですから、それがゆえに過剰な拡大や縮小は避ける傾向があります。日常的な願望は、物理的、生理的にある程度の満足を得ると、それ以上は求めなくなりますが、逆に最低限度を超えると、それ以下にはとてもできないという限界もまた持っているからです。

これに対し、周辺の6つの願望は、生活水準の上下にそのまま連動して拡縮する傾向を持っています。言語世界という人為的に作り上げた領域の中で、文化的、感覚的な願望選択的願望は限りがなく広がっていくからです。

こうした傾向によって、生活水準と生活願望の間には、図に示したような、3つの動きが想定できます。



 ①生活水準が上昇すると、7つの生活願望はそれぞれ大きく広がり、逆に下降すると、それぞれ縮んでいきます。つまり、7つの生活願望は生活水準の上下に比例して、全体が拡縮していきます。生活願望の拡縮に連動して、必需的願望も選択的願望も、ともに伸びたり、縮んだりするのです。

②生活水準が過度に上昇した場合、日欲はあるところまでは拡大しますが、それを過ぎると、
それ以上は膨らみません。このため、周辺の6つの願望が膨らんでいきます。つまり、生活願望全体が膨らんで、必需的願望が十分に満たされると、その後は選択的願望のみが広がっていきます。

③生活水準が過度に下降した場合、日欲はあるところまでは縮小しますが、それを過ぎると、
それ以上は縮みません。このため、周辺の6つの願望が縮んでいきます必需的願望には縮小限界があり、それを守るため、選択的願望が落ちていくのです。

生活水準の変動によって、私たちの生活願望は微妙に変化しています

2015年5月10日日曜日

七つの生活願望とは何か?

私たちの生活願望を7つに分けて表にまとめてみました。



これこそ、ヒトという種がその生活の中で求める、最も基本的な願望です。そこで、それぞれの中身はどんなものなのか、もう一度確認しておきましょう。

日欲(日常願望)・・・感覚・言語軸、個人・社会軸、真摯・虚構軸の3つの軸が交差する日常界で、上下には記号と感覚、意識と無意識、欲望と欲動の間で、左右には外交(社会との交流)と内交(自己との交流)、社会と個人、同調と愛着の間で、前後には真実と虚構、儀礼と遊戯、緊張と弛緩の間で、絶えず揺らめきつつ、営まれている日常生活の中から生まれてくる願望。毎日の暮らしを実現していく、最も基本的な動機となっており、現実的、具体的な性格を帯びています。現代思想では、その代表的な願望として「欲求」をあげています。

欲望(記号願望)・・・記号界から生まれる願望であり、言語、記号、意識、理性、観念、物語などを求めるもの。感覚のとらえた世界を言語化(コトアゲ)によって、観念に変えていこうとするもので、「言語、イメージ、ジェスチュアなどの表現活動はすべて〝記号〟活動である」というソシュールの思想に基づけば、記号願望とよぶこともできます。この種の願望を、現代思想では「欲動」や「欲求」と区別して、あえて「欲望」とよんでいます。

欲動(感覚願望)・・・感覚界から生まれる願望であり、感覚、無意識、欲動、感度、体感、象徴、神話などを求めるもの。言葉によってコト界を作ろうとするヒトの本性をあえて崩すことにより、言葉以前の世界を求めていくものです。その意味では、原始志向や動物志向ということもできますが、本来の原始人や動物への回帰志向というよりも、言葉の重みに疲れて、一旦「身分け」次元へ回帰しようとするものです。この種の願望を、分析心理学などでは「欲望」や「欲求」と区別して、「欲動」と名づけています。

世欲(外交願望)・・・社会界から生まれる願望であり、外交、社会、価値、同調などを求めるもの。環境世界を音節イメージによって区分けし、単語と文法によって全体的な構造を作り出しているラングという共同装置に対し、積極的に受け入れたり、あるいは能動的に働きかけようとするものです。社会的な風潮や経済的な価値へ、自らも同調しようとする願望ともいえます。社会で使われている言葉は、民族や国家という共同体が歴史的に環境世界をコトアゲしてきた結果であり、いわば「ソトワケ」ともいうべきものです。またそこで使われている言葉は、共同体(オオヤケ)の言葉であるから、「オオヤケゴト」ということができます。

私欲(内交願望)・・・個人界から生まれる願望であり、内交、個人、効能、愛着などを求めるもの。私たちは、ラングという共同装置を利用して、他人との会話を行なうだけでなく、日記やメモ、あるいは内省や思考などによって自分自身との対話を求めています。この願望が内交願望であり、社会的なネウチである「価値」よりも純個人的なネウチである「私効」(私的効用)を求めたり、社会的な風潮に同調するよりも、自分自身の好みへと愛着を増していきます。歴史的、社会的なラングを自分自身で加工したり、新たに創造することですから、「ソトワケからウチワケへ」ともいえますし、その結果として生まれてくる言葉もまた「オオヤケゴト」から「ワタクシゴト」へ変わってきます。

真欲(真実願望)・・・真実界から生まれる願望であり、真実、儀礼、緊張、勤勉、学習、訓練、節約、貯蓄などを求めるもの。虚実をともに示す言葉の機能のうち、個々の言葉の意味とその対象の厳密な一致をめざそうとする願望であり、言葉の示すものを目標にして、自らの行動を厳しく律していこうとします。社会的行動では儀式や儀礼、私的な生活行動では勤勉や学習、経済的行動では節約や貯蓄などがこれに該当します。言葉を真実にするものですから、「マコト」を求める願望ということもできます。

虚欲(虚構願望)・・・虚構界から生まれる願望であり、虚構、遊戯、弛緩、怠惰、遊興、放蕩、浪費、蕩尽などを求めるもの。個々の言葉の意味とその対象の関係を積極的にずらしていこうとする願望であり、言葉の示す目標を意識的に緩めて、自らの行動をあえて弛緩させ、遊びや解放を味わおうとします。社会的行動では遊戯や遊興、個人的な生活行動では弛緩や怠惰、経済的行動では浪費や蕩尽などが、これに該当します。言葉を虚ろにするものですから、「ソラゴト」あるいは「ザレゴト」を求める願望ということもできます。

7つの願望の中味を考えてみると、私たちが何を求め、何を供給してもらいたいのか、その根源が見えてきます。