2020年5月30日土曜日

えっ、物語マーケティングは“情緒”的な付加価値なの?

「物語」という日本語の意味するところを考えてきましたので、これを前提にしつつ、今回からは「物語マーケティング」の功罪について考えていきます。

マーケティング関連の学者や推進者などが重視している「物語マーケティング」とはいかなるものなのか、およそ次のように説明されています。


●物語マーケティングとは、商品のうえに「モノ」としての価値に加え、「世界観」や「物語性」といった情緒的な付加価値を添加するマーケティング手法。・・・広告用語辞典

●物語マーケティングとは、コンテクスト・マーケティング(消費者の心情に向けた商品を提供するマーケティング)の一つであり、設定したストーリー(コンテクスト)にユーザーが感情移入することで成り立つマーケティングである(要旨)。・・・公益社団法人日本印刷技術協会

●物語マーケティング=ストーリー・マーケティングとは、商品やサービス、あるいは企業などのブランドに対して、そのものの性能や機能における優位性、価値を訴えるのではなく、体験や世界観といった情緒的な付加価値を訴求することで共感を生み出すマーケティング手法である(要旨)。・・・ITmedia

まとめてみれば、「物語マーケティング」とは、商品の「モノ」としての価値のうえに、「コト」による“情緒”的な価値を付加する戦略、とでもいうことになるでしょうか。

だが、これはまあ、なんとアバウトな説明なのでしょう。世界観、体験、物語性などを“情緒”的な付加価値などというのは、あまりに無神経だ、と思います。

世界観とはむしろ理性的、あるいは論理的な理念でもあり、体験には感性的なものもあれば理性的なものも当然含まれています。物語性ですら、“情緒”的なふくらみもあるでしょうが、“理屈”的なことわりも含まれています。

これらを大雑把に“情緒”的などというのは、ほとんど説明になっていません。

それはまあともかくとしても、さらに問題なのは、「モノ」の上に「コト」を付加する“差異化”戦略が、何の躊躇いもなく大手を振って提案されていることです。

「記号論マーケティング」ともよばれて、1980年代以来、さまざまな論者から手厳しく非難され、幾度となく反省が繰り返されてきたものですが、そうした議論がほとんど無視されています。無視どころか、無知と言っても過言ではないでしょう。

差異化戦略とは何でしょうか。【
差異化とは何か?:2015年7月17日】で詳しく述べているように、商品やサービスのうえに、言語やイメージなど、さまざまな「記号」を載せて、新規性や異質性を訴求するマーケティング戦略であり、カラー化、デザイン化、ネーミング化、ブランド化、ストーリー化などの手法が含まれています。


このような戦略に対して、どのような批判が浴びせされたのか、このブログでも幾度も述べていますので、今一度、再掲しておきましょう。


いかがでしょうか。こうした批判を無視してもいいのでしょうか。

この障壁を超えて、本当に「物語マーケティング」を有効化したいというのであれば、今後どのような対応が求められるのでしょうか。

2020年5月23日土曜日

物語の2つの側面・・・神話と散文

「物語」を「もの+がたり」と考える時、物語とは表現対象の比重が「身分け」次元に置かれている文章化行為だ、と述べてきました。 

「身分け」次元には、深層言語が捉える対象として、【
言語化とはいかなる行為なのか?:2020年5月11日】で述べたように、象徴=神話次元、無意識=未言語次元、感覚=体感次元3次元があります。

これらの次元を文章化しようとすると、象徴=神話次元は「神話」に、無意識=未言語次元や感覚=体感次元は「口承文学(説話、民話など)や「詩歌(抒情詩、短歌、俳句など) 」などに馴染みやすいようです。

となると、大和言葉としての「ものがたり」つまり「事実に類似した虚構を文章化する行為」としては、神話や口承文学がもっともふさわしいと思われます。

しかし、現代日本語の「物語」は、散文小説のように、「身分け=モノ界」「言分け=コト界」の言語対象を、両方とも文章化する行為とされています。

こうした意味での物語という言葉は、本来ならば「こと+がたり」、つまり「ことがたり」とよばれるべきものだと思います。

語源的にみると、古い時代には「ものがたり」のほかに、「ことのがたりごと=ことがたり」という言葉も存在していたようです。

『古事記』には「ことのかたりごと」という断り箇所があることから、「ものがたり」と「ことのかたりごと」は異なるジャンルであったといわれる。
こと(事)は出来事や事件など、対象がある特定の事柄について用いられるのに対し、「もの(物)」は対象を漠然的にいう際に用いられるため、「物語」は特定の狭い範囲の事柄を対象とした話ではなかったと考えられる。
                           語源由来辞典

このように考えると、ものがたり」の中核は「神話」や「説話」であり、「ことがたり」の中核は「散文」や「小説」である、ということになります。




結論をいえば、現代日本語の「物語」という言葉には、純粋な意味では「神話」が、より広い意味では「散文」が、それぞれ意味されているのです。

2020年5月16日土曜日

物語と小説はどのように違うのか?

物語は「もの+かたり」である、と考えると、「ものがたり」とは、感覚が捉えた「もの」(身分け次元)を、予め定められた枠組みの「かたり」によって“言語”化(言分け次元)していく行為だ、と述べてきました。

“言語”化には、前回述べたように、言分け次元の表層言語や日常言語に加えて、身分け次元の深層言語が考えられます。

そうなると、「ものがたり」とは、感覚が捉えた深層言語(身分け次元)を、表層・日常言語(言分け次元)の、「予め定められた枠組み」によって文章化していく行為ということになるでしょう。

このような行為は、詩歌や散文などの文芸活動でさまざまに展開されています。

詩歌については、詩人の谷川俊太郎氏が次のように述べています。 


詩の言葉というのは、その表層言語に対していうと, 深層言語, つまり意識下にある言語みたいなものをこう, 出していかなければいけない所があるんですね。・・・まだ意味になっていないんだけれども, それが言語になった時に何かの意味をちゃんと含意できる, というようなもの 詩の言葉というのはそういうように確立された意味を持っていない言葉を, 使わなければならないわけですよ。

身分けが捉えたモノ界の「もの」を“語ろう”とすると、交信言語や表層言語で「かたる」前に、まずは象徴言語によって「かたる」言葉が浮かんでくる、ということです。

その言葉を韻律・字数・句法などの詩歌的制限で文章化するのが詩歌ですが、それとは別の、それぞれの様式という「予め定められた枠組み」によって文章化するのが散文であり、物語・小説・随筆・日記・論文・手紙などに分かれてきます。

このうち、物語小説については、次のような違いがあるようです。

小説と物語の間には明確な区分があるとされてきた。 すなわち、“話の展開に内容から導かれる必然性があるもの”が小説であり、“内容とはかかわりなく偶然のつながりによって話を進めてゆく”のが物語という見方である。 言い換えると小説は「虚構の連続性と因果律のある話の構造」を持たねばならないことが条件とされた。

この区分では、「必然性か偶然性」という「予め定められた枠組み(=かたり)」の差異によって、両者を分けるという立場を示しています。

しかし、この定義では「話」の定義が曖昧なままですから、当ブログでは「事実に類似した虚構を文章化する行為」と定義し、これを「予め定められた枠組み」として、両者の違いを定義し直してみました。

物語・・・主にモノ界に浮かんだ深層言語現象を、事実に類似した虚構として文章化する行為。

小説・・・モノ界、コト界に浮かんだ、さまざまな言語現象を、事実に類似した虚構として文章化する行為。

いいかえれば、物語も小説もともに言語を使って「身分け・言分け」次元を文章化するものですが、表現しようとする対象の比重が、前者では「身分け」次元に、後者では「身分け・言分け」次元にそれぞれ置かれている、ということです。


以上が、「物語」の意味を、「もの+かたり」という言葉の由来から、改めて見直した、一つの結論です。

2020年5月11日月曜日

言語化とはいかなる行為なのか?

ものがたり」とは、感覚が捉えた「もの」(身分け次元)を、予め定められた枠組みの「かたり」によって“言語”化言分け次元)していく行為だ、と述べてきました。

それでは、“言語”化とは、いかなる行為をいうのでしょうか。

言語」については、先学諸賢はもとより、専門書や辞書などで幾つかの定義がありますが、筆者は「音声とさまざまな対象を、体感的あるいは恣意的に結びつけ、それぞれを区別する、人間独自の心理的行為」と定義しています。

そのうえで、「一つの言葉は、初めは多分、純個人的に使われていたものの、集団内部で共有されるにつれ、やがて社会的慣習として存立するようになった」と推定しています。

このように定義と経緯を定めたうえで、言語の表面的、形態的な区別を考えると、定説が述べているように、音声を媒介とする「音声言語(話し言葉)」と、文字を媒介とする「文字言語(書き言葉)」に分けられます。

しかし、より本質的、内容的な区別としては、「表層言語」と「深層言語」に分けられるようです。前者は音声記号や活字記号など「表層意識において理性が作り上げる言語」であり、後者は無意識をとらえる「深層意識的な言語」です(井筒俊彦『意識と本質』)。【 “象徴”力の向上でウソとマコトを見分けよう!:2017年7月19日】参照。

さらに表層言語は日常的に会話する「日常言語」と、頭の中で観念や概念として使用している「観念言語」に分けられますから、結局のところ、私たちの言語行為は次の3つに分類される、と思います。

表層言語(観念言語)・・・観念や概念など抽象化された記号として使用している言葉。

日常言語(交信言語)・・・会話や文通などで日常的に使用している言葉。

深層言語(象徴言語)は、日常言語以前のイメージ(元型)やオノマトペ(擬声語)など、無意識的な"象徴"に載って表される言葉。

このうち、深層言語には、象徴無意識感覚の3次元があります。【差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】参照。



3次元は次のように説明できます。

象徴=神話次元・・・既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系であり、その典型が「元型」である(C.G.ユング『人間と象徴』)。【「象徴」を応用する!:2016年4月9日】。

無意識=未言語次元・・・通常は意識下の暗い深淵に潜んでいるが、時折、夢や幻想などイメージの形をとって噴出する意味体系。

感覚=体感次元・・・個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚、いわゆる本能が直観させる意味体系。 

いずれも表層・日常的な言葉になる前の、いわば「もやもや」とした、潜在的な言語段階ですが、これらを「表層・日常言語」化する行為もまた、私たちの生活行動のさまざまな分野で行われています。その一つが「物語」なのでしょう。

2020年5月5日火曜日

「がたり」とはいかなる行為なのか?

もの・がたり」のうち、「もの」についての説明は一通り終わりましたので、今度は「がたり」について考えてみましょう。

「がたり」は「かたり」の連濁音で、「が」によって2つの語が連結していることを示しています。「もの」+「かたり」の連語という意味ですから、がたり」ではなく「かたり」で検討を進めていきます。

「かたり」という行為は、言葉を発して何かを示す行為を現していると思われますが、岩波古語辞典によると、

かたり=語り・・・事の成り行き始めから終りまで秩序立てて話す

 と説明されており、類似の言葉として、次のような事例があげられています。

いひ=言ひ・・声を出して言葉を口にする意

はなし=話し・咄し・噺し・・おしゃべりをする意

のべ=述べ・・申しのべる、くわしく説明する意

これら以外にも、次のような言葉もあります。

つげ=告・・・知らせる意

まうし=申・・・支配者に向って実状を打ち明ける意

のり=宜・・・神聖なこととして口にする意

このうち、現代日本で最も一般的な「はなし」は、実のところ鎌倉・室町時代のころから使われるようになった言葉であり、それ以前は「いひ」や「かたり」などの方が使われていたようです。

いひ」は「いき(息)と同根で、発声そのもの由来する言葉

かたり=語り」は「カタドリ(象)=物の形をそっくり写しとる」のカタや、「カタ(型)=実物や模範をまねた形」のカタと同根で、なんらかの出来事を模して、相手にその一部始終を聞かせるのが原義

つまり、「かたり=語り」とは、一定の形式を前提にして、言葉をつなぐ行為なのです。

 
当ブログ風にいいかえれば「一定の形式」=「言分け」を前提にして、言葉を並べていく行為です。


となると、「ものがたり」、つまり「もの+かたり」とは、感覚が捉えた対象(身分け次元)を、「始めから終りまで秩序立てて話す」という、予め定められた枠組み(言分け次元)によって言語化していく行為、といえるでしょう。

「こと」ではなく「もの」を対象にして、「言分け」を行う行為だということですが・・・、その「もの」とは一体いかなるものなのでしょうか?