「象徴」という言葉には、多様な意味が含まれています。
英語のシンボルsymbolや仏語のsymboleなどの語源は、ギリシア語の動詞 symballein(一緒にする)の名詞形 シュンボロンsymbolonに由来しています。
Symbolonとは、何かのものを2つに割って2人の人間が分有し、それぞれをつきあわせて、相互に身元を確認しあうもの、つまり「割符」のことです(世界大百科事典)。
これが諸科学に応用されて、さまざまな形で使われるようになりました。主な用法は次の3つです。
① 直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現するもの・・・哲学・心理学など。
② 記号のうち、特に表示される対象と直接的な対応関係や類似性をもたないもの・・・言語学・記号学など。
③直接的に表しにくい観念や内容を、想像力を媒介にして暗示的に表現するもの・・・芸術・美学など。
このうち、生活学やマーケティングで使用するには、すでに「サインとシンボル・・・どこが違うのか?」で述べたように、心理学・分析心理学の用法に従うのがベターだと思います。
先に紹介したC.G.ユングによると、「象徴(シンボル)」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系だ、と定義されています(『人間と象徴』)。
この意味での「象徴」は、私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現している、ということです。
この種のシンボルは、さまざまな民族の神話や昔話などの間で極めて類似しています。例えば、大地母、童子、老賢者、道化、仮面、影などのキャラクターは、母、子ども、老人、ピエロ、悪者などを示す共通イメージとして、人種や民族を超え、人類一般に広く共通しています。
ユングはこれらを「元型(archetype:アーキタイプ)」と名づけました。そして、元型が民族を超えているのは、その一つひとつが人間の基本的な存在形態を象徴しているからだ、と述べています。
元型とは、人類の中に潜む集合的無意識がさまざまな願望を表現する時の「原始心像」であり、その心像の<元>となる型が予め無意識の中に存在する、と考えているのです(『元型論』)。
集合的無意識というのは、一人ひとりの個人を超えて、日本人とか中国人とかいった民族や集団の心の底に潜んでいる願望のことです。通常は意識されませんが、夢や神話などの形をとって時々私たちの前に現れ、穏やかな自然や懐かしい母胎を思い出させ、自由や安らぎを回復させてくれます。
とすれば、記号の氾濫を打ち破るには、この元型を拡大させればいい。始原的なキャラクターに触れ合ったり、それらを幾つか組み合わせた神話やおとぎ話を振り返ることができれば、私たちの心の深層にある沃野に立ち戻って、個人を超えた集合的無意識を再確認することができます。
そして、その延長線上には、「象徴交換」という互酬的な社会制度も見えてきます。ボードリヤールがはるかに期待した、ポリネシア原住民の「クラ」やアメリカインデアンの「ポトラッチ」という交換制度なのです。
以上のように、「象徴」という言葉を心理学的に使うと、サインや記号の乱用による「差異化」の弊害を、積極的に救済する方向が見えてきます。
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