2020年4月24日金曜日

「身分け・言分け」で3つの辞典を比較する!

「もの」は「身分け」によって、「こと」は「言分け」によって、それぞれ把握された対象、と述べてきました。

「身分け」とは身体という感覚器がつかんだ世界、「言分け」とはそれらを言葉によって改めて捉え直した世界ですから、「もの」は身体という感覚器がつかんだ対象、「こと」はそれらを言葉によって捉え直した対象、という意味になります。

しかし、「もの」も「こと」もともに言葉として発声されていますから、次のように言い直すべきでしょう。

もの=身体という感覚器がつかんだ対象を示す言葉

こと=「もの」を葉によって捉え直し、改めて区別する言葉

このように定義すると、前回【
哲学者の語る「もの」と「こと」の違いは・・・:2020年4月5日】で比較した、3つの区分は次のように整理できます。

●古語辞典
もの=【人間が感知・認識しうる対象】+【時間的推移・変動しない】

こと=【人間が感知・認識しうる対象】+【時間的推移・変動する】

「もの」も「こと」も【人間が感知・認識しうる対象】であるとは、両方とも「身分け」で捉えられる対象という意味です。

そのうえで、【時間的推移・変動しない】のが「もの」であり、【時間的に推移・変動する】のが「こと」であるとは、【時間】という「言分け」によって区別されている、といえるでしょう。古語の時代においては、時間的変化に両者の差をおいていたのです。

●現代語辞典
もの=【人間が感知・認識しうる対象】+【具象的・空間的な対象】

こと=【人間が感知・認識しうる対象】+【抽象的に考えられる対象】

「もの」も「こと」も、古語辞典と同じく【人間が感知・認識しうる対象】であり、両方とも「身分け」で捉えられる対象です。

そのうえで、【具象的・空間的な対象】が「もの」であり、【抽象的に考えられる対象】 が「こと」である、というのは「言分け」によって、具象と抽象が区別されることを意味しているのでしょう。

●哲学事典
もの=【人間が感覚的・非感覚的に認識する対象】+【一般的・不定的・漠然的表現】

こと=【ものの動きや諸関係】+【ものの在り方の一般的表現】

この区分では、身分け」で捉えられる対象と捉えられない対象の両方一般的・不定的・漠然的に表現した言葉が「もの」であり、そうした「もの」の動きや諸関係を、「言分け」によって一般化した言葉が「こと」である、と理解できます。

「もの」と「こと」の関係に踏み込んだ定義である点は評価できますが、【人間が非感覚的に認識する対象】までを「もの」に含めるというのは、検討の余地があるでしょう。


こうなると「身分け」された世界の外側、つまり「物界」の事物にまで広がっていきますから、これをいかに捉えるのか、改めて議論する予定です。

何やらいっそう難解になってきたようですが、以上のように、「もの」と「こと」を「身分け」と「言分け」によって再定義すると、より包括的な定義が可能になるとともに、過去の定義の問題点も浮かび上がってきます。

2020年4月15日水曜日

身分けで「もの」が、言分けで「こと」が・・・

「もの」と「こと」の違いを、古語辞典、現代語辞典、哲学事典で紹介してきましたが、今一つ曖昧なままです。

もう少し明快な説明はできないものか、いささか厚顔ながら挑戦してみました。

一言でいえば、「もの」とは「身分け」によって把握された対象「こと」とは「言分け」によって把握された対象、という説明です。

「身分け・言分け」については【
縦軸の構造・・・「身分け」と「言分け」2015年2月26日】以来、何度も述べてきましたが、次のように定義されています。

身分けとは「身によって世界が分節化されると同時に、世界によって身自身が分節化されるという両義的・共起的な事態」(市川浩『〈身〉の構造』)です。

言分けとは、コトバを操る能力で作られた網の目によって、身分けされた世界が、もう一つ別の外界像を結ぶこと(丸山圭三郎『文化のフェティシズム』)です。

簡単にいえば、「身分け」とは身体という感覚器がつかんだ世界「言分け」とはそれらを言葉によって改めて捉え直した世界とでもいえるでしょう。

この視点に従うと、私たち人間が把握している環境世界は、まずは物界モノ界コト界の3つに分けられます【
身分け・言分けが6つの世界を作る!:2015年3月3日】。

物界(フィジクス:Physics)とは、人間という種の本能や感覚器が把握できない次元に広がっている世界。

モノ界(ピュシス:Physis)とは、人間という種の本能や感覚器によって把握(身分け)した限りでのフィジクス。

コト界(コスモス:Cosmos)とは、人間の言語能力による仕分けによって把握(言分け)されたところのピュシス。

3つの世界を前提にすると、「もの」と「こと」は、下図に示したような関係になります。













整理すれば、以下のとおりです。

もの」とは、「身分け」つまり人間の感覚器官が周囲の物的世界の中から把握した限りでの対象を意味します。

こと」とは「身分け」された「もの」が、さらに人間の言語能力を用いた「言分け」によって浮かび上がってくる対象を意味しています。

もっとも、「もの」という音声も「こと」という音声も、ともに大和言葉という言語体系の中で発声されていますから、私たち日本人の言語能力の内側、つまり「コト界」内の現象ということになります。

「コト界」の内外で「もの」「こと」の立場は、どのようになっているのでしょうか?

2020年4月5日日曜日

哲学者の語る「もの」と「こと」の違いは・・・

日本語における「もの」と「こと」の違い哲学者はどのように見ているのでしょうか。

出隆の著「ものとことによせて」(『出隆著作集4・パンセ』1963所収)をベースにして、山崎正一が「現代哲学事典」(1970)の中で「物と事」と題して述べている視点を紹介しておきましょう。・・・抜粋 


●「」というのは「」である。「」というのは「」であり「異」であり、「殊」でもある。

●「もの」という日本語は、何であれ、一つにまとめ、つかねて言う場合に用いる。なんらかの単語・名辞・概念で示され得る自己同一的な対象あるいは存在者を、一般的に、不定に、漠然と指示する語である。
感覚的存在者、例えば花も家も人も、「もの」と言い得る。また非感覚的存在者、例えば、法というもの、価値というもの、神々というもの、など。
●「もののあはれ」「もの淋し」「もの思い」「もののけ(物怪、物の気)」などにおける「もの」とは、不定なるもの、漠然たる対象・存在者を意味する。
●「ものものしい」とは、『何かのもの』に重点を置いた言い方であって、何か自己同一的なるものが姿をあらわしている、という意に由来する。

●「こと」について。「もの」が「何か」を指示するとすれば、「こと」は「如何に」を指示する。
●「こと」は、ものの「働き」「作用」「所作」「状態」「様相」「性質」「関係」をあらわす。判断・命題・文で示され得るような、ものの在り方を、一般的に指示する語である。
●「言」というのは、ものの表現・表出の仕方ものを表現し現す在り方、の意である。
●「ことわり」「ことのわけ」というのは、こと即ち、事件・状態・関係に分け入り、その成り立ち・筋目を明らかにする意に由来する。それは、在り万の分節であり、事情の分析であって、そこに、ものの道理が現われる。
●「ことごとしい」とは、「如何なることか」に重点を置いた言い方であって、何かが出現してきたという意に由来する。

●「ものごと」(物事)というのは、何か自己同一的なるものの在り方、を意味している。 


表現が難解であるうえ、論理が回転し、多岐に分散しているようですから、筆者なりに要約しておきます。

●「もの」は、なんらかの単語・名辞・概念で示され得る自己同一的な対象あるいは存在者(感覚的存在者も非感覚的存在者も含むを、一般的に、不定に、漠然と指示する語である。

●「こと」は、「もの」の「働き」「作用」「所作」「状態」「様相」「性質」「関係」を表わし、判断・命題・文章で示され得るような「もの」の在り方を、一般的に指示する語である。「言」とは「もの」の表現・表出の仕方、「もの」を表現し現す在り方、の意である。

●「」は「」であり、「」は「」「」「」である。
●「もの」は「何か」を指示する語であり、「こと」は「如何に」を指示する語である。

●「ものものしい」とは、「何か自己同一的なるものが姿をあらわしている」という意であり、「ことごとしい」とは、「何か如何なることか出現してきた」という意である。
●「ものごと」(物事)とは、自己同一的なる「もの」の在り方、を意味している。


以上のような哲学者(哲学事典)の説明を、古語辞典や現代語辞典の説明と比較してみましょう。
 
 
古語辞典や現代語辞典が比較的明確に比べているのに対し、哲学者(哲学事典)の説明は、「もの」と「こと」の関係に踏み込んでいるせいか、辞典類より曖昧、あるいは難解になっています。

もっと明快な説明はできないものでしょうか?