2021年4月29日木曜日

「言分け」階層の「下分け」を考える!

アウグスティヌス言語3階層論を、このブログの生活世界の構造に位置付けてみると、コト界の「言分け」構造はとりあえず、「上分け」「中分け」「下分け」3つに分かれる、と述べてきました。ここでもう一度、前述の議論を整理しておきましょう。

最初に紹介したソシュールの言説では、「記号の恣意性」が主張されており、「下わけ」は無視されているようですが、全体を振り返ると、必ずしもそうではないようです。

彼の言語学では、大前提として、人間の広範な言語活動(langage)社会的な言語制度(langue)を峻別したうえで、後者における「言語の恣意性」を説いているからです。 

言語(langue)とはなんであるか? われわれにしたがえば、それは言語活動(langage)とは別物である。それはこれの一定部分にすぎない。ただし本質的ではあるが、それは言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である。

(一方)言語活動(langage)は、ぜんたいとして見れば、多様であり混質的である。いくつもの領域にまたがり、同時に物理的、生理的、かつ心的であり、なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする。それは人間的事象のどの部類にも収めることができない、その単位を引きだすすべを知らぬからである。

これに反して、言語(langue)はそれじしん全一体であり、分類原理である。言語活動事実のなかでそれに首位を与えさえすれば、ほかに分類のしようもない総体のうちに、本然の秩序を引き入れることになるのである。」(『一般言語学講義』小林英夫訳、19401984年)

これを見ると、ソシュールの言語論とは、敢えて「下分け」を省いたうえで、「上分け」と「中分け」の構造を詳細に究明したものといえるでしょう。 

一方、紹介した井筒俊彦説では、以上のようなソシュールの立場を認めたうえで、独自の言語阿頼耶識が展開されています。 

いかなる事物も、いかなる対象も、 一瞬たりとも即自的には与えられていない(ソシュール手稿9、丸山訳」)、しかし、人間において、「コトバの中に、自然に与えられている事物を見る幻想の根は深い(同上)」、という意味深長な言葉をソシュールは吐いている。つまり、人間意識の意味生産的想像力の織り出す、半ば透明、半ば不透明なベールが、我々と「自然」との間を隔てている、しかも我々は、通常、それに気付いていない、ということである。(『意味の深みへ』:P56

唯識派では、「種子」の、いわば溜り場として、阿頼耶識(alaya-vijñãnaなる意識下の場所を意識構造モデル的に措定する。アーラヤとは貯蔵所、収蔵所の意味。(中略) 元来、唯識哲学は、大ざっばに見て三層の意識構造モデルを立てる。(中略) 

⑴感覚知覚と思惟・想像・感情・意欲などの場所としての表層(前五識および第六意識)

⑵一切の経験の実存的中心点としての自我意識からなる中間層(第七末那識)

⑶近代心理学が無意識とか下意識とか呼ぶものに該当する深層

第三の深層意識領域が、いまここで問題としているalaya-vijñãna である。

(筆者注:前五識は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、第六識は意識、第七末那識は自己意識、阿頼耶識は深層無意識)

この概念を、言語理論的方向に引きのばして、私は「言語アラヤ識」、「意味アラヤ識」などという表現を使う。まだ経験的意識の地平に、辞書的に固定された意味として、出現するには至っていない、あるいは、まだ出現しきっていない、「意味可能体」、つまり、まだ社会制度としての言語のコードに形式的に組み込まれていない浮動的な意味の貯蔵所として、上述の意識構造モデル第三層を形象化するのである。(同:P78

このような観点から見られたアラヤ識は、明らかに、一種の「内部言語」あるいは「深層言語」である。辞書に記載された形での語の意味に固形化する以前の、多数の「意味可能体」が、下意識の間のなかに浮遊している。茫洋たる夜の間のなかに点減する無数の灯火にでも譬えようか。(同:P79

これこそ「下分け」の理論的な論拠となるものではないでしょうか。

先学諸賢の以上のような論説を前提にしつつ、生活構造論としての3分け」論を考えていきましょう。

2021年4月21日水曜日

アウグスティヌスも言葉を3つに分けていた!

井筒俊彦説によると、コトバの音声・文字(シニフィアン)と意味対象(シニフィエ)は、私たちの意識の深層(阿頼耶識)にある、なんらかの(種子)の影響によって結びつく、ということになりそうです。

とすれば、「言分け」によって「身分け」世界を分ける階層には、「言分け」次元の前に「種分け」次元がある、ということになります。

なにやら新たな知見のように思われますが、必ずしもそうではりません。

言葉の使用には幾つかの階層が潜んでいるという主張は、東洋的な阿頼耶識論だけでなく、西欧の古典思想の中にも見つけられるからです。

筆者の別のブログの中で【三位一体説を動力譜として考える!】として触れていますが、ローマ帝国末期の神学者・哲学者のアウグスティヌスAugustinus354~ 430年)もまた、言語の3次元を主張していました。古代インドで、唯識論や阿頼耶識論が主張された時とほぼ同時代です。

彼が50歳前後に書いた『三位一体論(De trinitate』では、言葉(verbum)とは記号(signum)の一種であるとしたうえで、3つの階層に分けています。

外向き会話(locutio foris)・・・ギリシア語やラテン語など、自然言語の音声を伴った言葉を使う会話次元

内向き会話(locutio interior)・・・自然言語には属していない「思考(cogitatio)」、あるいは「情動(locutio cordis)」の脳内次元

思考向き会話(cognitativium in similitudine soni)・・・声に出さず、「外向き言葉」の音声に似た言葉であれこれと考える思索次元

このうち、「思考向き会話」には、言語による思索として、観念的、あるいは抽象的な思索も含まれますから、「上向き会話」というべきかもしれません。

また「内向き会話」は、言葉が生まれて来る次元を示していますから、「下向き会話」ともよべると思います。この点について、アウグスティヌスの主張は、次のとおりです。 

私たちが考える時に、初めてそれ(言葉)を見つけるのは、 私たちの記憶の中に隠された深みの中であり、 そこにおいて最も内向きな言葉が生れてくる。 その言葉はいかなる国語にも属しておらず、いうならば、知識からの知識、 視覚からの視覚、すでに記憶の中に潜んでいた理解に基づく思考の中に現れる理解なのである。(De trinitate, XVより直訳) 

この表現は、前回述べた井筒説の「我々が表層意識面で――つまり知覚的に――外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ」という主張と極めて似ていると思います。

とすれば、アウグスティヌスの言語3階層論を、このブログの【身分け・言分けが6つの世界を作る!】で述べてきた生活世界の構造に位置付けると、下図に示したように、思考向き会話(=上向き会話)外向き会話(=中向き会話)はコト界(コスモス界)に、内向き会話(=下向き会話)はコスモス界とモノコト界(ゲゴノス界)の接点に、それぞれ位置づけられると思います。 

以上のように考える時、コト界の「言分け」構造はとりあえず、「下分け(種分け)」、「分け」、「上分け(思考向け)」の3つに分かれてくるでしょう。

2021年4月14日水曜日

コトバの意味は言語アラヤ識から浮かんでくる!

ソシュールの主張した「能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)の関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない」という言説は、現代社会の言語学や記号学では常識とされてきました。だが、本当に的を射ているのでしょうか。

すでにさまざまな批判や反論が行われていますが、最も本質的な批判は井筒俊彦先生の言説だ、と筆者は思います。

膨大な論述の中から、核心部分を抜き出してみましょう。

まずソシュールに主張する「言語の恣意性」については、次のように指摘します。

ソシュールは言語(ラング)を一種独特な記号学的「相異」の連関網目構造として規定した。「言語には相違しか存在しない(中略・・・という)、ソシュール言語学のこの有名な基礎命題は、要するに言語記号の実体性の無条件的な否定である。

能記(シニフィアン)の側であれ、所記(シニフィエ)の側であれ、記号というもの(実体)は存在しない。ただ諸辞項間の相互的「相異」関係のみがある。ものがあって、それらの間に相互関係が出来上がるのではなくて、関係性が諸辞項を、あたかも実在するものであるかのごとくに成立させる、というのだ。(『意味の深みへ』P108

そのうえで、ソシュールのこの主張は、言語の表層的な特性を述べたものにすぎない、と厳しく反論します。

コトバの表層領域とは、言語の社会的約定的記号コードとしての側面――無論、それに基づいてなされる人間相互間のコミュニケーション、つまり発話行為を含めて――ということ。このような偏向性における言語論は、必然的に、コトバにたいする水平的(ホリゾンタル)なアプローチとなり、人間の言語意識を、いわば深みに向かって掘り下げていく垂直的(ヴァーチカル)なアプローチはほとんど完全に無視される。

にもかかわらず、西洋の言語論のほとんどが、この次元に留まっていると批判します。

フロイト派の深層心理学の特殊分野におけるラカンの言語論とか、近年のクリステーヴァの「ル・セミオティーク」の如き、注目すべき例外はあるとしても、西洋の言語学の圧倒的大勢は、言語にたいして、いま言ったような意味でのホリゾンタルなアプローチによって特徴づけられる。チョムスキーの語る「深層言語」にしても、深層とはいうものの、それは実はデカルト的な普遍的理念構造を措定するだけであって、依然としてホリゾンタルなアプローチであることに変わりはない。(『意味の深みへ』P254

その欠陥を次のように指摘しています。

現代の言語学者は、社会的記号コードとしての言語(ラング)の対立項というと、すぐに発話行為(パロール)を考えるのを常とする。ラングとパロールとは相関的、相補的概念だ。

しかし本当は、ラングとパロールとをそのまま表面的に並べる前に、ラングの底に伏在する深層意味領域というものを考えなければならない。そうしてこそ、はじめて、いわゆる意味の「太古」の薄くらがりのなかから立ち現れてくるパロールの創造性の秘密を理解できるのではないか、と私は思う。(『意味の深みへ』P255

この主張の背景として、言葉の機能を表層と深層に分けたうえで、深層の構造を説明します。

表層的シニフィエの底辺部には、広大な深層的シニフィエの領域が伏在している。そればかりではない。言語意識の深層には、まだ一定のシニフィエと結びついていない不定形の、意味可能体の如きものが、星雲のように漂っているのだ。

まだ明確な意味をなしていない、形成途上の、不断に形を変えながら自分の結びつくべきシニフィアンを見出そうとして、いわば八方に触手を伸ばしている潜在的な意味可能体。まさに唯識の深層意識が説く「種子(しゅうじ)」、意味の種だ。既に一定のシニフィアンを得て、表層意識では立派に日常的言語の一単位として活躍しているものと、いま言ったような形成途上の流動的意味可能体と、無数の「意味」が深層意識の底に貯えられている。(『意味の深みへ』P259

このような種子が潜んでいる場所を大乗仏教唯識論の「種子」を敷衍して、「言語アラヤ識」と名づけています。

およそ外的事物をこれこれのものとして認識し意識することが、根源的にコトバ(内的言語)の意味分節作用に基づくものであることを私はさきに説いた。そして、そのような内的言語の意味「種子(ビージャ)」の場所を、「言語アラヤ識」という名で深層意識に定位した。

「言語アラヤ識」という特殊な用語によって、私は、ソシュール以来の言語学が、「言語(国語、ラング)」と呼び慣わしている言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する

もしこの考え方が正しいとすれば、我々が表層意識面で――つまり知覚的に――外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ。

なぜなら、何らかの刺激を受けて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだす時、必ずそれは一つ、あるいは一聯の、イマージュを喚起するものだからである。(『意識と本質』」P190 

以上のように、井筒説によると、コトバの音声・文字(シニフィアン)と意味対象(シニフィエ)の関係は、ソシュールのいう「恣意的」なものではなく、私たちの意識の深層(阿頼耶識)にある、なんらかの(種子)の影響によって、両者が結びつくのだ、というのです。

とすれば、「言分け」によって「身分け」世界を分ける、その前に「種分け」という段階を考えなければならないのかもしれません。

2021年4月6日火曜日

言分けは恣意的なのか?

「生活世界」の形をより詳細に描くために、従来の「言分け」概念を再検討しています。

「言分け」論の基礎になったF..ソシュールの言語理論では、言葉における「シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない」と述べています(『一般言語学講義』小林英夫訳、19401984年)。


どういうことなのか、上記の書籍を翻案しつつ、より詳しく確認してみましょう。
 

●言語記号には、2つの本質的特性があり、第1原理は「記号の恣意性」である(第2原理は「能記の線的特質」)。

能記(シニフィアン:意味するもの=音や文字など)所記(シニフィエ:意味されるもの=モノや概念など)を結びつける紐帯は、恣意的である。

●記号とは、能記と所記との連合から生じた全体を意味するものである以上、言語記号は恣意的である

●言語の間に差異のあることが、いや、諸言語の存在そのものが、その証拠である。所記としての「牡牛」は、国境のこちら側では能記がb-ö-f(boeuf)であり、あちら側では oks(ochs)である。

恣意性(arbitraire)という語にも注意が必要である。それは能記が話し手の自由選択に任されているもののように思わせてはならないということだ。一言語集団のうちでいったん成立した記号にたいしては、個人はこれに寸毫の変化をも与える力はない

●我々が言いたいのは、それ(恣意性)は無縁(immotivé)であるということだ。つまり能記と所記の関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない。

このように説明したうえで、凝音語(onomatopée)感嘆詞(Exclamation)など、恣意性を否定する意見のあることを指摘し、それについても反論しています。

まず凝音語(onomatopée)については・・・

●能記の選択が必ずしも恣意的でないことを言おうとして、凝音語(onomatopée)を盾にとることもできよう。しかしながら、それは決して言語体系の組織的要素ではない。その数からして存外に僅少である。

本式の擬音語(glougloutictac型のもの)はどうかといえば、それらは少数であるのみならず、ある物音の近似的な、そしてすでに半ば制約的な模倣にすぎない以上、それらの選択もまたいくぶん恣意的なのである。

●フランス語のOuaOuaもドイツ語のWauWauも、ひとたび言語体系のなかに導入されるや、他の語もこうむる音韻進化や形態進化などの中へ引きずり込まれる。このことは、それらの言葉が最初の特質の幾分かを失って、本来は無縁である言語記号一般の特質を具えるに到ったことの、明白な証拠である。

次に感嘆詞(Exclamation)については・・・

感嘆詞(Exclamation)も擬音語とよく似たもので、同じような注意をよびおこすが、われわれの提説にとってはやはり危険なものではない。人はとかくこれらの言葉に、実在の自発的な、いわば自然の口述した表現をみようとする。しかしながら、それらの大部分についていえば、所記と能記との間に必然的連結のあることを否定できる。

●こうした表現がいかに言語毎に相違するかを見るには、 2つの言語を比べてみればよい (例えばフランス語のaïe!にあたるドイツ語はau!)

●周知のように、多くの感嘆詞は元々一定の意味をもった語であった(参照 Diable!  Mordieu!:糞ったれ=Mort Dieu:死神,etc)

以上のような反論のまとめとして、「要するに、擬音語と感嘆詞には、副次的な重要性しかなく、それらの象徴的起原については、いくぶん論議の余地がある」と、ソシュールは結論付け、恣意性への批判は当たらないとしています。

この理論が、その後の言語学や記号学においては常識とされていますが、本当に的を射ているのでしょうか。