ソシュールの主張した「能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)の関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない」という言説は、現代社会の言語学や記号学では常識とされてきました。だが、本当に的を射ているのでしょうか。
すでにさまざまな批判や反論が行われていますが、最も本質的な批判は井筒俊彦先生の言説だ、と筆者は思います。
膨大な論述の中から、核心部分を抜き出してみましょう。
まずソシュールに主張する「言語の恣意性」については、次のように指摘します。
ソシュールは言語(ラング)を一種独特な記号学的「相異」の連関網目構造として規定した。「言語には相違しか存在しない」(中略・・・という)、ソシュール言語学のこの有名な基礎命題は、要するに言語記号の実体性の無条件的な否定である。 能記(シニフィアン)の側であれ、所記(シニフィエ)の側であれ、記号というもの(実体)は存在しない。ただ諸辞項間の相互的「相異」関係のみがある。ものがあって、それらの間に相互関係が出来上がるのではなくて、関係性が諸辞項を、あたかも実在するものであるかのごとくに成立させる、というのだ。(『意味の深みへ』P108) |
そのうえで、ソシュールのこの主張は、言語の表層的な特性を述べたものにすぎない、と厳しく反論します。
コトバの表層領域とは、言語の社会的約定的記号コードとしての側面――無論、それに基づいてなされる人間相互間のコミュニケーション、つまり発話行為を含めて――ということ。このような偏向性における言語論は、必然的に、コトバにたいする水平的(ホリゾンタル)なアプローチとなり、人間の言語意識を、いわば深みに向かって掘り下げていく垂直的(ヴァーチカル)なアプローチはほとんど完全に無視される。 |
にもかかわらず、西洋の言語論のほとんどが、この次元に留まっていると批判します。
フロイト派の深層心理学の特殊分野におけるラカンの言語論とか、近年のクリステーヴァの「ル・セミオティーク」の如き、注目すべき例外はあるとしても、西洋の言語学の圧倒的大勢は、言語にたいして、いま言ったような意味でのホリゾンタルなアプローチによって特徴づけられる。チョムスキーの語る「深層言語」にしても、深層とはいうものの、それは実はデカルト的な普遍的理念構造を措定するだけであって、依然としてホリゾンタルなアプローチであることに変わりはない。(『意味の深みへ』P254) |
その欠陥を次のように指摘しています。
現代の言語学者は、社会的記号コードとしての言語(ラング)の対立項というと、すぐに発話行為(パロール)を考えるのを常とする。ラングとパロールとは相関的、相補的概念だ。 しかし本当は、ラングとパロールとをそのまま表面的に並べる前に、ラングの底に伏在する深層意味領域というものを考えなければならない。そうしてこそ、はじめて、いわゆる意味の「太古」の薄くらがりのなかから立ち現れてくるパロールの創造性の秘密を理解できるのではないか、と私は思う。(『意味の深みへ』P255) |
この主張の背景として、言葉の機能を表層と深層に分けたうえで、深層の構造を説明します。
表層的シニフィエの底辺部には、広大な深層的シニフィエの領域が伏在している。そればかりではない。言語意識の深層には、まだ一定のシニフィエと結びついていない不定形の、意味可能体の如きものが、星雲のように漂っているのだ。 まだ明確な意味をなしていない、形成途上の、不断に形を変えながら自分の結びつくべきシニフィアンを見出そうとして、いわば八方に触手を伸ばしている潜在的な意味可能体。まさに唯識の深層意識が説く「種子(しゅうじ)」、意味の種だ。既に一定のシニフィアンを得て、表層意識では立派に日常的言語の一単位として活躍しているものと、いま言ったような形成途上の流動的意味可能体と、無数の「意味」が深層意識の底に貯えられている。(『意味の深みへ』P259) |
このような種子が潜んでいる場所を大乗仏教唯識論の「種子」を敷衍して、「言語アラヤ識」と名づけています。
およそ外的事物をこれこれのものとして認識し意識することが、根源的にコトバ(内的言語)の意味分節作用に基づくものであることを私はさきに説いた。そして、そのような内的言語の意味「種子(ビージャ)」の場所を、「言語アラヤ識」という名で深層意識に定位した。 「言語アラヤ識」という特殊な用語によって、私は、ソシュール以来の言語学が、「言語(国語、ラング)」と呼び慣わしている言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する。 もしこの考え方が正しいとすれば、我々が表層意識面で――つまり知覚的に――外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ。 なぜなら、何らかの刺激を受けて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだす時、必ずそれは一つ、あるいは一聯の、イマージュを喚起するものだからである。(『意識と本質』」P190) |
以上のように、井筒説によると、コトバの音声・文字(シニフィアン)と意味対象(シニフィエ)の関係は、ソシュールのいう「恣意的」なものではなく、私たちの意識の深層(阿頼耶識)にある、なんらかの種(種子)の影響によって、両者が結びつくのだ、というのです。
とすれば、「言分け」によって「身分け」世界を分ける、その前に「種分け」という段階を考えなければならないのかもしれません。
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