「生活世界」の形をより詳細に描くために、従来の「言分け」概念を再検討しています。
「言分け」論の基礎になったF.ド.ソシュールの言語理論では、言葉における「シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない」と述べています(『一般言語学講義』小林英夫訳、1940~1984年)。
●言語記号には、2つの本質的特性があり、第1原理は「記号の恣意性」である(第2原理は「能記の線的特質」)。 ●能記(シニフィアン:意味するもの=音や文字など)と所記(シニフィエ:意味されるもの=モノや概念など)を結びつける紐帯は、恣意的である。 ●記号とは、能記と所記との連合から生じた全体を意味するものである以上、言語記号は恣意的である。 ●言語の間に差異のあることが、いや、諸言語の存在そのものが、その証拠である。所記としての「牡牛」は、国境のこちら側では能記がb-ö-f(boeuf)であり、あちら側では o₋k₋s(ochs)である。 ●恣意性(arbitraire)という語にも注意が必要である。それは能記が話し手の自由選択に任されているもののように思わせてはならないということだ。一言語集団のうちでいったん成立した記号にたいしては、個人はこれに寸毫の変化をも与える力はない。 ●我々が言いたいのは、それ(恣意性)は無縁(immotivé)であるということだ。つまり能記と所記の関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない。 |
このように説明したうえで、凝音語(onomatopée)と感嘆詞(Exclamation)など、恣意性を否定する意見のあることを指摘し、それについても反論しています。
まず凝音語(onomatopée)については・・・
●能記の選択が必ずしも恣意的でないことを言おうとして、凝音語(onomatopée)を盾にとることもできよう。しかしながら、それは決して言語体系の組織的要素ではない。その数からして存外に僅少である。 ●本式の擬音語(glou₋glou、tic₋tac型のもの)はどうかといえば、それらは少数であるのみならず、ある物音の近似的な、そしてすでに半ば制約的な模倣にすぎない以上、それらの選択もまたいくぶん恣意的なのである。 ●フランス語のOuaOuaもドイツ語のWauWauも、ひとたび言語体系のなかに導入されるや、他の語もこうむる音韻進化や形態進化などの中へ引きずり込まれる。このことは、それらの言葉が最初の特質の幾分かを失って、本来は無縁である言語記号一般の特質を具えるに到ったことの、明白な証拠である。 |
次に感嘆詞(Exclamation)については・・・
●感嘆詞(Exclamation)も擬音語とよく似たもので、同じような注意をよびおこすが、われわれの提説にとってはやはり危険なものではない。人はとかくこれらの言葉に、実在の自発的な、いわば自然の口述した表現をみようとする。しかしながら、それらの大部分についていえば、所記と能記との間に必然的連結のあることを否定できる。 ●こうした表現がいかに言語毎に相違するかを見るには、 2つの言語を比べてみればよい (例えばフランス語のaïe!にあたるドイツ語はau!)。 ●周知のように、多くの感嘆詞は元々一定の意味をもった語であった(参照 Diable! Mordieu!:糞ったれ=Mort Dieu:死神,etc)。 |
以上のような反論のまとめとして、「要するに、擬音語と感嘆詞には、副次的な重要性しかなく、それらの象徴的起原については、いくぶん論議の余地がある」と、ソシュールは結論付け、恣意性への批判は当たらないとしています。
この理論が、その後の言語学や記号学においては常識とされていますが、本当に的を射ているのでしょうか。
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