井筒俊彦説によると、コトバの音声・文字(シニフィアン)と意味対象(シニフィエ)は、私たちの意識の深層(阿頼耶識)にある、なんらかの種(種子)の影響によって結びつく、ということになりそうです。
とすれば、「言分け」によって「身分け」世界を分ける階層には、「言分け」次元の前に「種分け」次元がある、ということになります。
なにやら新たな知見のように思われますが、必ずしもそうではりません。
言葉の使用には幾つかの階層が潜んでいるという主張は、東洋的な阿頼耶識論だけでなく、西欧の古典思想の中にも見つけられるからです。
筆者の別のブログの中で【三位一体説を動力譜として考える!】として触れていますが、ローマ帝国末期の神学者・哲学者のアウグスティヌス(Augustinus:354~ 430年)もまた、言語の3次元を主張していました。古代インドで、唯識論や阿頼耶識論が主張された時とほぼ同時代です。
彼が50歳前後に書いた『三位一体論(De trinitate)』では、言葉(verbum)とは記号(signum)の一種であるとしたうえで、3つの階層に分けています。
●外向き会話(locutio foris)・・・ギリシア語やラテン語など、自然言語の音声を伴った言葉を使う会話次元 ●内向き会話(locutio interior)・・・自然言語には属していない「思考(cogitatio)」、あるいは「情動(locutio cordis)」の脳内次元 ●思考向き会話(cognitativium in similitudine soni)・・・声に出さず、「外向き言葉」の音声に似た言葉であれこれと考える思索次元 |
このうち、「思考向き会話」には、言語による思索として、観念的、あるいは抽象的な思索も含まれますから、「上向き会話」というべきかもしれません。
また「内向き会話」は、言葉が生まれて来る次元を示していますから、「下向き会話」ともよべると思います。この点について、アウグスティヌスの主張は、次のとおりです。
私たちが考える時に、初めてそれ(言葉)を見つけるのは、 私たちの記憶の中に隠された深みの中であり、 そこにおいて最も内向きな言葉が生れてくる。 その言葉はいかなる国語にも属しておらず、いうならば、知識からの知識、 視覚からの視覚、すでに記憶の中に潜んでいた理解に基づく思考の中に現れる理解なのである。(De trinitate, XVより直訳) |
この表現は、前回述べた井筒説の「我々が表層意識面で――つまり知覚的に――外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ」という主張と極めて似ていると思います。
とすれば、アウグスティヌスの言語3階層論を、このブログの【身分け・言分けが6つの世界を作る!】で述べてきた生活世界の構造に位置付けると、下図に示したように、思考向き会話(=上向き会話)と外向き会話(=中向き会話)はコト界(コスモス界)に、内向き会話(=下向き会話)はコスモス界とモノコト界(ゲゴノス界)の接点に、それぞれ位置づけられると思います。
以上のように考える時、コト界の「言分け」構造はとりあえず、「下分け(種分け)」、「中分け」、「上分け(思考向け)」の3つに分かれてくるでしょう。
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