2021年7月25日日曜日

フロイトの言語観を振り返る!

20世紀の思想家たちの言語観を振り返っています。

フッサールに続いて、オーストリアの精神分析学者、S.フロイトSigmund Freud18561939年)の見解を眺めて見ましょう。

周知のとおり、フロイトは精神分析学の提唱によって、精神医学の進展に大きく寄与したうえ、心理学や社会学、宗教理論や芸術理論など、現代思想全般に大きな影響を与えた学者です。

言語に関する、彼の見解を代表作の一つ『Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse』(精神分析学入門:1917年)から探ってみましょう。

フロイトは言語学者、H・スぺルバーの研究を大変評価して、次のように引用しています。

彼の説によると、「最初の音声伝達の役目をし、性愛の相手を呼びよせるためであった。語根は原始人の労働の作業にともなって発達した。これらの労働作業は共同作業であったので、リズミカルに言語的表明を反復しながらおこなわれた。性的な関心はこうしているあいだに労働のうえに移しかえられたのである。原始人は労働を性的活動の等価物として、また代理物として取り扱うことによって、いわば労働を受け入れやすいものにしたのである。

共同の労働をしているときに発せられることばは、こうして二つの意味をもつようになった。すなわち性的な動作を言いあらわすと同時に、これと同じものとされた労働の活動を言いあらわしたのである。時とともに、その語は性的な意味から切りはなされて、労働に固定されるようになった。

幾世代かすぎると、まだそのときには性的意味をもっていた新語についても同じようなことが起こり、他の新しい種類の労働に転用されるようになっていった。このようにしてかなりの語根がつくられたが、いずれも性的なものに由来するもので、徐々にその性的な意味を他のものにゆずっていったものである」というのです。

  『精神分析学入門』(世界の名著49、懸田克躬訳:中央公論社:1982

うーん、いささか無理な論理とも思えますが、ともかくもこの説を受け入れて、フロイトは自説を次のように展開しています。

ここに大略を記した彼の説が的を射ているものとすれば、たしかに夢の象徴性を理解する可能性がひらけてきます。すなわち太古の事情を示すものをまだ多分に保っている夢のなかに、性的なものをあらわす象徴がなぜこんなに驚くほどたくさんあるのか、なぜ一般に武器や道具が男性的なものをあらわし、原料や加工されたものが女性的なものをあらわすのかということがわかってくるでしょう。

象徴関係は古代に単語が同一だったことの遺物といってもよいのです。かつて性器と同じことばで呼ばれたものが、いまや夢のなかで性器の象徴として現われているのかもしれないのです。

夢の象徴性について私どもはこれと対比しうるものをあげましたから、みなさんはそれによってまた、精神分析の性格を評価することもできます。この性格こそが、精神分析学を他の心理学や精神医学にはその例をみないような一般的関心の対象にさせたのです。精神分析的研究では、その研究が非常に価値のある解明を期待される他の多くの精神科学、すなわち言語学、神話学、民俗学、民族心理学および宗教学との関係が生じてきます。

同上

極論すれば「言葉の起源は性愛のための呼びかけであり、そこから労働などへ広がっていった」という説は正鵠を得ているから、精神分析上の夢の解読にもそのまま応用できる、ということでしょうか。・・・いかにもフロイトらしい論理ですね。

そのうえで、より具体的な事例の説明へと進んでいきます。

◆夢の働きのこの奇怪なふるまい(対立と一致が曖昧・・・筆者注)に対する好都合な類似は、ことばの発達の過程があたえてくれます。多くの言語学者たちは、もっとも古いことばでは強い―弱い明るい―暗い大きい―小さいというような対立は、同じ語根によって表現されているものだと主張しています〔『原始言語の相反的意味の問題』〕。

たとえば、エジプト語のkenは、もともとは[強い]と[弱い]といり2つの意味をもっていました。対話の際、このように相反する2つの意味を合わせもつことばを用いるときには、誤解を防ぐために、ことばの調子と身ぶりを加えました。

また文書では、いわゆる決定詞といって、それ自身は発音しないことになっている絵を書きそえたのです。すなわち、「強い」という意味のkenのときは。文字のあとに直立している男の絵を、「弱い」という意味のkenのときは、力なくかがみこんでいる男の絵をかきそえたのです。

夢の働きのもう一つの特質は、言語の発達過程のなかにその対照が見いだされます。古代エジプト語では、後代の諸国語におけるように、同一のことを示す語の音の順序を逆にすることがありました。

ドイツ語と英語とのあいだにあるこの種の例としては、topf(トップ:壷、桶)とpot (ポット:壷、瓶)、boat(ボート)とtub(タブ:浴槽、桶)、hurry(ハリー:急ぐ)とruhe(ルーへ:休息)、balken(バルケン:梁)と kloben(クローベン:丸太)やclub(クラブ:棒)、weit(ウエイト:待つ)とtäuwen(トイヴェン:待つ)があります。

夢の働きにみられるこの特徴は、〈太古的〉と名づけられてよいでしょう。この特徴は古代の表現体系言語および文字にもつきまとっており、解釈する際に同じような困難をともなっています。

同上

以上のように、フロイトの言語観では、その所論である無意識と夢の関係の中に、言葉の起源や発展過程を求めているようです。

当ブログの言語3階層説に当てはめれば、象徴・深層言語に基底に置きつつ、日常・交信言語や思考・観念言語を思考しているのだ、ともいえるでしょう。

2021年7月20日火曜日

フッサールの言語思想は・・・

19世紀のソシュールとヘーゲルに続いて、20世紀に入ります。

この世紀の言語観でとりあえず確認しておくべきは、オーストリアの哲学者、E.G.A.フッサールEdmund Gustav Albrecht Husserl18591938年)の見解でしょう。

周知のとおり、フッサールは「現象学」を提唱し、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティなどに多大の影響を与えた学者です。

代表作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』によると、古代ギリシアで創設された、理性による普遍学では、日常的に直感される「生活世界」(Lebenswelt)を基盤にして、真の学が成立していました。

ところが、16世紀以降はG.ガリレイらによって物理学の基礎用に数学が導入されたため、自然のままの生活世界は「数学的・記号学的理念の衣」によって被われてしまいました。

これこそが「ヨーロッパ諸学の危機」であり、危機を乗り越えるためには、「すべての客観的学問」を一旦エポケー(判断中止)して、本来の生活世界を取り戻すことが必要だ、を主張しました。

エポケとは、「まず世界があり、その世界のうちに私がいる」という一般的な常識を一旦棚上げすることです。それによって、元々の純粋意識の領域が得られますから、その場において初めてノエシスノエマ(意識作用―対象事象)の相関関係が浮かび上がり、この相関関係に基づいて構成的な現象学が可能となる、というのです。

このような論理体系の中で、彼は「言語」をどのように位置付けていたのでしょうか。浅学にして、明確な表現は見つけていませんが、言語とは精神の表出運動であり、意味を付与しようとする志向性意味を理解する充足性合力、として把握したようです。

最も関連性の高いと思われる論文「幾何学の起源について」の中から、主な文章を拾い出してみましょう。

●わたしと同様にすべての人間――そのように人間として、彼はわたしやすべての人によって理解されているのだが――が、その仲間をもち、つねに自分自身をもふくめで、人類一般をもち、自分がその中で暮らしているということを知っているのである。

普遍的な言語が属するのは、まさしくこうした人類の地平に、である。人類というものは、あらかじめ直接的および間接的な言語共同体として意識されている。

●人類の地平が、人間にとってつねにそうであるような開かれた無限な地平でありうるのは、明らかに、可能な伝達としての言語とその広大な効果をもつ記録によってのみなのである。人類の地平としては、また言語共同体としては、意識の上で成熟した正常な人間たち(そこからは異常者や幼児は除かれる)が、優先される。

●こうした意味では、すべての人間の〈われわれ〉という地平(Wir-Horizont)をなしている人類とは、彼らにとって、相互に正常な仕方で完全にわかり合えるように語ることができるということによって成り立つ共同体のことなのであり、そしてこの共同体において各人は、自己の人間的環境のうちに現存するすべてのものを、客観的に存在するものとして話題にすることができる。

●すべでのものは名前をもっているか、あるいはきわめて広い意味で命名可能、すなわち言語的に表現可能である。

●客観的世界とはもともと万人にとっての世界、つまり、「だれでも」が世界地平としてもっている世界のことである。世界の客観的存在は、その普遍的な言語をもった人間〔主観〕としての人間を前提にしている。

●言語は、言語の側からいえば、一つの機能であり、習熟された能力であるが、それは世界、つまり言語的にその存在や在り方(Sosein)に関した表現可能なものとしての対象の総体と相関的に結びついた機能・能力なのである。

●こうして、一方の人間としての人間、仲間、世界――われわれが語っており、語りうる人間の世界――と、他方の言語とは、不可分に織り合わされており、いつもすでにその不可分な関係の統一の中で確信されている。もっとも、通常は潜在的に、地平的に確信されているにすぎないのだが

.フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

付録2「幾何学の起源について」 (細谷恒夫/木田元 訳1974中央公論社

以上のように、フッサールの著書では、言語の持つ機能性や社会性についてはさまざまな論点が展開されていますが、言語の本質や起源となると、さほど触れられていないように思います(あくまでも筆者の感想ですが・・・)

当ブログの言語3階層論に当てはめてみると、フッサールの言語観は、下図のように思考・観念言語や日常・交信言語限られており、深層・象徴言語の次元にはほとんど触れられていないようです。

エポケという大胆な提案の割には、「数学的・記号学的理念の衣」を捨てて古代ギリシア普遍学の次元に留まっているだけです。両方とも思考・観念言語にすぎません。

せっかくエポケするのですから、もっと下層の日常・交信言語象徴・深層言語にまで辿りついたらどうなのでしょう?

そうすれば、ヨーロッパ諸学の次元を大きく超えて、人類全体の哲学の誕生が期待できたのではないでしょうか。

2021年7月11日日曜日

ヘーゲルの言語観は・・・

19世紀の言語論では、ソシュールに続いてもう一人、ドイツの哲学者、G,W.F.ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegel, 17701831)の所見に触れておきましょう。

ヘーゲルは、自然・歴史・精神の全てを変化・発展の推移とみなし、そのプロセスを絶対精神の弁証法的発展と理解する、哲学的な絶対的観念論を提唱しています。

彼の言語観を、先学諸賢の論考を参考にしつつ、おおまかに要約してみましょう。

ヘーゲルはまず、言葉とは「動物の叫び声の延長線上で人間に備ってもの」と述べ、先に述べたヘルダーと同じ視点に立ったうえで、その違いを次のように展開しています。

動物は自分の感覚を表出する際に、分節されない声、すなわち苦痛または喜びの叫び以上には進まない。

◆これに対し、人間分節された言語を創造している。

◆内面的感覚は分節された言語によって語(Wort)を獲得し、全体的規定性のなかで発現され、主観に対しては対象的になり、かつ同時に主観に対しては外面的になり、疎遠になる。

◆それゆえ、分節された言語は、人間がどのようにして自分の内面的感覚を外化するかを示す最高の様式なのである。

G.W.F.Hegel,Phanomenologie des Geistes (『精神現象学』長谷川宏訳:1998)

G.W.F.Hegel,Jenaer Realphilosophie

そのうえで、人間の言語創造力を次のような段階として論じています。長くなりますので、筆者の関心事を要旨として整理しておきます。

1段階・・・精神の闇からのイメージを引出して、イメージを産み出す

内面的感覚の自由意志によらない身体化は、人間と動物とに共通するものであるが、人間の場合は自由意志によって行われる身体化である。これこそが、人間の身体に、非常に特有な精神的刻印を与えている。

2段階・・・蒙昧な精神の闇から生まれたばかりのイメージに対し、秩序と支配を与える「構想力」を展開する。

この構想力によって、「イメージの世界」から「言語の世界」への決定的な第一歩が踏み出すとともに、①再生産的構想力(想起される、さまざまなイメージを統括すること)、②諸像を連結する活動性としての構想力(想起されたイメージを相互に関係づけ、イメージを普遍的な表象にまで高めること)、③象徴化する想像力から記号をつくる想像力へ移行(「象徴」次元では感性的な素材と音声等の関係は続いているが、「記号」次元では、表現している意味内容と音声や文字等の関係は無関係となっているので、未だ身体性に留まる「象徴」を超えて、より普遍的な「記号」次元へ向かうこと)

3段階・・・記号を創る想像力が、表象作用のとしての「記憶」への移行を促し、「精神」を形成していく。

命名する力としての言語は、精神の内面性を外在化し、精神的なものを無形の形を持った一つの存在として、人間の前に現前化させる。音声としての言語は時間の中で消失していくが、この消失を越えて残留するものこそ、心の内面が外面化されたもの、つまり「魂(Seele)の表現」としての「精神」に他ならない。それゆえ、言語とは、生きた「精神」の「定在(Dasein)」を可能にさせる「創造的な力」そのものである。

以上のように、ヘーゲルの言語観は、「自然の叫び声」に基盤を置きつつも、独自の構想力によって自然性や身体性を乗り越え、周りに広がる世界から自己を区分けし対象化することによって、「精神」の根源として位置づけるものです。

このようなヘーゲルの言語観を、当ブログの言語3階層論に当てはめてみると、下図のように、深層・象徴言語はもとより、日常・交信言語思考・観念言語にまで広く及んでいる、といえるでしょう。