2021年7月20日火曜日

フッサールの言語思想は・・・

19世紀のソシュールとヘーゲルに続いて、20世紀に入ります。

この世紀の言語観でとりあえず確認しておくべきは、オーストリアの哲学者、E.G.A.フッサールEdmund Gustav Albrecht Husserl18591938年)の見解でしょう。

周知のとおり、フッサールは「現象学」を提唱し、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティなどに多大の影響を与えた学者です。

代表作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』によると、古代ギリシアで創設された、理性による普遍学では、日常的に直感される「生活世界」(Lebenswelt)を基盤にして、真の学が成立していました。

ところが、16世紀以降はG.ガリレイらによって物理学の基礎用に数学が導入されたため、自然のままの生活世界は「数学的・記号学的理念の衣」によって被われてしまいました。

これこそが「ヨーロッパ諸学の危機」であり、危機を乗り越えるためには、「すべての客観的学問」を一旦エポケー(判断中止)して、本来の生活世界を取り戻すことが必要だ、を主張しました。

エポケとは、「まず世界があり、その世界のうちに私がいる」という一般的な常識を一旦棚上げすることです。それによって、元々の純粋意識の領域が得られますから、その場において初めてノエシスノエマ(意識作用―対象事象)の相関関係が浮かび上がり、この相関関係に基づいて構成的な現象学が可能となる、というのです。

このような論理体系の中で、彼は「言語」をどのように位置付けていたのでしょうか。浅学にして、明確な表現は見つけていませんが、言語とは精神の表出運動であり、意味を付与しようとする志向性意味を理解する充足性合力、として把握したようです。

最も関連性の高いと思われる論文「幾何学の起源について」の中から、主な文章を拾い出してみましょう。

●わたしと同様にすべての人間――そのように人間として、彼はわたしやすべての人によって理解されているのだが――が、その仲間をもち、つねに自分自身をもふくめで、人類一般をもち、自分がその中で暮らしているということを知っているのである。

普遍的な言語が属するのは、まさしくこうした人類の地平に、である。人類というものは、あらかじめ直接的および間接的な言語共同体として意識されている。

●人類の地平が、人間にとってつねにそうであるような開かれた無限な地平でありうるのは、明らかに、可能な伝達としての言語とその広大な効果をもつ記録によってのみなのである。人類の地平としては、また言語共同体としては、意識の上で成熟した正常な人間たち(そこからは異常者や幼児は除かれる)が、優先される。

●こうした意味では、すべての人間の〈われわれ〉という地平(Wir-Horizont)をなしている人類とは、彼らにとって、相互に正常な仕方で完全にわかり合えるように語ることができるということによって成り立つ共同体のことなのであり、そしてこの共同体において各人は、自己の人間的環境のうちに現存するすべてのものを、客観的に存在するものとして話題にすることができる。

●すべでのものは名前をもっているか、あるいはきわめて広い意味で命名可能、すなわち言語的に表現可能である。

●客観的世界とはもともと万人にとっての世界、つまり、「だれでも」が世界地平としてもっている世界のことである。世界の客観的存在は、その普遍的な言語をもった人間〔主観〕としての人間を前提にしている。

●言語は、言語の側からいえば、一つの機能であり、習熟された能力であるが、それは世界、つまり言語的にその存在や在り方(Sosein)に関した表現可能なものとしての対象の総体と相関的に結びついた機能・能力なのである。

●こうして、一方の人間としての人間、仲間、世界――われわれが語っており、語りうる人間の世界――と、他方の言語とは、不可分に織り合わされており、いつもすでにその不可分な関係の統一の中で確信されている。もっとも、通常は潜在的に、地平的に確信されているにすぎないのだが

.フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

付録2「幾何学の起源について」 (細谷恒夫/木田元 訳1974中央公論社

以上のように、フッサールの著書では、言語の持つ機能性や社会性についてはさまざまな論点が展開されていますが、言語の本質や起源となると、さほど触れられていないように思います(あくまでも筆者の感想ですが・・・)

当ブログの言語3階層論に当てはめてみると、フッサールの言語観は、下図のように思考・観念言語や日常・交信言語限られており、深層・象徴言語の次元にはほとんど触れられていないようです。

エポケという大胆な提案の割には、「数学的・記号学的理念の衣」を捨てて古代ギリシア普遍学の次元に留まっているだけです。両方とも思考・観念言語にすぎません。

せっかくエポケするのですから、もっと下層の日常・交信言語象徴・深層言語にまで辿りついたらどうなのでしょう?

そうすれば、ヨーロッパ諸学の次元を大きく超えて、人類全体の哲学の誕生が期待できたのではないでしょうか。

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