18世紀の西欧思想界では、前回紹介したカントやフンボルトの言語観とともに、言語の起源についての議論が流行していました。
端緒となったのはフランスの哲学者、コンディヤック(Étienne Bonnot de Condillac:1714~1780)の書いた『人間認識起源論』でした。
コンディヤックは記号を、➀偶然的記号(私たちの持つ観念の中のどれかと連合して、その観念を呼びもどす事象)、②自然的記号(喜び、恐怖、不快などの感情を表現するために自然が設定した叫び声)、③制度的記号(私たち自身が選択し、観念とは恣意的な関係しか持たない形象)の3つに分けたうえで、人間の言語は③であるが、それは動物の鳴き声と同様の「自然的記号」から派生するものだ、と論じました(“Essai sur l’origine des connaissances humaines”1947)。
この提起を受けて、フランスやドイツでは、言葉の起源に関する、新たな議論が巻き起こり、『言語起源論』と題する著作が相次いで上梓されました。
フランスの哲学者、ルソー(Jean-Jacques
Rousseau:1712~1778)は、その著『言語起源論』(1781)の中で、動物のさけび声の延長上に、人間が感情の表現として吐き出す、歌のような言葉こそ、人間の言語の起源だ、と主張しました。
関連する言説を抜き出しておきます。
●人間は欲求を表現するために言葉を発明したと言われているが,この意見は私には支持しがたいように思われる。 ●それならば言語の起源は,どこに発しているのか。精神的な欲求,つまり情念からである。 ●最初の言語は,単純で整然としたものであるよりさきに,歌うような,情熱的なものだったのである。 ●人間がことばを話す最初の動機となったのは情念だったので、人間の最初の表現は文彩だった。比喩的なことばづかいが最初に生まれ、本来の意味は最後に見いだされた。 ●事物は、人々がその真の姿でそれを見てから、初めて本当の名前で呼ばれた。人はまず詩でしか話さなかった。理論的に話すことが考えられたのはかなり後のことである。 ●情念によって提示された幻想のイメージは最初に示されるので、それに対応する言語も最初に発明された。 ●自然のものである声、音、抑揚、諧調は、協約によるものである分節が働く余地をあまり残さず、人は話すというよりは歌うようなものになるだろう。語根となる語はたいてい模倣的な音で、情念の抑揚か、感知可能な事物の効果であるだろう。擬音語がたえず感じられるだろう。 ●文字表記は言語を固定するはずのものと思われるが、まさに言語を変質させるものだ。文字表記は言語の語ではなくその精髄を変えてしまう。文字表記は表現を正確さに置き換えてしまう。人は話す時には感情を表し、書く時には観念を表すものだ。 『言語起源論 旋律と音楽的模倣について』(増田真訳:岩波文庫;2016) |
以上のように、ルソーの言語起源観では、言葉は「欲求」を表現するために発明されたのではなく、感情を表現すること、つまり「情念」こそがパロール(音声言語)の生まれる動機だった、と書かれています。
そのうえで、エクリチュール(文字言語)もまた、情念から自然に発声される詩や歌を文字で表そうとする試みがその根源である、と主張しています。
これに対して、ドイツの哲学者、ヘルダー(Johann Gottfried von Herder:1744~1803)は自著『言語起源論』(1772)の中で、言葉とは動物の叫び声の延長線上で人間に備わっているものではなく、あくまでも人間の学習によって得られるものだ、と主張しています。
感覚的知覚の捉えたさまざまな対象に、一つ一つ目印として言葉を当て,他の対象と明確に区別して、全体的に世界を捉えようとする行動、それこそが人間の言語の起源である、というものです。
●すでに動物として人間は言語を有している。すべての強い感情、なかでも最も強いものとされる肉体の苦痛の表現、また人間の魂から発するすべての烈しい情熟は、叫び声、音声、粗野な未分節の音になって直接に表出される。 ●すべての動物は、ものいわぬ魚にいたるまで、彼らの感情を音で響かせる。だからといってどのような動物も、最も完全に発達した動物といえども、人間の言語の本来のきざしをごくわずかでももっているわけではない。 ●子どもは動物と同じように、感情から発する響きを口に出す。しかし彼らが人間から習う言語は、全く別の言語ではないだろうか。 ●どんな動物であっても、たとえ最も完全な動物でさえも、人間の言語の本来の始まりを少しも持っていない。叫び声を好きなように形成し、洗練し、組織化するがよい。 しかし、この音声を意図的に用いる悟性がそれに付け加えられなければ、先の自然法則にしたがって人間の意欲的な言語がどのようになるか私にはわからない。子どもは動物のように感覚の音を発する。しかし、彼らが人間から学ぶ言語はまったく異なる言語ではないだろうか。 ●最初の、最も低い理性の使用でさえ、言語なしには起こりえなかった。もし言語がなければ、人間にとって理性はありえなかった。 そういうわけで、言語の発明は、人間にとって理性の使用と同じほど自然で、古く、根源的で、特質を示すものであった。 『言語起源論』(木村直司訳:大修館書店:1972) |
以上のように、 ヘルダーは、動物が発する感覚的な音声と、人間が学びとる言語を明確に区別する視点を主張しています。
両者を比べると、ルソーは動物にも共通する、感覚的な叫び声を言語の起源だと考え、ヘルダーは人間独自の学習能力こそ言語を生み出す源だ、というように、かなり対立した主張になっています。
やや飛躍するかもしれませんが、当ブログの生活世界構造論に当てはめると、ルソーは深層・象徴言語こそ言語の根源だと考え、ヘルダーは人間の潜在的な思考・観念能力こそ言語の起源だ、と主張していることになります。
どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しいのか、この議論は永遠に続くと思われます。
ともあれ、18世紀の西欧思想においても、言語起源論の前提として、言葉の階層が考えられていたのだ、といえるでしょう。
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