マズローの欲求段階説については、より基本的な次元で、幾つかの疑問が指摘できます。
第1は、私たちの生活願望を「Needs(欲求)」という一面でしかとらえていないことです。
仏教の唯識論から20世紀の現代思想まで、私たちの生活願望には、性格の異なる、いくつかの次元があることを指摘してきていますが、欲求段階説では一元的に扱われています。
生理的・感覚的な「欲動(仏plusion、英drive、独trieb)」と、日常生活的な「欲求(仏besoin、英want、独wunsch)」や文化的・記号的な「欲望(仏désir、英desire、独begierde)」は、同じ生活願望とはいうものの、質的な次元で大きな差があります。
第2に、仮に欲求段階説を認めるにしても、一方向な発展段階には無理があります。
私たちの生活願望は、日常的次元の充実を追求するだけでなく、遊戯や儀礼といった非日常的次元の比重を高めたり、他人とは異なる、自分独自の生活様式を求めることもあります。
あるいは、肌触りや食感といった感覚的次元から、癒しや信仰といった象徴的次元まで、極めて多元的に噴出しています。
こうした実状を一元的な段階説ではとてもとらえることは、まず不可能といえるでしょう。
第3に、最も根本的な欠点として、この理論は「生存的欲求が最初に存在する」という幻想にとらわれています。
フランスの思想家G.バタイユを継承して、同国の社会学者J.ボードリヤールが鋭く指摘しているように「《人類学的最低生活必要量》なるものは実在しない。どんな社会においても、過剰への根本的要求があり(神の部分、供犠の部分、贅沢な浪費、経済的利潤)、それが《最低必要量》なるものを残余として決定する。生きのびることの水準を否定的に決定するのは、この贅沢部分の控除であって、その逆ではない」のです(『記号の経済学的批判』)。
つまり、生存的欲求、つまり生理的欲求がその他の欲求に先行する、というのは一種の「観念的虚構」にすぎません。
実例をあげると、生活水準が低いはずの未開民族の間にも、すでに自己実現的な宗教が実在していますし、極限状態の生理的な限界下でも、他人のために自らの命を捧げて、自己の尊厳を全うする人格者もいるのです。
これらの事例からみると、生理的欲求を基礎にして他の欲求を積み上げること自体が無理だ、ということになるでしょう。
私たちの生活願望は決して段階的に進むものではありません。初めから生理も安全も、愛情も所属も、自我も自己実現も、全てを求めています。ただそれぞれを求める大きさが、生活水準によって伸び縮みするだけなのです。
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