この課題については、すでに15年ほど前、日本生活学会編『生活学事典』(TBSブリタニカ、1999)の中で、筆者は次のように述べています。
消費社会が進むにつれて、生産者の側でも、売れる商品を作るために、消費者の望む需要を的確に把握する必要が生じ、消費者行動の調査や市場調査を細かく行うようになる。
だが、さらに市場社会が成熟し、需要が飽和してくると、消費者を単なる買い手として把握しているだけでは不十分になる。消費者の本当の要望を知るためには、彼らが店頭に現れるときだけでなく、実際の生活の場でどのように使い、どのように満足し、どのように不満を持っているか、を知らなければ、十分な対応ができなくなったからである。
このため、生産者は、より総合的な需要者を意味する言葉として「生活者」を使うようになった。いわゆる「生活者マーティング」である。この立場では、消費者とは「商品を購入して消費する人」であり、また生活者とは「購入した生活財によっておのおのの生活をつくりあげている人」という区別になる。
一方、消費者の側でも、生産者が消費市場に提供する生活財の範囲内で、自らの生活を構成せざるをえなくなった。が、市場社会では、買い手の立場が売り手よりも弱くなることが多く、交渉、売買、故障などで、いわゆる「消費者問題」が多発してくる。そこで、これに対抗すべく、より主体的に消費者の立場を「生活者」として確認する動きが生まれてくる。すなわち、消費者とは「営利主体の客体として、交換価値を重視する、消費の担い手」であり、生活者とは「営利主義の主体として、使用価値を重視する、生産と消費を統一した生活の担い手」という定義である(大熊信行「消費者から生活者へ」)。
さらに進んで、消費者の多くは団結して「消費者運動」を組織し、生産者に対抗するようになった。こうした運動にかかわる人たちの間からは、消費者とは「市場社会の商品に依存する人」であり、生活者とは「消費や労働とともに、地域の社会や政治にも主体的、共同的にかかわる統合体」という区別も生まれてくる(天野正子『「生活者」とはだれか」』)。
また現代思想の立場からは、豊富な物を提供する消費社会が、実は流行やマスメディアなどによって生活を画一化する社会であることを見抜き、物の浪費とともに人間の浪費からも脱するために新たな人間像が提案されている。つまり、真の豊かさを実現するためには、物や人間の記号化と流行的画一化に抗って、各人が創意を発揮して個性的な生活をつくりあげていくということである。
こうした立場では、記号学のパロール(発話行為)優位論や現象学的社会学の多元的生活論を継承して、消費者とは「生産者の提供する価値や用途に従う人」であり、生活者とは「消費市場から購入した生活財を素材にして、より独創的に財の効用や用途を創り出す人」ということになる。
立場は異なるが、すべてに共通するのは、消費者とは市場社会の内にとどまる人であり、生活者とは市場社会を超えた人なのである。
[古田隆彦]
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