「交換価値」や「共効」を基盤として「市場経済社会」が成立し、急速に発展するとともに、それを説明する理論として、いわゆる「経済学」が誕生し、さまざまな形で発展してきました。
それにつれて、もともと人類に備わっていたはずの「使用価値」や「私効」を重んじる「自給自足生活」は次第に影を薄め、理論的な追及もまた忘れられるようになりました。
経済学の世界では、社会や国家単位の経済構造を究明するマクロ経済学とともに、最小の経済単位である消費者(家計)、生産者(企業)、および両者が経済的な交換を行う場(市場)を分析対象として、ミクロ経済学(Microeconomics)が成立しています。
ミクロ経済学では、家計や消費行動など、個人的な経済生活を対象にして、詳細な分析を行ってはいますが、あくまでも前提になっているのは「交換価値(共効)」であり、ミクロとはいっても、有用性では「個効」の次元までです。
一方、家事や家政を対象とする家政学では、衣食住や育児・教育など、家庭での日常的な生活について、ノウハウや価値観に関する技術の研究が行われてきました。
ここでは、家庭経済学や生活経済学という形で、家庭という主体がおもに貨幣を通じて社会と結びつきつつ、構成員それぞれの生活の内容を調整しているという構造について、利点や欠点などを多面的に研究しています。
だが、この分野でも、家政学原論の英訳名が「Principles Home Economics」とよばれているように、大前提となっているのは市場社会と貨幣による交換構造であり、その外縁に広がる、自律的・自給的な生活行動については補充的な位置づけです。有用性の次元でいえば、研究の対象は「個効」に留まっているのです。
そこで、ミクロ経済学や家政学を超えようとして、新たにわが国で生まれた生活学では、市場社会の交換経済を超えた「自己生産」や経済的生活を超える全体的な生活主体、つまり「生活者」や「生活人」をベースとした理論を追及してきました。
有用性の次元でいえば、ここで初めて「私効」を核とした生活分析の理論的な究明が始まったといえるでしょう。
しかし、その追及はさほどはかどってはいません。「生活者」を提唱した大熊信行も、「生活人」を主張した今和次郎も、すでに述べたように、さまざまな限界を示しています。大熊信行の提唱した「生活者」像は、「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」というものですが、その生活願望を「必要」次元に限るという点で、やはり経済学の次元に留まっています。
また今和次郎の提唱した「生活人」像もまた「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行などを厳しく排除している点で、やや狭隘な視点にとらわれています。
とすれば、生活学の今後に期待されているのは、「私効」次元から出発した生活行動論や生活構造論などではないでしょうか。
「自立自助」「自給自足」といった立場から、市場社会やミクロ経済学などを軽々と手玉にとって、柔軟な生き方、強靭な暮らし方を展開する学問だと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿