21年前の日本経済新聞(1994年4月29日)の経済教室に掲載された拙論「消費、〝効用〟創造型に移行」について、大略を再掲しておきましょう。
マーケティングや商品学の分野でも、次の時代をリードする新しい消費理論への期待が高まっている。
振り返れば、1980年代の高度消費社会の構造を解明し、付加価値中心のマーケティングをリードした消費理論は、記号学や構造主義という、現代思想の最先端であった。「消費されるのはモノではなく、記号である」というJ・ボードリヤールの主張のように、それは色、デザイン、ネーミング、ブランドといった“記号”消費を解明する最適の方法だったからである。
その意味で、80年代は身近な消費行動と高邁な哲学が連動した、まことに幸せな時代であったといえる。
ところが、90年代に入ると、バブルが崩壊し、それに伴って消費者の間に低価格志向や実質志向が強まり、こうした理論はほとんど説明力を失った。代わって復権してきたのが、旧来の数理科学や行動科学などの科学的実証主義である。
それはまさしく、付加価値優先から基本価値復権へ移行した消費傾向と軌を一にした、消費理論そのものの定番回帰であった。
しかし、科学的実証主義は、消費行動の過去の分析や現状の意味づけには役立つものの、急速に転換しつつある今後の展望となると、いささか力不足だ。なぜなら、すでに消費市場の最前線では、生活者主導型の商品、マルチメディアを投入できる需要分野などの模索が始めている。
厳しさを増す地球環境問題、先進国間の競争激化や途上国の追い上げなどに耐えられる商品作りが、厳しく問われ始めているからだ。この期待に創造的にこたえるためには、哲学なき科学主義や仮説なき実証主義を越える新たな理論が必要になってくる。
では、その理論をどこに求めたらいいのか。実をいえば、それはすでに80年代の消費理論の中に示唆されていた。
記号学や構造主義の消費理論とは、一方では確かにデザインやブランド消費の深層を解明するものであったが、他方ではそれらを超えて、人間の生活や消費の本質に迫るものだった。例えば、F・ソシュールの記号学の本質は、記号に支配される人間の描写ではなく、それを操作し、生成していく個人の力を見つけだすことにあった。
レヴィ・ストロースの構造主義は、構造への「服従」ではなく、構造の「変換」に力点が置かれていた。さらにはJ・クリステヴァの「記号生成論」や丸山圭三郎の「欲動論」なども、記号化社会の分析というより脱記号化への展望を強力に主張するものだった。
こうした思想を統合する立場から、ポスト構造主義の主導者、G・デリダは「差異化」の延長上に「差延化」を展望している。差延化とは「差異とはあらかじめ作られたものではなく、時間とともに作られていく」という考え方に基づく。これを商品のレベルでいえば、「差異」があらかじめ決定された売買時の「価値」であるのに対し、「差延」とは使用している間に作られていく「効用」ということだろう。
このように、現代思想はいち早く、記号化社会や差異化社会のかなたに、来るべき脱記号化社会や差延化社会を予想していた。
そこで、この視点からこれまでの消費社会を振り返ってみると、これからの展望が表に示したように開けてくる。
まず1960~70年代は、供給側が商品を作れば必ず売れるという生産者主導社会であり、消費者は生理的な「欲求」に基づいて商品に飛びつく時代であった。従って、マーケティングの核心は商品の基本機能を「差別化」することにあった。
80年代になると、商品の過剰供給が進む中で、消費者は一通りの欲求を満たした。今度は文化的・情報的な「欲望」に基づいて商品を購買する消費者主導社会に進んだ。そこで、マーケティングのポンイトは、色、デザイン、ネーミング、ブランドなど付加価値の「差異化」に代わった。
しかし、好況と深刻な不況を経験した後の消費社会は、その経験を生かして、生活者自らが「効用」の創造者となって生活を構成していく生活者主導社会へ移行していく。このため、マーケティングの方法も、時間とともに効用を生み出していく「差延化」に代わる。
なお、ここでいう「生活者」とは、次のような特性を持つ人のことである。
- 市場の提供する商品の価値をそのまま受け入れる消費者ではなく、商品を素材として購入し、自ら再編集して独自の効用をつくり出すユーザーである。言い換えれば、生活は、企業の差し出す社会的な商品を材料にして、自ら個人的な道具を作り替える人である。
- 生理的次元の「欲求」でも、文化的次元の「欲望」でもない、より根源的な生命の動き、つまり「欲動」に基づいてモノの「効用」を求める人である。
- 購入した商品を「消費」するのではなく、それを「常用」する人である。つまり、商品の購入とは、「常用」という時間的関係に入ることを意味している。
それゆえ、このような社会では、商品とは万人に共通の価値から、1人のユーザーにとっての効用“素”に変わる。また流通市場とは価値を売る場所から、柔軟な効用“素”を提案する場所に変わる。
さらに流通市場は、単なる商品の売り切りの場から、生活の使い切りまでを対象にした、長期的な需給の場に転換していくことが予想できる。
これこそ、究極の生活者の立場に立つ商品であり、究極の生活財市場のイメージなのである。
今後の消費市場が以上のような方向へ向かうとすれば、これからのマーケティングや商品開発も、当然大きく変わらねばならない。そのポイントは、生活者の「創造効用」や「愛用効用」などを的確に把握することだと思われる。具体的にはいくつかの先行事例の示す、次のようなマーケティング対応が必要になる。
創造効用に関しては、まず2~3割程度の素材を提供する「手作り」対応がある。例えば手作りビール、ミニチュアの家を作る人形の家、デコラティブ(装飾的)・ペインティングやデコパージュなどのニュー手芸、場所を変えて開くフリーディスコ、個人手配海外旅行などがあげられる。
次に7~8割程度の素材を提供する「参加」対応がある。このタイプとしては雑誌の読者記者制度、組み替えスーツ、キット家具製作クラブ、自由設計プレハブ住宅、ログハウスなどが考えられる。
あるいは、“自主編集権”を満足させる「編集」対応。各社の衣料を組み合わせて独自のスタイルをつくり出すいわば消費者編集ファッション、各社の部品を編集して独自の車をつくり出す改造車や改造バイクなどが考えられる。
最後に商品の用途を自由に作り出せるような「変換」対応で、ポケットベルの用途の多様化、冷蔵庫の総合保管庫化などがこの仲間になる。
こうしてみると、差延化対応とは、一面では従来の付加価値を超えた“超”付加価値の創造を意味しているが、他面では単なる「価格革命」や「価値革命」を超えた「効用革命」をめざすものといえよう。
現在の時点で読み返すと、やや雑駁な感じもあり、修正すべき点も幾つかありますが、基本的な論旨については、このまま通用するのではないか、と思います。
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