「価値」と「効用」の関係は、言語学を応用すると、もっと明確に説明できます。
例えば現代言語学の権威、F.ド.ソシュールは、言葉の「価値」について、言葉の「意義」と対比させることで、新たな解釈を与えています(『一般言語学講義』)。
ソシュールによると、1つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=意味されるもの)とが、一体的に結びついたものです。
この時、ある音声が特定のイメージと結びついて表示するものが言葉の「語義(signification)」であり、他の言葉との相対的、対立的な関係から決定される立場が言葉の「価値(Value)」となります。
例えば、「inu」という音声が「四足の小動物・犬」のイメージと結びついて示すものが言葉の「語義」であり、「 inu/四足の小動物・犬」という言葉と「neko/四足の小動物・猫」という言葉が、それぞれ別種の小動物を示すのが言葉の「価値」である、ということです。
要するに、言葉の「語義」とは、シニフィアンとシニフィエが一対一の「垂直の矢」で結びついている関係、言葉の「価値」とは、一つの言葉が他の言葉と比較・対立する「水平の矢」としての関係、ということです。
こうした「語義」と「価値」の関係は、モノの「効用」と「価値」の関係にも拡大できます。「効用」とは「人間の役に立つかどうか」という「意義」の一つだ、と考えると、「語義=効用」とみなせるからです。
さまざまなモノは、人間の役に立つかどうかで有用無用と判断されていますが、特定の「有用」性が「語義」となってモノに結びつくと、それがモノの「効用」になります。
パンというモノの「食用になる」という有用性がパンの効用であり、毛糸というモノの「温かさ」という有用性が毛糸の効用です。
これらのケースでも、「役立つ」というモノの特性の上に「有用」性という意義が覆いかぶさるように一体化していますから、「効用」とはまさに「垂直の矢」ということができます。
他方、モノの「価値」(「有用性」の上下)は、そのモノだけで決まるのではなく、「無用」というコトや、他のモノの「有用性」との“比較”や“対比”によってはじめて定まります。
パンは石よりも「食用になる」度合いが高いから「価値」があり、毛糸は木の皮より「温かい」比率が高いから「価値」があるのです。
いずれも有用と無用という「水平の矢」で比較されたうえで、「無用ではないもの」や「より有用なもの」が「価値」となります。
とすれば、「効用」とは一つのモノの意義がそのモノの有用性と一体化している状態、「価値」とは一つのモノの意義が他のモノの有用性と比較して決まる状態、ということができます。
いいかえれば、モノの「効用」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結びついた関係であり、モノの「価値」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係である、ということです。
このように、言語学の見解を取り入れると、「価値」と「効用」の違いが明確になり、それぞれの定義がより鮮明になります。
両者はともに共同体的な尊重性ですが、「効用」がモノの有用性と一体化した尊重性であるのに対し、「価値」は他の有用性と比較、対立して定まる尊重性ということです。
とすれば、差汎化とは、以上のような意味での「効用」や「価値」を創りだしていく戦略ということができます。
現代日本に適用すれば、従来の「効用」や「価値」と比較・対立できるような、新たな尊重性を創りだすことでしょう。
従来の社会が是認してきた共同体的な尊重性とは、国際的には食料・資源制約や地球環境悪化には目を瞑りつつ、国内的には人口増加、経済成長、生活向上などをひたすら是認する「成長・拡大型社会」像です。
これを相対化するには、国際的には食料・資源制約や環境問題などへ積極的に対応しつつ、国内的には少産・長寿化や家族縮小化など、いわば必然的に進んでいる「人口減少社会」へ柔軟に対応する「成熟・濃縮型社会」像でしょう。
これからの差汎化戦略の基本は多分、「成熟・濃縮型」というキーワードに集約されていくことになるでしょう。
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