2018年11月9日金曜日

「オイコノミクス」から「アトモノミクス」へ!

「経済学や家政学を超えよう」と主張してきたところ、「経済学と家政学はもともと同じもので、改めて生活学などを提唱するまでもない」というご批判をいただきました。

確かに「エコノミクス(Economics:経済学)の語源は、ギリシア語の「オイコノミコス(Οἰκονομικός)に由来しています。

ギリシア語では、「オイコス(οἶκος, oikos:家)と「ノモス(νόμος, nomos:法)の合成語が「オイコノミア(Oικονομία)であり、「家政=家庭の管理・運営」を意味しています。

「オイコノミア」の複数形の形容詞が「オイコノミカ(Οἰκονομικά)」、単数形の形容詞が「オイコノミコス(Οἰκονομικός)であり、ともに「家政論」や「家政学」を意味しているようです。

古代ギリシャの歴史家、クセノフォン(Xenophon)がBC430~BC354年頃に著した『オイコノミコス』の中で、「家政とは何か」というソクラテスの問いに対し、クリトブロスなる人物が「良い家政家であるということは、自分自身の家財をきちんと管理できるということだ」と答えています(越前谷悦子訳、リーベル出版)。

これを敷衍すれば、「オイコノミコス」とは「自分の家産や家計をいかに管理するか」という意味であり、日本語に訳せば、まさに「家政」という言葉に相当します。

古代ギリシアでは、こうした「家政」の集合として、ポリス(都市国家)の経済を把握していたようです。つまり、家政の延長上に国家の財政や金融の政策がある、という趣旨です。

こうした思想は、西欧においても、A.スミス(Adam Smith)のを『国富論』(1776年)を経て、A.マーシャル(Alfred Marshall)の主著『経済学原理』(Principles of Economics, 1890年)により経済学」(Economics)という理論名称で定着しました。

以上の経緯を振り返ると、「オイコノミコス」が「エコノミクス」の語源となったことはほぼ間違いありません。

とすれば、経済学の原点は家政学であり、改めて異なる立場を提唱する必要はないようにも思えます。

しかしながら、次の視点に立つと、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。

筆者が必要性を感じるのは、次の3つです。
①オイコノミコスの「自分自身の家財をきちんと管理できる」という守備的な範囲を超えて、生活民自身の生み出す、独創、自給、自足といった、より積極的な生活思考や生活行動を把握する理論が求められます。

②家政学から発展したにもかかわらず、現代の経済学は、個人や家族よりも国家や企業の経済活動を究明することに重点を移しているため、個人や私人の立場に立った、より強力な生活理論が求められます。

③「共効」を前提とする経済学、「個効」に中心を置く家政学に対し、純個人的・私人的な「私効」の立場から市場や財政などに立ち向かう理論が必要になっています。

とすれば、現代の高度市場社会に対応していくには、「オイコノミコス」の原点に戻りつつも、個人、私人といった「生活民」一人ひとりのための生活理論を改めて研究することが必要なのではないでしょうか。

一言でいえば、

アトモノミクス(Άτομο,átomo:私人・原子 + νόμος,nomos:法)
の構築です。

2018年10月30日火曜日

「消費者」論を超え、「生活民」を活かす学問を求めて!

「交換価値」や「共効」を基盤として「市場経済社会」が成立し、急速に発展するとともに、それを説明する理論として、いわゆる「経済学」が誕生し、さまざまな形で発展してきました。

それにつれて、もともと人類に備わっていたはずの「使用価値」や「私効」を重んじる「自給自足生活」は次第に影を薄め、理論的な追及もまた忘れられるようになりました。

経済学の世界では、社会や国家単位の経済構造を究明するマクロ経済学とともに、最小の経済単位である消費者(家計)、生産者(企業)、および両者が経済的な交換を行う場(市場)を分析対象として、ミクロ経済学(Microeconomics)が成立しています。

ミクロ経済学では、家計や消費行動など、個人的な経済生活を対象にして、詳細な分析を行ってはいますが、あくまでも前提になっているのは「交換価値(共効)」であり、ミクロとはいっても、有用性では「個効」の次元までです。

一方、家事や家政を対象とする家政学では、衣食住や育児・教育など、家庭での日常的な生活について、ノウハウや価値観に関する技術の研究が行われてきました。

ここでは、家庭経済学生活経済学という形で、家庭という主体がおもに貨幣を通じて社会と結びつきつつ、構成員それぞれの生活の内容を調整しているという構造について、利点や欠点などを多面的に研究しています。

だが、この分野でも、家政学原論の英訳名が「Principles Home Economics」とよばれているように、大前提となっているのは市場社会と貨幣による交換構造であり、その外縁に広がる、自律的・自給的な生活行動については補充的な位置づけです。有用性の次元でいえば、研究の対象は個効」に留まっているのです

そこで、ミクロ経済学や家政学を超えようとして、新たにわが国で生まれた生活学では、市場社会の交換経済を超えた「自己生産」や経済的生活を超える全体的な生活主体、つまり「生活者」や「生活人」をベースとした理論を追及してきました。

有用性の次元でいえば、ここで初めて「私効」を核とした生活分析の理論的な究明が始まったといえるでしょう。

しかし、その追及はさほどはかどってはいません。「生活者」を提唱した大熊信行も、「生活人」を主張した今和次郎も、すでに述べたように、さまざまな限界を示しています。
大熊信行の提唱した「生活者」像は、「営利主義の対象から脱却し、自己生産を基本にする」というものですが、その生活願望を「必要」次元に限るという点で、やはり経済学の次元に留まっています。

また
今和次郎の提唱した「生活人」像もまた「労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像」を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭や都市生活が取り入れる流行などを厳しく排除している点で、やや狭隘な視点にとらわれています。

とすれば、生活学の今後に期待されているのは、「私効」次元から出発した生活行動論や生活構造論などではないでしょうか。

自立自助」「自給自足」といった立場から、市場社会やミクロ経済学などを軽々と手玉にとって、柔軟な生き方、強靭な暮らし方を展開する学問だと思います。

2018年10月21日日曜日

「価値創造」より「私効復活」へ!

高度市場社会においては、供給者である企業の側が、綿密なマーケットリサーチによって、顧客の需要にきめ細かく応えようとしたとしても、本格的であればあるほど、生活民の真の願望に辿り着くことはほとんど困難でしょう。

さまざまな企業がどれだけ「顧客価値」や「顧客満足」などと唱えたところで、本質的な満足にはほど遠い、ということです。

もし「十分に満足した」との回答があったとしても、それは需要者である生活民の側が、「消費者」の立場に甘んじて、とりあえず妥協した、ということにすぎないのです。

このように書くと、マーケティング関連の学者や業界などから、カスタマイゼーション(customization:顧客個別対応)という、新たな手法があるじゃないか、という反論が必ず出てきます。「個効」を顧客別に修正して、一人ひとりの「私効」を実現する、というマーケティング手法です。

だが、これについても、B.スティグレール(Bernard Stiegler)痛烈に批判しています(『象徴の貧困』)。


「カスタマイゼーション、一対一の個別マーケティング、市場のハイパーセグメント化などとしての個性化(individualization)とは、特異化(singularisation)をデジタル記号化によって特殊化(particulalisation)に変化させることであり、その記号化のコントロールとしての効果には限りなく強力なもの」となる。

「特異なもの(singulier)を特殊なもの(particulier)に変えてしまうカスタマイゼーションとは、前個体的な環境へのアクセスモードを規格統一して画一化すること」にすぎない。                   


昨今、急速に注目を集めているIT技術を駆使したカスタマイゼーション。それですら、需要者の個性を「特殊」という類型にふり分ける、一つの手法にすぎない、というのです。

価値創造」や「顧客価値」という言葉に、どことなくつきまとう虚しさ、うさん臭さの要因の一つは、こうした虚構性にあります。



供給者が新しい価値をどれほど創り出したとしても、顧客側が「個体性の衰退」や「アイデンティティーの喪失」から抜け出すのはかなり困難、といわざるをえません。

では、どうすればいいのか。スティグレールによると、「中毒的消費」や「消費依存症」を解毒するためには、新しい「生の様式」や新たな「生き方」が求められますから「象徴制度」の再構築、つまり「教育の計画」や「政治の計画」の再建、さらには「文明の大言説」の復興が必要だ、と主張しています。

この主張にはそれなりに頷けます。だが、あまりに壮大かつ長期的な改革案ですから、現実の市場社会の方向を直ちに変えるのは難しいのではないでしょうか。

とすれば、現実的な方法は、現状の市場社会を前提にしつつも、需要者と供給者の関係、生活財と商品の関わり方を、より深化させていく方向だと思います。

つまり、生活民の側から、より暮らしに身近なところから始めて、段階的に少しずつ市場社会の構造を転換していくことです。いわば「柔軟型市場社会(flexible market society)」ともいうべき方向ではないでしょうか。

具体的にはどうすべきなのか。一つの方向は、過剰な「共効」支配を抑えて、衰退した「私効」を復活させることです「共効」優先から「私効」重視への転換を図る。あるいは個効」と「私効」のバランスを回復する、という方向です。

生活民としては、マスメディアや消費市場から押し付けられる流行やライフスタイルを一旦棚上げにしたうえで、自分自身の中身や暮らしを見つめ直し、そこから改めて「何が欲しいのか」、生活願望を再構築していくことです。

過剰な消費社会に慣れた身には、簡単なことではないのかもしれません。


けれども、その可能性を探ることから、「消費者」という低位を脱却し、「生活民」の優位を復活させる可能性が生まれ、さらには市場社会そのものの再構築という、大きな方向が見えてくるのではないでしょうか。

2018年10月9日火曜日

マーケティングは何を破壊したのか?

ながながとモノへの評価観を見直してきたのは、「マーケティング」という社会的装置の問題点を根本から見直してみたいからです。

例えば、現代フランスを代表する思想家、B.スティグレール(Bernard Stiegler)は「マーケティングは、家族構造や文化構造といった象徴制度をなしくずしに破壊してきた」と告発しています(『世界』2010年3月号)。・・・【差異化手法を批判する:2016年2月11日】

さらに彼は、マーケティングの横行によって、「個々が得意な物やその特異性に感覚的に愛着を持つということができなくなった」とし、「象徴の生産に参加できなくなって、個体性』が衰退していく」とも述べています(『象徴の貧困』)。

スティグレールの批判を、これまで述べてきた「共効―個効―私効」の文脈に載せてみれば、社会的な「共効」が肥大化して、個人的な「私効」を駆逐した、あるいは供給側の差し出す「共効」に圧倒されて、需要側の「私効」創造力が衰退した、ということになるでしょう。

このようなスティグレールの告発は、単なるマーケティング批判を超えて、現代市場社会、あるいは後期資本主義社会本質的な欠陥を指弾している、ともいえるでしょう。

現代の市場社会とは、供給者と需要者の両方がほとんどの全ての生活財を、市場という社会的な場を通じて交換するという構造を持っているからです。

供給者である企業は、市場の存在を前提にして、商品の有用性を作り出し、かつ供給しています。


その有用性とは、市場を支える多くの需要者が共通して求める、社会的、共同主観的なものですから、いうまでもなく「共効」です。

つまり、商品の「共効」とは、多くの需要者が共通して商品に求める有用性、いわば有用性の〝最大共通素〟とでもいうべきものです。

需要者である個人は、通常はそれらの「共効」に従って商品を購入し、そのとおりに使用して「個効」を享受しています(ヰティリゼ1)。

だが、そうでないケースもあります。個性や独創性を重んじる個人の場合は、純個人的、主観的な「私効」を目的に、既存の商品を購入したうえで、自分なりの手法で使用します(ヰティリゼ2)。

後者の場合、一つの商品の有用性は、市場での最大共通素を前提にしながらも、その中から個人的、主観的に選ばれています。

この時、個性的な需要者が商品に求めるものは「私効」ですが、それは有用性の“最小共通素〟となる場合が多いでしょう。なぜなら、彼らは自分自身の求める有用性の〝最小要素〟を求めて商品を購入し、それらを独自に組み合わせて使いこなしていくからです。

こうした需要が増えてくると、供給側でもそれに対応して、できるだけ多くの人に共通する〝最小要素〟を商品におりこむようになります。

となると、一つの商品の持つ「共効」と「私効」には微妙なズレが出てきます。



企業の側では、できるだけ多くの顧客の求めに共通する有用性を抽出して、商品の「共効」を作り出そうとします。

これに対し、純個性的な個人の側ではできるだけ自分だけの有用性を求めて、商品の「私効」を購入しようとします。



両者は当然重なっていますが、本質的にいえば、最大共通素と最小共通素がぴったり一致するのはごくなことでしょう。

そこで、企業は少数需要者の「共効」の一部を切り捨てることで大量生産を可能にし、また個人は自分なりの「私効」をある程度犠牲にすことで、己の消費行動を実現していきます。

ところが、現代のような高度市場社会では、先に述べたように、ほとんど全ての生活財が生産者の手で生産され、市場を通じて供給されていますから、需要側に立った生活民の一人ひとりは生産側の「共効」に従わざるをえません

つまり、現代社会では、市場性が私用性に優越し、最大共通素が最小共通素に優越し「共効」が「私効」を圧倒しているのです。そこに現代市場社会の、基本的な問題点があるといえるでしょう。

2018年9月29日土曜日

「限界効用」の限界!

3つの効用を、新古典派経済学の「効用」観と比較してみると、「共効」は一定の社会集団が共通に認めた有用性ですから「全部効用」に、また「個効」は個人が共効に基づいて認め、かつ実際に感じる有用性ですから、概ね「限界効用」に、それぞれ相当するでしょう。

しかし、「私効」は個人が社会的な「共効」とはまったく別個に、純私的かつ独創的に認める有用性ですから、新たに「生成効用」、あるいは「独創効用」とでも名づけるべきものです。

とすれば、同じ個人的な「効用」ではあっても、「個効(限界効用)」と「私効(生成効用)」の間には大きな差異が生まれてきます。

この件については、すでに【
限界効用理論を超えて!】( 2015年10月22日)の中で論じていますが、改めて整理しておきましょう。

個効」は新古典派経済学の「限界効用」にほぼ相当していますから、「全部効用(共効)」という有用性に従いつつ、利用の数が増えることによって個々のモノの有用性が次第に減少していく、という特性を持っています。

それゆえ、効用の量的、時間的な変化においては「全部効用」との差を強調していますが、中味の差、つまり質的な差異についてはまったく配慮していません。

一方、「私効」の方は、個々のモノの中に、使用者が共効とはまったく別の有用性を見つけ出し、自ら生成しつつ愛着を増していくという、能動的な特性を持っています。

これは「全部効用」や「限界効用」とは異なる、質的な差異を意味していますから、必ずしも時間的な逓減傾向を示すものではなく私人の評価や気分によって増えたり減ったりするものです。

その意味で「私効」は「限界効用」という共同主観を超えて、個人主観的な「生成効用」の次元を表出することになります。

いいかえれば、共同主観的な経済学の「効用」観を超えて、新たに個人主観的な生活学の「効用」観を提起しているともいえるでしょう。


大和言葉でいえば、「とも(共)きき(効)」「おの(己)きき」を超えて、「われ(我)きき」が生まれるということです。

もしさまざまな供給者が、このような「私効(生成効用)」を生活民に提供しようとするのであれば、従来の「限界効用(個効)」を前提にした経済学やマーケティングの諸理論を大きく超えて、まったく新たな展開が期待できるでしょう

2018年9月21日金曜日

「効用」とは何か・・・3つの定義

「価値」の定義には3つある、と述べてきましたが、共同主観と個人主観という視点から見ると、「効用」にも3つの定義がある、と言えそうです。

①人間集団が一つのモノを評価する場合、そのもの特有の「有用性=効用=ねうち」という視点と、他のモノと比較するという「相当性=価値=あたひ」という視点の、2つを分けたうえで、両者をクロスさせている。

特定の社会集団は、さまざまなモノの「相当性=効用」を、他のモノの「相当性=効用」と比較して、一定の評価順位である「価値」を定めている。

個人が一つのモノを評価する場合、社会的な「効用」に従って使う場合は「効用1(有用性1)に、独創的な使用を編み出す場合は「効用2(有用性2)になる。

このため、「効用=ねうち」という概念はさらに3つ分かれます。

共効Social Utility・・・ラング=社会集団が共同主観として認めた有用性であり、「共同効用」、略して「共効」とよぶことができる。

個効Individual Utility・・・パロール1=個人使用において、個人が社会的効用を受け入れた「効用1(有用性1)」であり、「個人効用」、略して「個効」とよぶことができる。

私効Private Utility・・・パロール2=私的使用において、個人が独自に創り出した私的な「効用2(有用性2)」であり、「私的効用」、略して「私効」とよぶことができる。

この件については、すでに[生活民は「価値」よりも「私効」を重視!](2016年11月22日)などで詳しく述べています。ご参照ください。


以上のように、効用」という概念は、「共効」「個効」「私効」の3つに分割できる思います。




具体的な事例を挙げておきましょう。

食酢の効用・・・「共効」は基本的な調味料であり、多くの使用者はこれを「個効」として、料理の味付け使っています。しかし、一部の人たちは、幾分水で薄めたり、大さじ1~2杯をそのまま洗濯機へ投入し、洗濯ものをふっくらしあげる柔軟剤としても使っています。これは私人が新たに見出した食酢の新たな「ねうち」であり、まさに「私効」とよぶべき有用性でしょう。

冷蔵庫の効用・・・電気冷蔵庫は、食べ物や飲料を保管できるという「共効」を持ち、それを利用する使用者は実際に冷やすという「個効」を享受しています。しかし、ワンルームマンションなどを実態観測すると、冷蔵庫の中には薬品化粧品はもとより、銀行通帳現金まで、食べ物以外のさまざまなモノが入っています。冷凍庫に生ごみ入っているケースもあります。回収日が決まっているため、ゴミ箱では悪臭が立ちますから、冷凍したうえでまとめて捨てる、という生活の知恵です。狭い部屋の中で合理的な収納を望む単身者にとっては、「総合保管庫」や「冷凍ゴミ置き場」などという、大胆な「私効」にかわっているといえるでしょう。

このように「価値」の3定義を見直していくと、「効用」にもまた3つの定義が浮かんできます。

2018年9月10日月曜日

「価値」とは何か・・・3つの定義

これまで述べてきたことを、とりあえず整理してみましょう。

モノやコトの「価値」とは何であるのか、簡単にいえば「人間がモノやコトに対して抱く評価」ですが、その内容については幾つかの説があり、代表的なものは次の3つに集約されます。



①価値とは、有用性と相当性が絡み合った観念、つまり「有用性(使用価値)×相当性(交換価値)」である。

最も常識的な定義であり、古代ギリシャ以来の西欧的「価値」観、あるいはそれを継承・発展させたA.スミスの視点は、このあたりにあったように思われます。

日本人の場合、古くは「ねうち=有用性」と「あたい=相当性」を分けていたようですが、江戸時代に流入してきた西欧的な「価値」観に影響されて、それ以降は両者の複合した観念を受け入れたものと思われます。

②価値とは「相当性(交換価値)を意味する。

モノやコトへの評価を、有用性(使用価値=効用)と相当性(交換価値)に分けた上で、価値とは「相当性(交換価値)」だけだ、という立場です。

スミスを継承したD.リカードK.マルクス客観価値説がこの立場ですが、とりわけマルクスは、「価値」の本質は相当性にあり、有用性その素材にすぎない、と考えています。

言語学者のF.ド.ソシュールも、言葉の「価値」を言葉の「語義」と峻別して、相当性こそ「価値」だ、と述べています。但し、マルクスが「価値」の本質を交換尺度となる労働量の蓄積とみているのに対し、ソシュールは単語やモノの、単なる対立的な関係であり、社会的集団が認めた区分と考えています。

③価値とは「有用性(使用価値=効用)を意味する。

価値の本質は、人間がモノやコトに対して抱く評価内容(効用)そのもの、という立場であり、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガーL.ワルラスらが独自に唱えた主観価値の主張です。

ジェヴォンズによれば、「価値」という言葉は曖昧であるから、モノへの評価の中から購買力=交換比率、つまり相当性を排除し、そのうえで、使用者の立場から見た、モノの有用性のみ抜き出して、改めて「効用」という名称を与えています。

この立場を引き継いだ主観価値説では、「効用」とは個人がモノに感じる、主観的な評価である、というのが定説です。



 
3つの主張は「価値」という言葉の曖昧性をどのように取り扱うか、という立場の違いを示しています。

しかし、この言葉はもともと、有用性と相当性の複合した観念を意味しており、それがゆえに現代社会でもこの両義性が一般用語として生き残っています。

とすれば、やはり原点に立ち戻って、「有用性×相当性」と理解するのが適切なのかもしれません。

つまり、「新たな価値を持った商品」という場合も、その「価値」とは「新たな有用性を持つこと」とともに、「その有用性が従来の商品や他の商品より優れている」という要件を満たしていることが必要だ、ということです。

当たり前のようですが、実はここに重要な条件が潜んでいます。つまり、新しい「価値」が生れるためには、新規の有用性に加えて、比較の対象になる、一群のモノ集団が必要だ、ということです。

そして、もう一つ、新しいモノが従来のモノや他のモノより優れていると評価できるためには、一人ひとりの個人的評価を超えた、一定の社会集団の評価が必要だ、ということです。

一人の人間が「これは有用性が高い」と評価しても、多くの人々が認めなければ、「優れている」という相当性は定着しません。

つまり、有用性も相当性も、一定の社会集団によって認められることが必要なのです。それは、社会という人間集団が共通して抱いている、特定のものの見方、社会学が「共同主観」とよび、通俗的には「共同幻想」といわれているものです。

主観価値説では、個人がモノに感じる主観的な評価を「効用」とよんで、共同主観や客観を重視していません。しかし、個人が感じる「効用」自体もまた、ほとんどの場合は、一定の社会集団が認めた「有用性=効用」を受け入れているケースが多いのですから、完全な個人的主観に基づいている、というのはやや無理があるでしょう

そう考える時、「価値」が生れるには、モノ集団と人間集団という、二重の「集団」が前提になっている、といえるでしょう。