3つの効用を、新古典派経済学の「効用」観と比較してみると、「共効」は一定の社会集団が共通に認めた有用性ですから「全部効用」に、また「個効」は個人が共効に基づいて認め、かつ実際に感じる有用性ですから、概ね「限界効用」に、それぞれ相当するでしょう。
しかし、「私効」は個人が社会的な「共効」とはまったく別個に、純私的かつ独創的に認める有用性ですから、新たに「生成効用」、あるいは「独創効用」とでも名づけるべきものです。
とすれば、同じ個人的な「効用」ではあっても、「個効(限界効用)」と「私効(生成効用)」の間には大きな差異が生まれてきます。
この件については、すでに【限界効用理論を超えて!】( 2015年10月22日)の中で論じていますが、改めて整理しておきましょう。
「個効」は新古典派経済学の「限界効用」にほぼ相当していますから、「全部効用(共効)」という有用性に従いつつ、利用の数が増えることによって、個々のモノの有用性が次第に減少していく、という特性を持っています。
それゆえ、効用の量的、時間的な変化においては「全部効用」との差を強調していますが、中味の差、つまり質的な差異についてはまったく配慮していません。
一方、「私効」の方は、個々のモノの中に、使用者が共効とはまったく別の有用性を見つけ出し、自ら生成しつつ愛着を増していくという、能動的な特性を持っています。
これは「全部効用」や「限界効用」とは異なる、質的な差異を意味していますから、必ずしも時間的な逓減傾向を示すものではなく、私人の評価や気分によって増えたり減ったりするものです。
その意味で「私効」は「限界効用」という共同主観を超えて、個人主観的な「生成効用」の次元を表出することになります。
いいかえれば、共同主観的な経済学の「効用」観を超えて、新たに個人主観的な生活学の「効用」観を提起しているともいえるでしょう。
大和言葉でいえば、「とも(共)きき(効)」「おの(己)きき」を超えて、「われ(我)きき」が生まれるということです。
もしさまざまな供給者が、このような「私効(生成効用)」を生活民に提供しようとするのであれば、従来の「限界効用(個効)」を前提にした経済学やマーケティングの諸理論を大きく超えて、まったく新たな展開が期待できるでしょう。
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