これまで述べてきたことを、とりあえず整理してみましょう。
モノやコトの「価値」とは何であるのか、簡単にいえば「人間がモノやコトに対して抱く評価」ですが、その内容については幾つかの説があり、代表的なものは次の3つに集約されます。
①価値とは、有用性と相当性が絡み合った観念、つまり「有用性(使用価値)×相当性(交換価値)」である。
最も常識的な定義であり、古代ギリシャ以来の西欧的「価値」観、あるいはそれを継承・発展させたA.スミスの視点は、このあたりにあったように思われます。
日本人の場合、古くは「ねうち=有用性」と「あたい=相当性」を分けていたようですが、江戸時代に流入してきた西欧的な「価値」観に影響されて、それ以降は両者の複合した観念を受け入れたものと思われます。
②価値とは「相当性(交換価値)」を意味する。
モノやコトへの評価を、有用性(使用価値=効用)と相当性(交換価値)に分けた上で、価値とは「相当性(交換価値)」だけだ、という立場です。
スミスを継承したD.リカードやK.マルクスの客観価値説がこの立場ですが、とりわけマルクスは、「価値」の本質は相当性にあり、有用性その素材にすぎない、と考えています。
言語学者のF.ド.ソシュールも、言葉の「価値」を言葉の「語義」と峻別して、相当性こそ「価値」だ、と述べています。但し、マルクスが「価値」の本質を交換尺度となる労働量の蓄積とみているのに対し、ソシュールは単語やモノの、単なる対立的な関係であり、社会的集団が認めた区分と考えています。
③価値とは「有用性(使用価値=効用)」を意味する。
価値の本質は、人間がモノやコトに対して抱く評価内容(効用)そのもの、という立場であり、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガー、L.ワルラスらが独自に唱えた主観価値の主張です。
ジェヴォンズによれば、「価値」という言葉は曖昧であるから、モノへの評価の中から購買力=交換比率、つまり相当性を排除し、そのうえで、使用者の立場から見た、モノの有用性のみを抜き出して、改めて「効用」という名称を与えています。
この立場を引き継いだ主観価値説では、「効用」とは個人がモノに感じる、主観的な評価である、というのが定説です。
3つの主張は「価値」という言葉の曖昧性をどのように取り扱うか、という立場の違いを示しています。
しかし、この言葉はもともと、有用性と相当性の複合した観念を意味しており、それがゆえに現代社会でもこの両義性が一般用語として生き残っています。
とすれば、やはり原点に立ち戻って、「有用性×相当性」と理解するのが適切なのかもしれません。
つまり、「新たな価値を持った商品」という場合も、その「価値」とは「新たな有用性を持つこと」とともに、「その有用性が従来の商品や他の商品より優れている」という要件を満たしていることが必要だ、ということです。
当たり前のようですが、実はここに重要な条件が潜んでいます。つまり、新しい「価値」が生れるためには、新規の有用性に加えて、比較の対象になる、一群のモノ集団が必要だ、ということです。
そして、もう一つ、新しいモノが従来のモノや他のモノより優れていると評価できるためには、一人ひとりの個人的評価を超えた、一定の社会集団の評価が必要だ、ということです。
一人の人間が「これは有用性が高い」と評価しても、多くの人々が認めなければ、「優れている」という相当性は定着しません。
つまり、有用性も相当性も、一定の社会集団によって認められることが必要なのです。それは、社会という人間集団が共通して抱いている、特定のものの見方、社会学が「共同主観」とよび、通俗的には「共同幻想」といわれているものです。
主観価値説では、個人がモノに感じる主観的な評価を「効用」とよんで、共同主観や客観を重視していません。しかし、個人が感じる「効用」自体もまた、ほとんどの場合は、一定の社会集団が認めた「有用性=効用」を受け入れているケースが多いのですから、完全な個人的主観に基づいている、というのはやや無理があるでしょう。
そう考える時、「価値」が生れるには、モノ集団と人間集団という、二重の「集団」が前提になっている、といえるでしょう。
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