2016年9月30日金曜日

「生活民」という主体が動く!

USマーケティングを行う主体は、企業や店舗などの供給者ではなく、自らの暮らしを構築していこうとする庶民や市民などの需要者です。

こうしたユーザーの人間像については、これまでにも「生活人」「生活者」「プロシューマー」など、幾つかのコンセプトが提案されています。



このブログでも、すでに紹介してきましたが、要点は次の通りです。


◆生活人:今和次郎は「生活人」を提唱!(2015年2月20日)・・・今は「生活学への空想」(1951年)や「『生活人』の意識」(1952年)の中で、日常生活の主体となる「生活人」とは、労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像である、と指摘しています。

◆生活者:
大熊信行の提起した「生活者」とは(2015年2月19日)・・・大熊は「消費者から生活者へ」(1963年)の中で「“消費者”という一つの言葉は経済学に返納して、日常生活では私たちは生活者である、という新しい自覚に立ちたい」と宣言し、さらに『生命再生産の理論』(1974年)では、「生活者」とは、生活の基本が「自己生産であることを自覚し」て、「時間と金銭における必要と自由を設定し、つねに識別し、あくまで必要を守りながら」、大衆消費社会の「営利主義的戦略の対象としての、消費者であることをみずから最低限にとどめよう」とする人々だ、と述べています。

◆生産消費者(プロシューマー):アルビン・トフラーは『第三の波』(1980年)の中で、生産者 (producer) と消費者 (consumer) とを組み合わせた造語として「生産消費者(prosumer)」を提起し、市場を通じた交換に依る経済活動だけでなく、市場を通さずに、自分自身や家族や地域社会で使用するため、あるいは自己の満足を得るために、無償の隠れた経済活動で多くの富を生み出す人だと述べています。

これらのコンセプトについては一長一短があります。

◆「生活人」については、美学や哲学などの次元にまで幅を広げた、より総合的な人間像を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭のような慣習や都市生活が取り入れる流行など退け、「いきいきした生活というものは、社会的な力である慣習と流行へのたゆまざる戦いから生まれる」と述べています。この定義によると、伝統や慣習、あるいはファッションやトレンドを追い求める生活行動を排除することになり、そこに限界があります。

◆「生活者」についても、消費者という経済学的範疇を大きく超えながらも、なお「必要」次元という、社会科学的次元に留まっています。だが、私たち一人一人の需要者は、「必要・不必要」という次元を超えて、例えば気晴らしや見せびらかしのためにも、モノやサービスを求めるものであり、それを否定しては、人間の生活行動をトータルに把握することはできません。

◆「生産消費者(プロシューマー)については、市場社会が成立する以前に、自給自足社会があったという、歴史的な事実を忘れた発想であり、新しいコンセプトというには限界があります。

以上のように、既存のユーザー像については、幾つかの問題点を指摘できます。

とりわけ、「生活者」という言葉については、上記のような問題点を孕んでいるにも関わらず、経済学者からマーケティング業界に至るまでが消費者」に代わる代用語のように使用されており、ユーザーサイドからの市場接近行動という、新たな目標へ向かうには限界があります。

そこで、このブログでは「生活体」という言葉を使ってきましたが、ここにきて「USマーケティング」という、新たな次元に達しましたので、今後は総合的なユーザー像については「生活民」という言葉を用いたいと思います。

生活民とはいかなるものなのか、次回から考えていきます。
 

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