記号社会を前回のように位置づけると、消費社会の対象的な定義、つまり「記号を消費する社会」とは、【消費社会のポジションを考える!:2019年5月19日】の図4に示したように、横方向に伸びる記号社会に対して、縦方向に広がる消費社会がクロスする領域ということになります。
記号社会と消費社会の重なる、この部分こそ最も濃密な「純消費社会」といえるでしょう。
そうはいうものの、記号、情報、利子など、非物質的なネウチが過剰に膨らんだ消費社会は、先に述べたように、需要者に本来備わったシンボル化能力を退化させたり、独自のアイデンティティーを混乱させるなど、さまざまな病状を引き起こしています。
いいかえれば、「記号が溢れる社会」とは、言葉やサインだけに過度に依存する社会です。
コト分け能力の一部分、つまり眼や耳といった情報受動器官や、言語処理能力といった大脳表層部だけを異常に肥大させる社会ともいえます。要するに、トータルな生活願望のバランスを失った、いわゆる「統合失調症」的な社会なのです。
こうした病状に対応していくには、【差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】でも述べたように、表層的な記号の支配を脱して、もう一度、機能や品質はもとより、感覚や象徴の世界を回復させることが必要です。
それは多分、感覚的なネウチや象徴的な交換など、本能・体感や伝統・習俗に基づくネウチを再生させて、記号や機能とのバランスを創り出していくことを意味しています。
いいかえれば、モノやコトのもっと深層にある「モト」を復活させること、と言ってもいいでしょう。
「モト」とは何でしょうか。
私たちの意識構造の縦軸は【身分け・言分けが6つの世界を作る!:2015年3月3日】で述べたように、感覚界、認知界、言語界の3次元で構成されています。
このうち、感覚界は表層から下層に向けて、象徴・神話界、無意識・未言語界、感覚・体感界に分かれていますが、この次元に潜んでいるのが「モト」です。
「モノ」と「コト」の下にさらにその下にあるのが「モト」なのです。
そして、この「モト」は「元(モト)」「下(モト)」「本(モト)」の3層で構成されています(詳しい解説は改めて行います)。
①象徴・神話次元・・・元型
②無意識・未言語次元・・・下意識
③感覚・体感次元・・・本能
このように「モト」とは、表層だけの世界に執着してきた、私たちの意識をもう一度原点に復帰させることを意味しています。
とすれば、ポスト消費社会の条件とは、消費社会の枠組みに準拠しつつも、狭隘な記号志向を抜け出し、機能志向や象徴志向とのバランスを回復する方向へ、改めて歩き出すこととなるでしょう。
それは多分、上図に示したような、記号=欲望、機能=欲求、象徴=欲動の、三つの願望のバランスがほどよくとれた「統合社会(Integrated society)」とでもいうべき方向だと思います。
消費社会からポスト消費社会へ・・・クリアしなければならない、3つの条件の第2は「統合社会への転換」です。
すでに【消費社会のポジションを考える!:2019年5月19日】の図3で示したように、私たちの生きている社会をあえて分ければ、欲望、欲求、欲動に対応して、記号社会、機能社会、象徴社会の、3つに分割できます。
この中に現代社会の構造を当てはめてみると、当初は機能社会を中心に発展してきましたが、近年になると、記号社会の比重が次第に高まっていることが指摘できます。
近代産業社会においても、商品やサービスの最も基本的なネウチは、新たな機能、性能、品質など、物質的、実質的なものでしたから、産業革命後は、図3の中段、機能社会が急速に拡大しました。
その後も、産業社会は新たな機能、性能、品質を次々に生み出すことで発展してきましたから、さまざまなエネルギー源から情報技術まで、機能社会は今もなお現代社会の基本構造となっています。
しかし、20世紀後半、主要先進国が後期産業社会に入るにつれて、上段の記号社会が急速に比重を増してきました。
上記の背景には次のような理由があります。
第1は、供給側の生産体制が整って供給過剰が進むようなった結果、機能や品質だけでは需要側への訴求力が落ちてきたため、カラー、デザイン、ブランド、ストーリーのような、記号的なネウチを加える対応が加速したからです。
第2は、いわゆる情報化社会が進むにつれて、情報や記号などへの需給が広がってきたことです。
この動向は世界の人口動向とも密接に関わっていますから、筆者の【JINGEN〈人減〉ブログ】もぜひご参照下さい。
第3は、商品やサービスの直接的な売買や取引に加えて、利子や利潤など資本の取引から得られるネウチを重視する傾向が強まったことでしょう。
このため、昨今ではいずれの先進国でも、優れた機能商品だけでなく、優れた記号を交換するようになっています。
つまり、主な先進国の社会は、機能社会の上方に、もう一つ重なった記号社会へと重心を移しています。
「物の有用性よりも、物にまつわる記号の消費が中心となった社会」とは、まさしくこうした社会です。
これを乗り越えて、もう一つまろやかな社会へ向かっていくには、どうすればいいのでしょうか。
消費主導社会を改革しようとすれば、まずは「生成社会」の成立可能性を確かめなければなりません。
消費(主導)社会が拡大するにつれて、経済や市場という視点からのみ見た「生産―消費」という、狭い構図に対する批判が高まり、当ブログで何度も述べてきたように、生産者や消費者を超える視点として「生活人」や「生活者」という概念が、改めて提起されてきました。
こうした視点を社会構造に拡大するとすれば、「消費者」が中心となる社会は、むしろ「生活人」や「生活者」が中心となった社会、つまり下図に示した「生活(主導)社会」へ進むべきだ、ということになります。
「生活(主導)社会」とは、消費市場において、生産者から提供される商品やサービスだけで、自らの生活を構成するのではなく、あくまでもそれらを素材にして、主導的・自律的に暮らしを構築していく生活人や生活者が中心となった社会を意味しています。
いいかえれば、消費行動の対象を、従来の共効創造から個効重視へ、さらには個効重視から私効尊重へ、と移行させていく社会です。
共効を生み出す生産主導から、個効を享受する消費主導へ、さらには私効を重視する生活主導へと転換していくことだ、といってもいいでしょう。
ところが、この生活人や生活者という概念には、先に述べたように、かなりストイックでやや狭隘な人格が想定されています。
そこで、こうした限界を超えるため、当ブログでは「生活人」や「生活者」の概念を縦軸方向に広げて、新たに「生活民」という概念を提起しました。
生活民とは、主に「欲求」を基盤にした生活人や生活者という人格を含むとともに、流行やファッションなどを求める「欲望」や、伝統や習俗に親しむ「欲動」もまた希求する、より広義の人格を意味しています。
つまり、与えられる「価値」や「効用」を「享受」する主体だけでなく、自ら「ねうち」を「生成」する生活主体を示しています。
そうなると、生活人や生活者を中心とする「生活(主導)社会」もまた、下図に示したような、生活民が主体となる「生成(主導)社会(generative society)」へ進むべきだ、ということになるでしょう。
消費(主導)社会の消費者が商品の「共効」を享受するのに対し、生活(主導)社会の生活者は、商品の「共効」に準じた「個効」を使用しますが、さらに生成(主導)社会になると、自分なりの暮らしを求める生活民が、商品の共効や個効をあえて解体・再構築し、自分なりの「私効」を創りだしていくからです。
このように、生産社会から消費社会へと進展してきた近代産業社会は、今後、生活社会から生成社会へと移行していくことが必要になるでしょう。