2019年4月28日日曜日

消費社会の何が問題なのか?

費社会を積極的に形成してきたアメリカと、それに追随してきたヨーロッパ・・・という事情があるためか、消費社会を問題視する意見は、そのほとんどがアメリカ以外の国々から発信されています。

例えばフランスからはB.スティグレール(Bernard Stiegler)が、またイギリスからはJ.ヤング(Jock Young)などが、それぞれ厳しい批判を展開しています。
 
 
何が問題なのか、社会的な問題点を改めて抽出してみると、次のような事項が指摘されてきます。

B.スティグレールが批判するのは「欲望の瓦解」です。差異化手法を批判する!:2016年2月11日】ですでに述べていますので、要点を上げておきます。


1970年代以降の消費社会は、テレビ、携帯電話、電子手帳、コンピューター、ホームシアターなどによって、ハイパーインダストリアル時代の人工的、擬似的な「器官学的地平」を作りあげてきました。

こうした環境は「象徴の貧困」を引き起こしています。


彼のいう「象徴」とは「知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方」を意味していますが、それが「貧困」になるというのは象徴の生産に参加できなく」なって「個体性」が衰退していくことを意味しています。

その結果、個々人が本能的に持っていたはずの生活願望を衰弱させ、「中毒的消費」や「消費依存症」に向かわせている、というのです。

これこそ、彼が「象徴の貧困」と名付けて指弾する、消費社会の問題点です。

J.ヤングはさらに拡大した視点から、「排除型社会」の拡大を告発しています。基本的な視点は【差異=排除」を指摘するJ・ヤング:2016年2月23日】で述べています。


消費社会は、市場社会や個人主義と絡み合って、近代後期社会(late modernity)を形成した結果、「排除型社会」の一翼を担っている、という指摘です。

1970年以降、新たに生まれた消費社会は、フォーディズム時代の無味乾燥な大量消費やレジャーから、ポストフォーディズム時代の多様な選択肢や個人主義の文化のもとで、刹那的な満足や快楽、自己実現を重視するものへと移行してきました。

この変化によって、後期近代社会は「多様性を消費する社会」、つまり「差異を商品として仕立て直し、街角のスーパーマーケットや書店で売り飛ばす社会」に変わってしまいました。

こうした「多様な選択肢や個人主義の文化」のもとでは、刹那的な満足や快楽、自己実現が重視されるあまり、その内部のあらゆる箇所において「排除のメカニズム」を創り出しています。

それゆえ、消費社会もまた「人間を吐き出す』奇妙な機械」の一翼を担っている、というのです。



スティグレールの批判は、どちらかといえば消費社会の対象的な側面に向けられていますが、ヤングの指摘は、社会と個人の関係という、主導的な側面に比重があるように思えます。

とすれば、消費社会の問題点を考察する場合にも、対象的視点と主導的視点の両方からのアプローチが必要になるでしょう。

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