当ブログで展開してきた生活学から見ると、「ねうち」の方が「あたひ」よりもずっと大事だ、というのが基本的な立場です。
例えば「生活者」を提唱した大熊信行は、その人間像を「(生活の基本が)自己生産であることを自覚して」、「営利主義的戦略の対象としての、消費者であることをみずから最低限にとどめよう」とする人々、と定義しています。
「自己生産」で生まれる有用性とは「ねうち」であり、「営利主義的戦略」の基本は「あたひ」ということになります。
また「生活人」を提唱した今和次郎も、生活人とは「これまでのような没個人的な倫理のうつろなお題目に幻惑されることなく、外回りの倫理でかっこうだけをつけさせようとあせることなく、日常生活を通じての自己生活の倫理」を高めていく人格、と述べています。
「自己生活の倫理」とは「ねうち」を意味していますし、「外回りの倫理」とは「あたひ」重視を示している、といえるでしょう。
そこで、「生活民」を提唱する当ブログでは、生活民とは「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility)」を求める主体である、と明確に述べてきました。
「私効」とはまさに「ねうち」であり、「価値」とは「あたひ」に相当しますから、生活民とは「あたひ」よりも「ねうち」を求める主体ということになります。
しかし、現在の日本では「ねうち」と「あたひ」はほとんど混合され、「価値」という言葉で通用しています。
そればかりか、「価値創造」とか「顧客価値」というように、プラス用語としても重視されています。
どうしてこのようになったのか、日本と世界の「有用性」史観を振り返ってみたいと思います。
そればかりか、「価値創造」とか「顧客価値」というように、プラス用語としても重視されています。
どうしてこのようになったのか、日本と世界の「有用性」史観を振り返ってみたいと思います。
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