ワケワケセオリーを発想した、理論的な基盤を説明します。
「ワケ」とは「分け」のカナ表現ですが、何を意味するのでしょうか?
「分け」とは、人類の周りをとりまく世界を、何らかの枠組みによって認識する行動です。
このセオリーでは、「分け」行動を「身分け・識分け・言分け・網分け」の4つの行動にワケて、それぞれの特性を考えています。
4つの行動が生まれてきた原点には、次のような思想的背景があります。
➀身分け
この言葉は、哲学者・市川浩の「身分け」論から借用しました。 「身分け」は「身によって世界が分節化されると同時に、世界によって身自身が分節化されるという両義的・共起的な事態を意味します。 〈身分け〉は意識レヴェルの分節化を意味するのではなく、反射的な反応のように意識されない身による世界の分節化のレヴェルをも含み、われわれは前意識的なレヴェルでも、身で分けた世界の分節的風景というものを生きています(市川浩『〈身〉の構造』)。 この論理を借用したうえで、「身分け」とは、身体によって把握された世界、五感という感覚器によって捉えられた、身体内外の世界を意味することにします。 |
➁識分け
この言葉は、言語学者・井筒俊彦の「言語アラヤ識論」や仏教の唯識論などを参考に、筆者が創りました。 「言語アラヤ識」という特殊な用語によって、私は、ソシュール以来の言語学が、「言語(国語、ラング)」と呼び慣わしている言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する。もしこの考え方が正しいとすれば、我々が表層意識面で――つまり知覚的に――外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ(井筒俊彦『意識と本質』)。 この論理を応用して、感覚把握と言語把握の間に、もう一つ「意識」次元の把握がある、と考えました。 |
➂言分け
この言葉は、言語学者・丸山圭三郎の「言分け」論から借用しました。 人間だけがこのような本能の図式(身分け構造)に加えて、もう一つのゲシュタルト(全体的構造)を過剰物としてもってしまった時から人間となったのではあるまいか。これが私の仮説用語である第二次分節の結果生ずる〈言分け構造〉であり、その網の目は「シンボル化能力とその活動」という広い意味でのコトバによるゲシュタルトにほかならない(『文化のフェティシズム』)。 丸山理論に従うと、言分け(ことわけ)とは、「シンボル化能力とその活動」、つまり広い意味でのコトバを操る能力ということになります。 これによって、外部世界は本能という図式に加え、コトバやシンボルによって把握した、もう一つ別の外界像を結ぶことになります。 |
➃網分け
この言葉は、ヨーロッパの哲学者、R.デカルトやG.M.ライブニッツらの普遍言語論に従い、筆者が創り出しました。 人間の思考が複雑化している知的活動の中で、何が簡単な思考であるかを正しく説明し、その説明が万人に受け入れられるとするなら、私はあえて、非常に簡単に学び、話し、書くことのできる普遍言語を望むだろう。そのような言語の最大の利点は、間違った使用などほとんどなく、明確に問題を提起し、人間の判断を助けることだ。(R.Descartes:Carta de Descartes a Mersenne, 20 Noviembre 1629) この言語(普遍言語)が真の哲学に依存するとしても、その哲学の完成に依存するのではない。すなわち、哲学が完全なものでなくとも、この言語は確立されるのであり、人間の学問が進歩するにつれて、この言語もまた進歩するのである。(G.W.Leibniz:La Logigue de Leibniz d’aprés des documents inédits.1901) 普遍言語が目指している思考用言語とは、日常言語を超えた集約的言語です。このような言語を創り出すには、現象把握に知的な網をかけなければなりません。これこそ「網分け」といえるでしょう。 網分けとは、「言分け」による「分節」で生み出された言葉や記号に対し、さらに特定の意図による「網」をかけて、抽象化された言葉や記号を創り出すことなのです【「ことしり」から「ことわり」へ!】 |
以上のように、ワケワケセオリーの基本である「4ワケ」という発想は、東西諸賢のさまざまな理論に基づき、統合的に構築したものです。

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