2021年8月20日金曜日

ユングの「元型」論、井筒の「種子」論・・・どこが違うのか?

言葉には3つの次元がある。思考・観念言語、日常・交信言、深層・象徴言語の3階層である、という立場から、さまざまな思想家の見解を、古代から現代までざっと振り返ってきました。

前回とりあげたユングの見解は、音声記号である「言語」よりもイメージ記号である「元型」を重視している、と解釈できます。

深層意識の中に現れる、さまざまな現象を人間が捉える方法には、ラングの前にシンボルがある、ということです。

とすれば、今回のテーマの初めの方で紹介した井筒俊彦の言説と深く重なってきます。両方とも、深層心理の働きを深く考えているからです。

ユングの主張する「元型=シンボル」と井筒のいう「種子=言語アラヤ識」は、同じものなのでしょうか。それとも、どのように異なっているのでしょうか。井筒の見解をもう一度、振り返っておきましょう。

およそ外的事物をこれこれのものとして認識し意識することが、根源的にコトバ(内的言語)の意味分節作用に基づくものであることを私はさきに説いた。そして、そのような内的言語の意味「種子(ビージャ)」の場所を、「言語アラヤ識」という名で深層意識に定位した。

「言語アラヤ識」という特殊な用語によって、私は、ソシュール以来の言語学が、「言語(国語、ラング)」と呼び慣わしている言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する

もしこの考え方が正しいとすれば、我々が表層意識面で――つまり知覚的に――外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ。

なぜなら、何らかの刺激を受けて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだす時、必ずそれは一つ、あるいは一聯の、イマージュを喚起するものだからである。

井筒俊彦『意識と本質』1982

これを読むと、井筒の主張する「種子」とは、ユングの唱える「元型」を喚起するのだ、とも読み取れます。

私たちが無意識というカオスの中から、例えば「老賢者」というシンボルを拾い上げる時、まずは「老父」という種子が心の中で湧き上がり、それが他のイメージと老賢者を区別するのだ、といえるからです。

その意味では、ユングの「夢分け」は、井筒の「種分け」によって初めて成立するのです。

ユングの主張する「元型」は、ペルソナ(persona影(shadowアニマ(animaアニムス(animus自己(self太母(Great mother老賢者(Wise old man)などユニークなネーミング、つまり言語が張り付けられており、単なるイメージやシンボルで終わっていません。

そのこと自体が、「元型」とは単なるイメージではなく、「言語アラヤ識」によって意味づけられた存在であることを示しているのです。

フロイトやユングの心理学では、夢や幻想の中に現れるイメージを認識行為の基盤に置いているようですが、それらを自覚させるのは、人間固有の言語能力だということです。

以上のような視点に立つと、人間の識知行為が「身分け」次元から「言分け」次元へと進む間に、「夢分け」から「種分け」へと進む次元が入り込んでいる、ともいえるでしょう。

当ブログで検討している「深層・象徴言語」階層には、こうした次元も当然含まれているのです。

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