フロイトの言語観を眺めてきましたので、ユングの見解も確かめておきたくなりました。
スイスの心理学者・精神分析学者、C,G.ユング(Carl Gustav Jung:1875~1961年)は、周知のとおり、一時はフロイトの後継者と目されたものの、ほどなく訣別し、「集合的無意識(Collective unconscious)」や「元型(archetype、)」といった独自の概念によって、心の深層を究明した学者です。
「集合的無意識」とは、個人の無意識のさらに下にある深層で、同じ種族や民族あるいは人類全体に共通して伝えられている無意識のことです。
また「元型」とは、その集合的無意識の中で、神話・伝説・夢などの形をとって、時代や地域を超えて繰り返し現れるイメージやシンボルを意味します。
とすれば、言語観においても、象徴・深層言語について、独自の見解を展開しているのかと期待しましたが、20年ぶりに代表作を渉猟してみたところ、ほとんど触れられていませんでした。その中で、ようやく探し出した一部を掲げておきましょう。
われわれは究極的にはどこから意味をとってくるのであろうか。われわれが意味を与えるときのさまざまな形式は昔から引きつがれてきたカテゴリーであるが、昔といっても霧にかすんでよく分からないほど違い昔のことである。 意味付与は一定の言語の型を使ってなされるが、この型はさらに原始心像から生まれる。意味がどこから来るのかという質問をどこで発しても、われわれは必ず言語やモチーフの歴史へ入りこんで行き、その歴史はつねにまっすぐに未開人の不思議の世界へと通じている。 イデーという言葉を例にとってみよう。この言葉はプラトンの《エイドス》概念を起源としている。もろもろの永遠のイデーとは、超越的な永遠の形式として《天を越えた所に》保存されているさまざまな原イメージである。視霊者の眼はこれらを《夢の像や幻影》の形で、すなわち夢や啓示的な幻視に現われるイメージの形で見た。 C.G. ユング 『元型論』林道義訳:1999年 |
このようなユング理論では、どうやら「言語による環境把握」の前に、「心理的イメージによる環境把握」を重視しているように思われます。当ブログの流れでいえば、「身分け」と「言分け」の間に「夢分け」があるのだ、ということになるでしょう。
「夢分け」によって現れる、言語以前の意味付与を表すイメージ・・・それを彼は「元型」と名づけています。
三つの元型、影、アニマ、老賢者は、直接経験されるばあいには人格化して現われる。(中略。それらが出現する)プロセスが進んでいくうちに、さまざまな元型が行為する人格として空想の中に現われてくるのである。 プロセス自体は別種の元型、すなわち変容の元型によって表現される。これは人格ではなく、むしろ典型的な状況、場所、手段、方法等々であって、これらはそのときどきの変容の仕方を象徴している。人格化される元型と同様に、この元型も真正なシンボルであって、これを《記号》や比喩と見たのでは十分に理解することができないという意味で、真のシンボルである。 無意識の《根本的原理》は、その関連内容が豊富すぎるため、認識することはできても、筆舌には尽くしがたい。知的な判断は当然にもつねにそれらを一義的に把握しようとするが、そのために本質的なものを見逃してしまう。というのは、その根本的原理の唯一の本性といえるものを確定しようとしても、はっきり言えることといえば、それが多義的であり、豊富な関連性をもつために全体を見渡すことができないということだからである。 このために一義的な定式化は不可能となる。しかもそれらは原理的に逆説的であって、たとえば霊は錬金術師たちによって《老人でありながら若者でもあるもの》と考えられていた。 ものごとを決定する力はこの無意識から来るのであって、この力によって一人一人の人間の誰をとっても、彼らが受けついでいるもの[伝統など]にかかわりなく、体験やイメージ形成が似ている、いや同じでさえあるということが保証されているのである。このことの最大の証拠は世界中に同じような神話のモチーフが存在していることであり、このモチーフを私は原イメージの性質をもつという意味で元型と名づけた。 同上 |
以上のように見てくると、ユングの言語観は、前回紹介したフロイトの所論(無意識と夢の関係の中に言葉の起源や発展過程を求める)をさらに徹底し、言語以前のイメージをより重視しているようです。
当ブログの言語3階層説に敢えて当てはめれば、象徴・深層言語の胎芽ともいうべき次元ともいえるでしょう。
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