第3の軸は、言葉自体のもう一つの特性が作りだす真実・虚構の軸です。
第1の軸(感覚・言語軸)と、第2の軸(個人・社会軸)によって、生活構造の縦横が浮かび上がってきますが、言葉にはもう一つ、真実と虚構を示す機能があります。
言葉というものは、「虚実をともに表現する」といわれているとおり、真実を現すこともありますが、真っ赤な嘘を示すこともあります。一連の言葉を聞いて、それがすべて本当だと理解するケースもあれば、すべてが嘘だと判断するケースもしばしば経験することです。
つまり、言葉と実態,コトバとモノの間には「真実である」という結びつきが必ずしも保証されているわけではありません。そこで、この不安定さを克服するため、私たちは予め、言葉が真実を保証する場と、言葉が虚構であることを示す場を用意して、それぞれの中で言葉を使い分けています。
象徴人類学などが提起する「メタ・メッセージ(meta-message)論」は、言葉の持つ、こうした特異な機能を理論的に究明するものです。
メタ・メッセージとは、一つひとつの言葉がさまざまなモノやイメージを示す「基本的なメッセージ」を超えて、幾つかの言葉がまとまって一定の約束事を示す「超越的なメッセージ」を意味しています(青木保『儀礼の象徴性』)。
イスラエルの文化人類学者D.ハンデルマン(Don Handelman、1939~)は、この理論を応用して、言葉の示すことを全く疑わないですべて真実とみなす場を「儀礼空間」、逆に言葉の示すことはすべて虚構とみなす場を「遊び空間」、これら2つの空間の狭間にあって真偽が曖昧なままの場を「日常空間」といように、私たちの生きている言語空間を3つに分けることを提案しています(Play and ritual: complementary frames of metacommunication.In, It's a Funny Thing, London: Pergamon, 1977)
つまり、私たちの言語空間は、真実⇔日常⇔虚構、あるいは儀礼⇔日常⇔遊戯という、3つの空間に分かれている。このうち、儀礼や儀式の空間では、その中で使われている言葉がすべて真実とみなされ、逆に遊戯や競技の空間では、使われている言葉がすべて虚構と理解される。そして両者の間にある日常空間では、使われている言葉が虚実双方を示している、というのです。
メタ・メッセージ論が示しているのは、言葉と虚実の関係です。言葉とは真実を示すこともあれば、虚構を示すこともある。そういうものである以上、私たちの暮らしの中では、一方では言葉の示すものを最大限に尊重しようという態度が、他方では言葉の示すものへ最大限に戯れようという態度が、ともに生まれてきます。
こうした態度を生活行動一般に広げていくと、一方では言葉によって自ら目標を定め、それに向かって自らの行動を制御していく行動として、学習、修練、訓練などが生まれ、他方では言葉の作りだした現実をあくまでも虚構だとみなして、敢えてその中で遊ぶ遊戯や、遊興、競技やゲームなども発生してきます。前者では、目標に外れないように努力しなければなりませんから、緊張や勤勉が求められ、また後者では、外れることが容認されますから、弛緩や怠惰が浮上してきます。
この対比は当然、経済的な行動にも当てはまります。掲げた目標をめざす行動は生産や労働、節約や貯蓄であり、逆に掲げた目標を緩める行動は浪費や濫費、遊興や放蕩ということになるでしょう。
従来の経済学のフレームでは、所得―消費―貯蓄という家計収支の次元でミクロな経済現象をとらえてきましたが、メタ・メッセージ論になると、生産・貯蓄⇔消費・生活⇔浪費・遊興といった3次元でとらえなおすことができます。
以上のように、メタ・メッセージ論では、言葉の示すものを真実⇔曖昧⇔虚構の三空間で使い分けることによって、勤勉⇔曖昧⇔怠惰などの生活行動の本質を見直すことになります。その結果、それぞれの空間の内部に切り込んだり、あるいは境界を飛び越えたりするなど、新たな生活空間の可能性を広げていく可能性も膨らんできます。
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