コンデンシング・ライフ論でひとまず結論が出ましたので、先に【コンデンシング・ライフ・・・コト欲望よりモノ欲動へ移行!】で予告していました「音分け」論へ進んでいきます。
「音分け」とは、私たちの感覚が捉えた世界を「音声」で仕分けする能力です。
上記の投稿で指摘したように、私たちが日頃どっぷり浸かっている生活世界は、「モノ界(感覚界)」「モノコト界(認知界)」「コト界(識知界)」の3つから成り立っています。
❶モノ界(感覚界:physis)・・・私たち人間が自らの「身分け」能力によって、周りの環境世界の中から把握した世界。 ❷モノコト界(認知界:gegonós)・・・私たち人間が自らの「音分け(おとわけ)」能力によって、モノ界の中から把握できた対象と把握できなかった対象の、2つが行き交う世界。 ❸コト界(識知界:cosmos)・・・私たち人間が自らの「言分け」能力によって、モノ界の中から把握した世界。 |
3つの世界が生まれるのは、人間の基本的な能力である「身分け」「音分け」「言分け」の成果と思われます。
このうち、「身分け」と「言分け」については、【縦軸の構造・・・「身分け」と「言分け」】で紹介した視点に従って、議論を展開してきました。
しかし、最近に至って、両者の間にもう一つ、「音分け」を入れるべきではないか、と思うようになりました。
「言分け」という能力は、「感覚」の捉えた世界を「言葉」によって捉え直す能力を意味していますが、その能力には、社会で通用している「固定言語」を使いこなす能力と、未だ定まっていない「生成言語」を操る能力も含まれているのではないか、と考え始めたからです。
もともと「言分け」という能力は、F.ド.ソシュールの言語論をベースに、「シンボル化能力とその活動」(丸山圭三郎『ソシュールの思想』1981年)と定義されたものです。つまり、広い意味でのコトバを操る能力を意味しています。
ソシュールによると、一つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=Sa=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=Sé=意味されるもの)が、一体的に結びついたもの(signe=Sé /Sa)とされています。
「イヌ」という音声や「犬」という文字がシニフィアンであり、🐕というイメージや🐩という概念がシニフィエというわけです。
そのうえで、ソシュールは「言語記号は恣意的である」と述べ、言葉における「シニフィアンと
シニフィエの関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない」と説明しています(『一般言語学講義』小林英夫訳、1984年)。
「イヌ」という音声と🐕というイメージには、なんの結びつきはなく、人間が勝手に結びつけているにすぎない、ということです。
確かにイヌ(日本語)、dog(英語)、Chien(フランス語)、Hund(ドイツ語)など、全く異なる音声や表記は、いずれも🐕というイメージや🐩という概念を表していますから、固定言語という視点から見れば、まさしく正論かもしれません。
しかし、言語には固定される以前に、人間同士が意志や感情を交し合う生成段階もあるのではないかと考えると、単純には頷けないような気がしてきます。
実際の言語活動をみると、固定言語で表わせないことを、あれこれと模索しながら、情報交換をしているケースも多々あるのではないでしょうか。
そこで、もう一度、ソシュールの次元に戻って、「言分け」とは何か、を考えてみたいと思います。