2019年12月29日日曜日

生活民はブランドを無視していく!

ブランドの側から生活民への功罪を眺めてきましたが、視点を大逆転して、生活民の側からブランドの明暗を抽出してみましょう。

生活民の基本的な行動様式は、【
「生活民マーケティング」は「LC-Marketing」だ!:2017年7月30日】の中で述べたように、以下のような行動主体です。

①生活民とは「価値(Value=Social Utility)」よりも「私効(Private Utility」を求める主体である。・・・【生活民は「価値」よりも「私効」を重視:2016年11月22日】

②生活民とは「言葉(word)」や「記号(sign)」よりも「感覚(sense)」や「象徴(symbolを重視する主体である。・・・【
差異化を超えて差元化へ:2016年4月19日】

③生活民とは「真実」よりも、「虚構」から「日常」や「真実」を眺める主体である。・・・【
嘘を作り出す二重の構造!:2017年6月10日】

①の視点から見る時、ブランドとは、生活行動の内部に入っていくにつれて、次第にそのネウチ低下させていくものです。

生活民にとって
ネウチとは、【生活民は「価値」よりも「私効」を重視!:2016年11月22日】で詳しく述べたように、価値=共効(Social Utility)よりも個効(Individual Utility)を、個効よりも私効(Private Utility)を、という構造を持っています。




この構造の中で、ブランドというネウチは、最も強度な「共効」ですが、消費者がそれを受け入れた場合は個々人の「個効」となります。


その時、消費者としては、前回述べた如く、「探索・選択の省力化」や「購買リスクの削減」といった「個効」を享受することができます。

しかし、このような「個効」のネウチは“生活民度”の低い人にとっては幾分高いものの、民度が高くなるにつれて次第に低下していきます。

純粋の生活民に近づけば近づくほど、「個効」よりも「私効」を重視する立場が強まり、他人が勧めるネウチよりも、自分で見つけるネウチの方が、次第に重くなってくるからです。

また生活民としても、ブランドというネウチを「自己満足の一つの実現」という意味での「私効」としては認めていますが、それはかなり疑似満足に近いものですから、享受しているうちに、次第に減少していきます。

生活民としての意識が強まるにつれて、借り物ではない、本物のネウチを「私効」として広げたい思うようになるからです。

以上のように、私たちのネウチ意識が【共効→個効→私効】と進むにつれ、ブランドの比重は徐々に低下していきます。

もしブランドに存在意味があるとすれば、さまざまな生活民がそれぞれの私効を構築していく差延化)ための“素材”という立場を、改めて再確認していくことでしょう。

2019年12月20日金曜日

生活民にとってブランドとは・・・

ブランドの定義は、買い手にとっては、次のようなものでした。

これらは生活民である使い手にとって、どのような意味を持つのでしょうか。

探索・選択の省力化・・・表示する商品やサービスの信用度を信頼して、商品探索・選定時の労力や時間などを省略できる。


確かに市場社会では、膨大な商品やサービスが店頭やウェブ上で提供されており、買い手にとっては、ブランドが信頼できさえすれば、探す手間や選ぶ手間を省略することができます。

しかし、使い手にとっては、自らの探索力や選択力を低下させることになります。

新しい商品やサービスを購入した時、それらを使いこなすまでに時間がかかります

購買リスクの削減・・・表示する商品やサービスの信用度を信頼して、購買時の迷いや購買後の後悔を避けられる。


しかし、使い手にとっては、満足することもありますが、使っているうちに不満が募ることもあります

多様な商品やサービスを体験する機会が薄れ、本来の効用を追求する姿勢が薄れていきます

自己満足の実現・・・表示する商品やサービスの社会的な影響力を利用し、自らの立場や地位などを発信できる。


しかし、借り物による自己表現や自己実現によって、一時的な満足を得ることができますが、多用しているうちに、使い手本来の自己表現・実現力を低下させていきます。

ブランドマークや世評など、あくまでも借用した社会的影力ですから、本来の自分とのギャップが増進してくるとともに、自己嫌悪が募ってきます



結局のところ、生活民にとってブランドとは、一時的な満足は得られても、使用しているうちに不満が増加してくる指標と言えるでしょう。

2019年12月10日火曜日

ブランドの功罪を考える!

ポスト消費社会論にひとまず結論が出ましたので、今回からは再び「生活民」論(アトモノミクス)の原点に立ち戻って、消費社会の問題点を一つ一つ考察することにします。

最初は「ブランド」の功罪です。


ブランドとはもともと、牧場の所有者が他人の家畜と区別するため、自分の家畜などに押し当てた焼印のことでした。

これが市場社会の商品やサービスに応用されて、さまざまな意味を持つようになりました。

マーケティングでも、さまざまな定義がありますが、代表的なものは次のようなものです。

フィリップ・コトラーの定義


ブランドとは、個別の売り手または売り手集団の財やサービスを識別させ、競合する売り手の製品やサービスと区別するための名称言葉、記号、シンボル、デザイン、あるいはこれらの組み合わである。                                (P.コトラー『マーケティング原理』和田・上原訳:ダイヤモンド社, 1983年)               

アメリカマーケティング協会(American Marketing Association)の定義

(買い手に対し)個別の売り手もしくは売り手集団の商品やサービスを識別させ、競合他社の商品やサービスから差別化するための名称、言葉、記号、シンボル、デザイン、あるいはそれらを組み合わせたもの


2つとも売り手側からの定義であり、要点は次の3つです。

①売り手(供給者)側から買い手(需要者)への訴求手法

②競合者への対抗手法

コト(広義の記号)を複合化した訴求手法

一方、買い手側、ユーザーにとっての定義はどうなるのでしょうか。不思議なことに、先学諸賢の言説はほとんどありませんので、ちょっと考えてみると、次のようになります。

探索・選択の省力化

ブランドとは、それが表示する商品やサービスの信用度を信頼して、商品探索・選定時の労力や時間などを省略できる指標である。

購買リスクの削減
ブランドとは、それが表示する商品やサービスの信用度を信頼して、購買時の迷いや購買後の後悔を避けられる指標である。

自己満足の実現
ブランドとは、それが表示する商品やサービスの社会的な影響力を利用して、自らの立場や地位などを発信できると思う自己満足である。

売り手と買い手の間にあるブランド観の差異、つまり定義の隙間にこそ、ブランドという社会的な仕組みの功罪が潜んでいると思いますので、生活民やアトモノミクスの立場からクールに検討していきましょう。