2022年12月30日金曜日

食料自給率を振り返る!

人減先進国としての日本の将来。・・・それを考える前提として、過去120年間、人口増加時代の生活様式がいかに変わってきたのか、を確認しています。

前回のエネルギー供給に続き、今回は食料自給率の変化を振り返ってみます。

食料自給率とは何でしょうか。農林水産省の定義によると、「我が国の食料供給に対する国内生産の割合を示す指標」として、次の3つを挙げています。

品目別自給率=国内生産量/国内消費仕向量

カロリーベース総合食料自給率=11日当たり国産供給熱量/11日当たり供給熱量

生産額ベース総合食料自給率=食料の国内生産額/食料の国内消費仕向額

このうち、農林水産省の自給率統計では、昭和40年(1965年)以降の動向だけが推計されており、それ以前の動きは不明です。

これでは、当ブログの意図する20世紀全体の動向はつかめませんので、食料の中核である穀類の品目別自給率の推移を独自に推計したうえで、カロリーベース、生産額ベースの動きと比較してみました。

その結果が下図のようになりました。3つの食料自給率(穀類の品目別自給率、カロリーベース総合食料自給率、生産額ベース総合食料自給率)を比べたうえで、人口推移と比較しています。


これを見ると、次のようなトレンドが読み取れます。

穀類量ベースの自給率は、次のように変化しています。

19001944年の45年間は、1913年の95から始まり、30年の80%を経て、39年に87にまで落ちている。

194564年の20年間は、1946年の85から始まり、52年には94%、58年には59%と、乱高下を繰り返しつつ、64年には63まで落ちている。

1965~79年の15年間は、1965年の62から始まり、67年の64%までは上がったものの、以後は低下し、79年には35まで落ちている。

1980~2020年の41年間は、80年の29%に始まり、93年の22%で下限を、94年の33%で上限をそれぞれ示した後、30%前後を保っている。

カロリーベースと生産額ベースの自給率は、次のように動いています。

❶カロリーベースでは、1965年の73%からほぼ低下しつづけ、1993年の記録的な冷夏による37%への急落の後、翌年には40%を回復し、2011年からは46~48%を保っている。

❷生産額ベースでは、1965~80年に90%から80%へ落ち、90年代に70%2000年代に60%に落ちたものの、2010年以降はやや回復し、70%を維持している。

以上のような動向を比べてみると、次のようなトレンドが読み取れます。

現状201020年)では生産額ベースが70%台カロリーベースが4648穀類量が2729と、3つの自給率がかなり分離しており、生産額ではまずまずだが、カロリーや穀類では50を切っている。この背景として、2009年以降の人口減少の影響が考えられるが、依然として不安が続いている。

1965年以降のカロリーベースと穀類量ベースはほぼ比例した動きを見せており、1980年以降のカロリーベース/穀類量ベースはほぼ1.51.7倍、平均1.6である。但し、196070年は1.2ほどである。

③この比率1.2倍を前提にして、1965年以前のカロリーベースを推測(上限100)してみると、195093%、1930100%、1913100%となる。とすれば、同時期のカロリーベースもまた100であったと推測できる。

これらの動向を人口推移と比べてみると、次のような傾向が浮上してきます。

❶戦前の人口容量7500万人の食料は、ほぼ全てが自給できていた。

❷戦後の人口容量12800万人では、194580年の人口急増に伴って、穀類は90%台から30%台へ、カロリーもまた65年の73%から80年の53へ急落している。人口が戦前の人口容量7500万人を超える分の食料を、急激な進展した加工貿易によって補ってきた結果である、ともいえよう。

1980年以降は人口が飽和から減少に向かうにつれて、穀類量、カロリー、生産額とも、低下から微かな上昇に転じている。とりわけ2010年以降は、3指標とも回復基調にあり、人口容量のゆとり示し始めている。

❹とはいえ、穀類量29%、カロリー46%、生産額71%という自給状況は、依然として人口容量の不安定さを示している。もっとも、今後の人口が減少して7500万人を切る場合には、カロリーベースで80%ほどの自給が可能となろう。

要約すると、わが国の食料自給率は、戦前の100%時代から、前後の人口急増期に急落したものの、1980年代以降は人口の停滞・減少につれて幾分回復してきました。しかし、今後の人減時代を保障するには、まだまだ至っていない、と言うべきでしょう。

2022年12月10日土曜日

エネルギー供給の推移を振り返る

人減先進国としての日本の将来。それを考える前提として、過去120年間、人口増加時代の生活様式がいかに変わってきたのか、を確認しています。

前回のエンゲル係数に続き、今回はエネルギー供給の構成変化を振り返ってみましょう。

下図は人口の推移、エネルギー自給率1960年以降、低位発熱量ベース)、一次エネルギー供給構成の変化を比較したものです。

エネルギー自給率とは〔国内産出量/一次エネルギー供給量×100〕で算出した%です。

一次エネルギーとは、自然界から得られたまま、変換加工をする前のエネルギー源であり、供給状況の原像を示しています。










3つのトレンドを比較してみると、次のような傾向が読み取れます。 

●120年間の変動過程を振り返ると、190045194580198020203区間が浮上してくる。

190045・・・太平洋戦争以前は、石炭・木材・水力が主力であり、自給率は90%以上を保たれていたと推定される。この構成によって、戦前の人口容量(7500万人)は支えられていた。

194580・・・戦後の35年間は自給構造の一大転換期であり、50年代以降の石油急増石炭・水力・木材の急減によって、自給率は60年の58.1から73年の9.2へと13年間で急落している。しかし、この転換によって、人口容量が12800万人にまで拡大されたため、人口は急増している。

19802020・・・経済の高度成長が終るにつれて、石油依存からの脱却が始まり、石炭は微増、天然ガスと原子力の漸増を示していたが、11年の東日本大震災によって原子力の急減と水力の回復が見られ、その後は再生可能分の微増など多様化が進んでいる。こうした変化に影響され、自給率は2010年の20.3から14年の6.4まで落ちたが、その後やや回復し、2019年に12に至っている。かくして人口容量の上限に近づいた人口もまた、次第に停滞し始め、2008を境に減少に転じている。

●現在の自給率は10%前後であり、残りの90%の大半を占める化石系資源を、海外に依存している。2019年時点における海外依存度は、石油が99.7石炭が99.5天然ガスが97.9と、ほとんどすべてを輸入に頼っている(資源エネルギー庁「2020—日本が抱えているエネルギー問題」)。 

以上のように見てくると、自給率の高かった戦前の45年間、人口の急増を支えた戦後の35年間、人口の停滞・減少を招いた40年間の、エネルギー供給構造と人口動態の変化がおぼろげながらも浮上してきます。

とすれば、今後の人口減少社会を進めていくためには、❶人口減少に見合ったエネルギー必要量の縮小、❷風力・海水力・太陽発電など自然系エネルギーの拡大による、輸入の抑制、❸輸入必要量を賄うための輸出構造の再構築、といった対応が求められるでしょう。 

2022年11月30日水曜日

エンゲル係数で人口が変わる?

人減先進国としての日本の将来。それを考える前提として、過去100年間、人口増加時代の生活様式がいかに変わってきたのか、を確認しています。

前回の少産・多死化に続いて、今回は家計消費に占める食費、つまり「エンゲル係数」の変化を振り返ってみましょう。

いうまでもなく、エンゲル係数とは、世帯家計の消費支出に占める飲食費の割合(%)であり、この値が高いほど生活水準は低い、といわれています。エンゲル係数が高いと、貧困度が高く富裕度が低い、ということです。

それゆえ、エンゲル係数の長期的な推移をみれば、国民全体の貧困度の変動を推察することができます。

政府の主管する関連統計によって、1900年以降、120年間のエンゲル係数の推移を見ると、下図のようになります。 

19001940年は『長期経済統計』(東洋経済新報社)の個人消費支出推移から推計したもので、1900年の61.7%から始まり、1910年の61.3%、1920年の61.8%、1930年の53.5%を経て、1940 年には48.9%まで落ちている。しかし、消費支出の56を占めており、貧困度の高さを示している。

1946年以降は家計調査(2人以上の世帯が対象)によるもので、1946年の 66.4%から始まり、1960年の41.6%、1970年の34.1%、1980年の29.0%、1990年の25.4%、2000年の23.3%と低下したものの、2005年に22.9%で底を打ち、2010年に23.6%、201619年には25.725.8%に上がっている。4050年代には太平洋戦争の前と同レベルであったが、以後は下降して90年代以降は20%台となり、貧困度は戦前の半分以下に落ちている。

一方、総人口の動きは次のようなものです。

19001911年(内閣統計局・明治五年以降我国の人口)と19122020年(総務省・人口推計)でみると、戦前の人口は1900年の4385万人から急増し続け、1936年に7000万人を超えたあたりからやや停滞している。

②戦後は1946年の7575万人から再び急増に転じ、1950年に8320万人、1960年に9342万人、1967年に1億人1984年に12000万人を超した後、2008年に12808万人でピークとなり、以後は微減状態に入っている。

エンゲル係数と人口の動きと比較してみると、次のような傾向が浮かんできます。

❶大局的に見ると、エンゲル係数曲線と人口曲線は反比例している。エンゲル係数が低下するにつれて人口は増加し、やや上昇するだけで人口は停滞している。

❷ほぼ一貫して低下してきたエンゲル係数は、1990年代に20世紀初頭の3割程度にまで落ちたものの、21世紀に入ると、人口の停滞・減少と見合うように、横ばいから上昇に転じている。

❸戦前においては、エンゲル係数の低下に伴うように人口は増加しており、貧困度の縮小によって、多産少死化が進んだことを示している。戦後においても、エンゲル係数の低下傾向と人口の増加傾向は反比例しており、貧困度の低下が人口増加に繋がった、と推測できる。

2005年以降の上昇傾向は、2008年のリーマン・ショック後の経済停滞、2011年の東日本大震災などに加えて、2019年からのコロナショックが影響しているが、その影響が出生数の減少や死亡数の増加を招き、人口減少を加速させている、とも推測できる。

以上のように見てくると、エンゲル係数の動きもまた、人口変動と微妙に絡み合っている、といえるでしょう。

2022年11月23日水曜日

少産・多死化の推移を振り返る!

人減先進国としての日本の将来。それを考える前提として、過去100年間、人口増加時代の生活様式がいかに変わってきたのか、を確認しています。

前回の人口分布に続いて、今回は出生・死亡数の変化を振り返ってみましょう。

人口動態統計にとると、1900年以降、120年間の出生数、死亡数の推移は、下図のとおりです。194446年は資料不備のため省略。194772年は沖縄県を含まない。)  



出生数の推移

1900(明治23)年の142万人から、1941(昭和16)年の228万人まで増加した後、太平洋戦争による不明期となった。

②戦後の194748(昭和2223)年には268万人49(昭和24)年には270万人と最高値を示し、この3年間が1次ベビーブーマー、団塊一世の誕生であった。

③その後、1957(昭和32)年に157万人まで減少した後、再び増加に転じ、197274(昭和4749)年には203209万人と、第2次ベビーブーマー、団塊二世の誕生を示した。

④以後は約20年間減少を続け、1993(平成5)年に119万人まで落ちた後、199496(平成68)年に120万人前後で、団塊3を誕生させた。その後は徐々に減少となり、2000(平成12)年の119万人を経て、2020(令和2)年には84万人で120年間最低となった。

●死亡数の推移

1900(明治23)年の91万人から増加し、1920(大正7)年のスペイン風邪で142万人のピークを示した後、192040(大正9~昭和15)年代に120130万人へと推移した。

②戦後は1947(昭和22)年の114万人から減り始め、196070(昭和3555)年代は70万人前後を続けたものの、1980年代からは増え始め、1990(平成2)年に82万人2000(平成12)年に96万人を経て、2003(平成15)年に101万人100万人を越し、2020(令和2)年には137万人で120年間最大に達している。

120年間の変化を整理すると、次のようになります。

①出生数は1990年をベースとすると、49年に1.973年に1.5に達したが、85年には1.0となり、以降は減り続けて、2020年には0.6まで落ち、戦前戦後最低となっている。

②死亡数も、1990年をベースとすると、201.6にまで増加したが、40年には1.3にまで低下した後、さらに減少を続け、196080年代には0.8となった。90年代に入ると反転し始め、1995年に1.0を超え、2020年には1.5と戦前1923年のレベルに戻っている。

③大局的に見ると、出生数の推移は1949年をピークとする山型であり、死亡数の推移は1960年代をボトムとする谷型である。

④こうした推移の結果、20052007に死亡数が出生数を追い抜き、それ以後、日本人人口は減少過程に入っている。 

以上のように見てくると、120年間の変化は、❶戦前(19001944年)の出生増加・死亡微増期、❷戦後回復時代(19451975年)の出生増加・死亡低位期、❸社会安定時代(19762020年)の出生減少・死亡増加期、の3段階に大別できそうです。

2022年11月11日金曜日

平均寿命が100年で40歳も伸びた!

人減先進国としての日本の将来。それを考える前提として、過去100年間、人口増加時代の生活様式がいかに変わってきたのか、を確認しています。

前回の人口分布に続いて、今回は平均寿命の変化を振り返ってみましょう。

いうまでもなく平均寿命とは、0歳時の平均余命(ある年齢の人がその後何年生きられるかという期待値)です。

国家の医療・衛生水準や人生の平均的長さを表していますので、一人の人間の生涯にどれほどの生活資源が必要なのか、いわば「生涯容量」を表すことにもなります

そこで、厚生労働省の簡易生命表によって、約100年前からの平均寿命の推移を顧みると、下図のようになります。



1900年ころ男性は43.97、女性は44.85で、40年代までは40歳代を23歳ほど上昇していたが、太平洋戦争後に急上昇に転じ、47には男性50.06、女性53.9650歳を越えた。

➁戦後の1955になると、男性63.60、女性67.75と上昇し、60年に70歳を女性が、75年に男性がそれぞれ超えるとさらに伸びて、2020には男性81.64、女性87.74に達している。

③男性・女性の平均寿命を単純平均化すると、1901年の44.41から、47年に52.0151年に61.2765年に70.33と上昇し、2000年に81.162020年に84.69に達している。

120年間で、平均寿命は1.9、ほぼ2に伸びている。

以上のような平均寿命の推移を前提に、1901年の44.41歳を基準値1.00として、各年の上昇比率を算出し、その比率に各年の総人口を掛け合わせると、「総生涯容量」の傾向が推定できます。

生涯容量とは、一人の人間が一生の間に必要とする生活資源などの容量である。例えば、1901の一人は44歳分の生活資源などを必要としていたが、2020の一人は85歳分が必要となり、前者より1.91も多くなる。

総生涯容量とは、各人の生涯容量に人口の総数を掛け合わせたもので、全人口が必要としている総容量を表している。

総生涯容量の変化を想定すると、下図のようになります。 


1901年に4436万人分であった総生涯容量は、戦前の35年に7528万人分に達し、戦後の47年に9147万人分と急拡大した後、55年に13321万人分となって、工業現波の人口容量12800万人を超えている。

②その後、1980年に20047万人と2億人を超え2020年には24056万人に達している。つまり、人生の長さを考慮した「総生涯容量」となると、人数だけの許容量を示す「人口容量」を大きく超えることを示している。

こうしてみると、長寿者の多くなる社会では、単純な人口容量の規模を超えて、その倍ほどの生存容量が必要となるようです。

経済規模や社会保障制度はもとより、生活環境、国土構造、コミュニティ維持などにおいても、統合的な生活構造維持体制が求められる、ということでしょう。 

2022年10月31日月曜日

大都市化が暮らしを変えた!

人減先進国としての日本の将来。それを考える前提として、過去100年間、人口増加時代の生活様式がいかに変わってきたのか、を確認しています。

前回の家族構成に続いて、今回は居住状況の変化を人口分布の推移で振り返ってみます。

統計的なデータが残っている、約100年前からの人口分布を顧みると、下図のようになります。



この図では、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、愛知県、大阪府、京都府、兵庫県の8地域を「大都市圏」と定義し、その他の地域と区分しています 

大都市圏の人口は、1920年の1595万人から1940年の2532万人を経て、戦後の1947年に2269万人とやや減少した。1950年の2544万人あたりから急増し、1960年の3347万人、1980年の5106万人の後、やや伸び率を落としたものの、2005年に5879万人となった。その後は総人口の減少にも関わらず、2020年には6134万人に達している。

②全人口に占める大都市圏人口の比率は、1920年の28.5から1940年の35.2%までは上昇したが、終戦直後の1947年には29.0%まで下がった。1950年の30.2%から1980年の43.6あたりまでは急上昇し、その後はやや緩和したものの、2015年に47.7%、2020年には48.6%に達している。総人口のほぼ半分が大都市圏に住んでいるということだ。

以上のような変化は、生活民の暮らしにどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

生活態様:連動型から分散型へ

非大都市圏における生活活動は、生産や消費、居住や移動などが比較的近距離の空間の中で、連動的に営まれていた。しかし、大都市圏の拡大に伴って、それぞれが分散し、さまざまな遠距離空間で独立的に営まれる、という割合が拡大した。

生産と消費:連結型から分立型へ

非大都市圏における生活民は、生産活動と消費活動をほとんど連結して行っていたが、大都市圏の拡大とともに、両者は完全に分離され、生産活動は分業化、消費活動は個々人による個性化の色彩を強めていった。

家族形態:大・中家族から小家族へ

非大都市圏の家族形態は、三世代家族や複合家族など比較的多数であったが、大都市化が進むともに二世代、夫婦のみ、単親、単身など小家族の比率が拡大した。

コミュニティ:地縁型から職縁型へ

非大都市圏における生活民相互の人間関係は、地域社会というコミュニティと濃厚に繋がっていたが、大都市化が進むにつれて地域とは徐々に離れ、職場や職縁というコミュニティの比重が拡大した。

生活行動:情動的から合理的へ

非大都市圏における生活民は、農林漁業、小規模製造業、小売業などに関わる比重が多く、その生活行動もかなり感覚的、心情的な比重が強かった。しかし、大都市化が進むとともに、通勤、通学、職場環境、購買環境などで、数値的、合理的に行動する比重が高まってきた。

このように見てくると、人口増加と大都市化に伴って、生活民全体の生活行動もまた、総合・連結型の様式から個別・分散型のスタイルへと、その比重を移してきたものと解釈できます。

2022年10月25日火曜日

家族構成も100年で変わった!

私たちの生活様式は、人口減少に対応して、徐々に飽和・濃縮型へと移りつつあります。

その方向とはいかなるものになるのか、過去100年間の生活様式の変化を参考にしつつ、改めて確認したいと思います。

前回の生業構造に続いて、今回は家族構成の変化。

統計的なデータが残っている、100年前からの日本人の家族構成を振り返ってみると、下図のようになります。



上の方の実数推移では、次のような変化が読み取れます。

①日本の家族の数は、1920年の1100万世帯から1955年の1700万世帯、1980年の3600万世帯を経て、2020には5600万世帯にまで達している。

核家族(総務省の定義では、夫婦のみ、夫婦と子ども、単親と子ども)は、1920年の615万世帯から1955年の1037万世帯、1980年の2159万世帯を経て、2020年には3011万世帯に達している。

その他の親族世帯(夫婦と両親、3世代、夫婦と他の親族、兄弟姉妹のみ等)は、1920年の425万世帯から1955年の635万世帯を経て、1985年の721万世帯でピークに達し、2020年には378万世帯まで急減している。

単独世帯は、1920年の66万世帯から1955年には60万世帯にまで減ったものの、1960年には358万世帯へと急増し、1980年の710万世帯を経て、2020年には2115万世帯に達している。

下の方の構成比推移は、次のように変化しています。

核家族1920年の55から1955年には60 %に増えた後、19602010年代は5060%台を続けたものの、2020年には54まで落ちている。

その他の親族は、1920年の38から1955年の37%、1960年の31%、1980年の20%と一貫して減り続け、2020年には7まで落ちている。

単独世帯1920年の6から、1955年には%にまで急落したものの、1960年の16から広がり始め、1970年代以降一貫して拡大し、2020年には38に至っている。

以上のような変化は、私たちの生活態様にどのような影響を与えたのでしょうか。

生活資源の獲得法では、家族・親族中心から個人単位へと比重が移っている。例えば、農業や商工業など家族集団で営まれてきた労働が、給与生活者や雇用者など、個々人の労働へと移行している。

生活資源の消費法でも、家族・親族単位から個人単位へと移行している。例えば、祖父母・夫婦・子どもなど家族集団で営まれてきた生活行動や消費活動が、独立した個々人毎の生活・消費行動へと分散している。

さまざまな意志決定では、家族・親族による集団的な思考が縮小し、個々人の独立的な思考が拡大している。例えば、一人の生活民が己の生き方や暮らし方などを決めようとする際、家族や親族に相談したり配慮したりする機会が減少し、自分自身で考え、かつ行動していくという傾向が広がっている。

こうしてみてくると、家族構成100年の変化もまた、私たちの暮らしや働き方はもとより、個々人の考え方や生き方などにも、さまざまな影響を与えた、といえるでしょう。

2022年10月11日火曜日

就業構造で生活様式の変化を振り返る!

言語3階層説が一段落しましたので、生活学の本論に戻り、新たなテーマとして「生活様式の変化」を思考していくことにします。

我が国では200年ほど続いた人口増加時代が終わり、2009年以降、人口減少時代に入っています。

私たちの生活様式についても、人口増加を前提にした成長拡大型が終り、人口減少に見合った飽和・濃縮型へと移りつつあります。

その方向とは、いかなるものになるのでしょうか。

それを確かめるため、まずは過去から現在までの生活様式の変化を確認しておきたいと思います。

最初は生業の変化。

統計的なデータが残る、100年前からの日本人の就業状況を振り返ってみると、下図のようになります。



 

就業者の総数は、1920年の2726万人(総数の48.7%)から1950年の3602万人(43.3%)を経て、1995年に6418万人(51.2%)でピークとなったが、人口減少に伴い2015年には5892万人(46.4%)まで落ちている。

1次産業192050年までは全就業者のほぼ半数を占めていたが、1955年の1629万人(41.2%)から減り始め、19701015万人(19.3%)、1990439万人(7.2%)、2015年には222万人(3.8%)と急速に落ちている。

2次産業は、1920年の560万人(20.5%)から徐々に上昇し、1965年に1511万人(31.5%)で1次産業を抜き、1995年までは2000万人前後(3134%)を保った後、2000年以降低下し始め、2015年には1392万人(23.6%)まで落ちている。

3次産業は、19201950年で6501000万人(30%前後)を続け、1960年に1684万人(38.2%)で1次産業を追い抜いて、以後は最大シェアを続け、1980年の3091万人(55.4%)から2000年の4067万人(64.5%)に達したものの、人口減少とともに2015年には3961万人まで減った。だが、その比重は67.2%と高位を保っている。

こうした変化は私たちの生活様式に、どのような影響を与えたのでしょうか。

❶人口増加時代(~2008年)には、総人口に占める就業者の比重は半数ほどであったが、人口のピークを過ぎると、次第に落ち始め、より少ない就業者で社会を支えなければならない時代に入っている。

自給自足志向の強い1次産業就業者は、戦後10年ころまでは約半数を占めていたが、以後は急速に減り始め、現在では5%未満となっている。つまり、自立型生活民が減り、給与生活者が増えたということを示している。

1次産業就業者の比重低下は、食糧自給体制の縮小を示しており、グローバル化への追随強化を象徴している。

2次産業就業者の比重変化は、成長拡大型社会の基盤強化を示すとともに、グローバル化への対応強化をも示しているが、成長拡大が限界に近づくにつれて、その限界もまた象徴している。

3次産業就業者は、高度経済成長の始まった1960年代以降、1980年代までは4060%の高比重を保ち続け、1990年以降にも6070%の維持している。一方では多様な生活資源で暮らす生活民の増加を示すとともに、他方では自給自立型生活民の縮小を示している。

分類不能者の比重増加は、成長拡大型社会を担う産業構造とは、かなり異なる種類の働き方を選ぶ生活民の増加を示唆している。

以上のように、わが国の生活資源を支える産業別就業者の推移から、生活形態の変化を読み解いてみると、約200年間続いてきた現代日本社会の拡大要因とその限界が緩やかに浮上してきます。

2022年9月30日金曜日

科学用語・・・システム化からストラクチャー化へ!

Science:科学」という識知が集約・統一・統合化へと変化していく時、科学用語に求められる条件は3つある、と述べてきました。

今回は3つめの「システム化からストラクチャー化へ」。

ル・ルネサンスは集約・統合的科学をめざす!】で述べたように、今や始まろうとしているル・ルネサンス時代には、科学用語を使った思考方式もまた、網の目状から風呂敷状への接近を検討しなければなりません。

システム思考で使われている用語(システム用語)の限界を超えて、ストラクチャー思考で使われている用語(ストラクチャー用語=日常言語)との接点をいかにして増やしていくか、という課題です。

なにゆえ、そのような課題が生まれるか、といえば、両方の用語には、次のような違いがあるからです。

システム用語

システムでは、思考対象となる全体像をさまざまな点で織りなす「網の目」として把握しており、個々の点の対象となった要素が、一つの言語や記号として使われている。

それゆえ、使われている言語や記号は、網の目の結節点の対象のみを意味(シニフィエ)しており、限定化・正確化された意味を示している。

その代わり、結節点の周辺の対象は省かれているため、網の目から漏れた部分は、全て捨てられている

 ストラクチャー用語(日常言語)

日常言語では、思考対象となる全体像をさまざまな切片による「風呂敷」状として把握しており、切り分けられた面状の示す要素が、一つの言語や記号として使われている。

それゆえ、使われている言語や記号は、切り分けされた面の全体を意味しており、その分、曖昧、あるいは大まかな意味となる。

その代わり、切り分けされた面の全ての対象を意味しているため、日常用語には切片の全てが含まれていることになる。

2つの用語がこのように異なる以上、システム用語の「正確ではあるが狭意である」という限界を超えるためには、ストラクチャー用語への限りなき接近が求められると思います。

筆者もまた、OROperations Reseach) やQCQuality Control)による経営管理や、多変量解析、EconometricsSystem Dynamicsなどによる社会・経済予測において、システム用語に何かと関わってきました。

その経験から言えば、数字・記号・数式などは、さまざまな現象の単純化によって思考の速度や精度を上げはしますが、他方では思考の結果もまた単純化されたシニフィエとなり、説明しようとすると、幾つかの前提を置いたうえでの、限られた情報だけを述べることになります。

こうした限界を乗り超えて、より効果的な説明を行うには、数値・記号化の過程で捨象された、幾つかの要素をもう一度見直し、適切に付加するような手順を加えることで、よりリアルな情報伝達をめざすべきだ、と思います。

例えば、次の3つのような方向です。

①思考結果を表現するシステム用語に、思考過程で捨象した要素を可能な限り復活させ、日常的なシニフィエに近づける。

②システムの網目をできるだけ細かくして、結節点であるシステム用語の数を増やすことにより、表現対象をより多く汲み取れるようにする。

③個々のシステム用語のシニフィエをできるだけ大きくし、ストラクチャー用語の表現対象に近づける。

以上のような修正によって、科学用語の一角をなすシステム用語にも、新たな次元へと進むチャンスが巡ってくるでしょう。

2022年9月12日月曜日

科学用語・・・数値絶対化から数値相対化へ!

Science:科学」という識知が集約・統一・統合化へと変化していく時、科学用語に求められる条件は3つある、と述べてきました。

今回は2つめの「数値絶対化から数値相対化へ」。

すでに【ル・ルネサンスは集約・統合的科学をめざす!】で述べていますが、工業前波を創り出した科学技術が大きく依存している数値記号思考を、さらに広い思考方式へと移行していくには、記号体系の相対化が必要になってきます。

現代社会の思考における数値絶対主義は、身分け・言分けの捉えたモノコト界を、網分けによって把握する識知能力を代表しています。

その代表である数字という記号を、どのように改変していけばいいのか、大きな方向を3つ、考えてみます。


①意味の見直し・・・セマンティクス(
Semantics:意味論次元

数字という記号のシニフィアン(Signifiant:意味するもの)とシニフィエ(Signifié:意味されるもの)の関係と限界をもう一度見直すこと。

1,2,3という数字は、「身分け」「言分け」された対象を、さらに「網分け」によって理知記号化したものであり、3重の意味で対象の要素を捨象化したものである。

とすれば、捨象された要素の多いことを前提にして、数字のシニフィエには、さまざまな限界のあることを確認することがまず必要である。

②文法の見直し・・・シンタックス(Syntax:統辞論次元

数学はもとより統計やデータ解析などで使われる公式や数式、つまりやシンタックス(文法)の信頼性には一定の限界があることを前提にして、計算結果などを了解すること。

認識対象を理知の網目によって捨象・抽象化した数値記号間の関係を、さらに選択や捨象を重ねて、理知界でのみ通用する数式で表現したうえ、さまざまな思考に応用している以上、現実の対象とは常に乖離が潜んで入りことを自覚する必要がある。

どれだけ詳細かつ精密な数式を使ったとしても、公式や定理という数学的論理にも限界がある以上、その結果を日常言語化するには、捨象した要素を的確に組み込むような対応が求められる。

③知縁共同体の見直し・・・インテレクチュアル・コミュニティー(Intellectual Community):知縁共同体次元

数学や統計学という知縁共同体内部での思考方法を、社会集団的な思考方法にどこまでも近づけていくこと。

数字を使って行なわれる、さまざまな思考は、上記のような、特定のシニフィアンとシンタックスを理解した知縁共同体の内部において、初めて可能になるものである。

このため、日常言語とは乖離が大きく、一方的なコミュニケーションとなりがちである。社会集団的な理解を深めていくには、常に日常言語への接近や交流が求められる。

まとめてみると、科学技術をいっそう進めていくには、数値記号と対象観念の間の固定的な枠組みをもう一度見直して、数値が極点化によって捨象したような対象までも表現できるような、新たな数値記号を生み出すとともに、それらを論理化する、新たなシンタックス(統辞法)の創造が求められる、ということでしょう。

コロナ禍に対応できない数理思考】で紹介したように、物理学者の中谷宇吉郎は「今日の科学は数学を使う関係上、量の科学にいちじるしく傾いている。形も科学の対称になり得るものであるが、今日の科学の中には形の問題はほとんどはいっていない。」(『科学の方法』1958P195)と指摘しています。

この「」とは、日常言語が「識分け」している、包括的な面状の対象であり、「」とは思考言語が「網分け」した点的な対象、と理解すべきではないでしょうか。