2018年7月30日月曜日

近代言語学は「価値」という言葉をどうとらえているのか?

大和言葉で「ねうち」や「ききめ」の意味を考えてきましたので、言語学ではどのように考えているか、を見ておきましょう。

経済学の「価値・効用」観は現代社会に広く浸透していますが、この視点を継承しつつ、より原理的な次元で「価値」をとらえ直しているのが、人間の思考行動の根源を研究する言語学です。

例えば、近代言語学の創始者F.ド.ソシュールは、言葉の「価値(valeur)を「意義(signification=意味作用)との対比によって、明確かつ精密に説明しています(『一般言語学講義』)。

「意義」という訳語は、小林英夫による戦前の初訳によるものですが、近年では「語義」と訳されており、この方が適切だと思いますので、以下では「語義」を使うことにします。

ソシュールによると、一つの言葉(シーニュ=signe)とは、音声や表音文字などの「聴覚映像」であるシニフィアン(signifiant=Sa=意味するもの)と、「イメージ」や「概念」であるシニフィエ(signifie=Sé=意味されるもの)が、一体的に結びついたもの(signe=Sé /Sa)です。

この時、あるシニフィアンが特定のシニフィエと結びついて表示するものが言葉の「語義」であり、他のシーニュとの相対的、対立的な関係から決定される立場が言葉の「価値」である、と説明しています。

具体例でいえば、「イヌ」という音声が「四足の小動物・犬」のイメージと結びついて示すものが言葉の「語義」です。

他方、「四足の小動物・犬/イヌ」という言葉と「四足の小動物・猫/ネコ」という言葉が、それぞれ別種の小動物を示す能力が言葉の「価値」です。つまり、言葉の「価値」とは、犬と猫を区別できることです




ソシュール自身の解説によると、図に示したように、言葉の「語義」とは音声や文字が特定のイメージと【↕垂直の矢)】で結びついた状態であり、言葉の「価値」とは他の言葉(イメージ/音声・文字)との比較・対立する【↔(水平の矢)】としての関係を示しています。

垂直の矢というは、一つの音声が一つのイメージと一体的に結びついた、独立的な状態であり、水平の矢というのは、さまざまな音声の地平と、さまざまなイメージの地平が、重層的に広がって、ある音声とあるイメージが上下に対応している、並立的な状態です。

この対比は、言葉(コト)と対象(モノ)の関係を示したもので、モノとコトとの関係を「垂直」コトとコトの関係を「水平」とみなしています。

大和言葉でいえば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、あたい」部分のみに純化させました。その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。


さらにソシュールは、こうした「価値」観は「いずれの科学」にも「あらゆる文化次元の価値」にも適用できると付言し、その実在形として「貨幣」を想定しつつ、価値の成立条件を次の2つに一般化しています。

①その価値の決定を要するものと交換しうるような一つの似ていないものが存在すること。例えば、5フランの貨幣は、貨幣ではないパンやブドウ酒の一定量と交換できることが必要である。

②その価値が当面の問題であるものと比較しうる幾つかの似ているものが存在すること。例えば、前述の5フランが同じ貨幣体系に属する1フラン貨幣や10フラン貨幣と比較できることが必要である。

「価値」を「相当性=あたい」と理解した場合にも、その内容にはさらに2つの条件があり、一つは「交換可能性」、もう一つは「順位比較性」である、ということです。

そして、この「価値」という概念は「秩序を異にする物の間の対当の体系」であり、それを成立させるのは、個人ではなく、社会的な集団の認知だけ、とも述べています。

「(社会)集団は、価値の成立のために必要であって、これの唯一の存在理由は、慣用と一般的同意のうちにある。個人一人ではそれを一つとして定めることはできない」ということです。

以上を大和言葉で説明すれば、コトの「ねうち=有用性」が「垂直」であり、コトとコトを比べる「あたい=相当性」が「水平」ということになるでしょう。

要するに、ソシュールは「価値」という言葉から、「語義」つまり「ねうち」部分を抜き出して、「あたい」部分のみに純化させました。

その意味では「価値=あたい」説の典型ともいえるでしょう。

しかし、ここでは「効用=ききめ」について、まったく言及していません。

これについては、言語共同体における社会的規約の体系である「ラング (la langue)ではなく、個人がそれを実践する時の発話行動である「パロール (la parole) 」として考察しているようです。 

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