2018年8月10日金曜日

「語義×価値」から「ねうち×あたい」へ!

ソシュールの「価値」観をモノ次元に応用すると、言葉の「語義」と「価値」の関係は、モノの「使用価値=ねうち」と「価値=交換価値=あたい」という関係に相当するでしょう。

前提になっているのは、言語次元の「語義」や「価値」が社会集団の慣用と同意によって決まっているのと同様、モノ次元の「使用価値=ねうち」や「交換価値=あたい」もまた、一人ひとりの個人ではなく、社会集団の慣用と同意によって決まっている、ということです。

そのうえで、一つのモノの「ねうち」という言葉を考えてみると、それは「ネウチ」という音声シニフィアンが、ある社会集団にとって「特定の役に立つ」という特性を物的シニフィエとする垂直の関係、つまり「語義」関係ということができます。
 



例えば、パンというモノの「ねうち」は、「食用になる」という特性を示します。毛糸というモノの「ねうち」は、「温かさ」という特性です。両方とも「ねうち=有用性」という語義が「役立つ」という特性を支えるように一体化しています。

他方、モノの「あたい」は、そのモノだけで決まるのではなく、他のモノの「有用性」や「無用性」との〝比較〟や〝対比〟によって定まります。


パンは石よりも「食用になる」度合いが高いから「あたい」があり、毛糸は木の皮より「温かい」比率が高いから「あたい」がある。いずれも有用と無用という比較のうえで、より有用なもの」や「より無用ではないもの」が「あたい」となります。

とすれば、「語義=ねうち」とは一つのモノの有用性がそのモノの特性と一体化している状態、「価値=あたい」とは一つのモノの有用性が他のモノの有用性と比較して決まる状態、ということができます。

いいかえると、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係といってもいいでしょう。

このように、言語学の見解を取り入れると、社会的な意味としての「ねうち」と「あたい」の違いがより明確になり、新たな地平が開けてきます。

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