ソシュールの言語学の視点に立つと、モノの「語義=ねうち」とは、モノの特性と有用性が「垂直の矢」で結ばれた関係、モノの「価値=あたい」とは、他のモノの有用性と比較・対立する「水平の矢」としての関係であり、両方とも一定の人間集団によって認められたもの、ということになります。
ところが、有用性には人間集団の認知や共同主観がなくても、一人ひとりの個人が独自に認めるという次元があります。一人ひとりの個人にとっての「有用性」、つまり「効用=ききめ」の方はどのように位置づけられるか、という問題です。
経済学の視点を超えて、言語学の「価値」観をあえて紹介したのは、これを説明するためです。
言語学の視点を広げていくと、「効用」には共同主観的な次元だけでなく、純個人的な次元があり、両者のダイナミックな関係が、やがて有用性の中身を革新し、さらには社会そのものも変革していく可能性が見えてきます。
どういうことなのでしょう? ソシュールを継承した言語哲学者・丸山圭三郎は言葉の示すイメージについて、「意義(signification)」と「意味(sens)」の違いを指摘しています(『ソシュールの思想』)。「意義」という訳語は、先に述べたように、近年では「語義」と訳されていますから、ここでも「語義」を使うことにします。
その「語義」と「意味」はどう違うのか。「語義」とは、一つの言葉が辞書や文法といったラング(langue)の中で使われる場合であり、「意味」とは、それが個人的なパロール(parole)の中で使われる場合です。
ラングというのは、日本語、英語、フランス語など、それぞれの言語圏に属する人々が歴史的に共有している社会制度、共同主観です。この制度の中では、文法と辞書で示されているように、一つの言葉の語義と用法が、共同体の伝統と慣習によって、一定の範囲に定められています。
他方、パロールというのは、個々人がラングを使って実際に行なっている言語活動です。丸山先生によると、このパロールにも、既成のラングに忠実に基づいて会話する「経験的使用」=パロール1と、ラングを使って全く新たな関係を作りだす「創造的使用」=パロール2の、2つのケースがあるようです。
他人とコミュニケートするには、互いに意味や用法を共有している言葉を使うのが便利ですが、私的なメモや日記、あるいは独創的な詩歌や創作を書くには、自分だけに通じる意味や用法も許される、ということです。
それゆえ、2つのケースによって、個々の「言葉」の意味もまた変わります。パロール1では「語義」の比重が多い「意味1」となり、パロール2では独創的な内容の比重が濃い「意味2」となります。
この差異、つまりコト次元の「意味1」と「意味2」の差が、モノ次元の「ねうち」と「ききめ」の違いを創り出すのではないでしょうか?
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