差異化が「記号:サイン」の差を訴求する戦略であるとすれば、差元化は「象徴:シンボル」の差を訴える戦略ともいえます。両者の差はどこにあるのでしょうか?
「記号」と「象徴」という言葉は、両方ともさまざまな意味で使われています。
まず「記号(sign)」の意味を考えてみると、極めて多義的です。国語辞書によると、「一定の事柄を指し示すために用いる近くに対象物」であり、言語・文字から交通信号や高度の象徴までを含む、といいます(広辞苑)。
あるいは「一定の事象や内容を代理・代行して指し示すはたらきをもつ知覚可能な対象」であり、種々の符号・しるし・標識から言語や文字、さらには雨を知らせる黒雲や職業を示す制服なども含む、とされています(大辞林)。
それゆえ、日常的な使用では、発音記号や音部記号のように、「記号(sign)」とは特定の情報を示す具象的な符号をさす場合が多いようです。
しかし、思想界では、社会学者のJ.ボードリヤールが「消費される物になるためには、物は記号(signe:仏)にならなくてはならない」(『物の体系』)と述べているように、物に付加された、観念的な言説やメッセージ、つまりカラー、デザイン、ネーミング、ストーリーなど、広い意味で使われています。
他方、「象徴(symbol)」もまた多義的です。国語辞書で調べてみると、「symbole:仏の訳語」であり、「本来関わりのない2つのものを何らかの類似性で関連づける作用」(広辞苑)と書いてあります。
別の辞書では「直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること」(大辞林)と述べています。
実際に使用する場合は、もっと広義的です。例えば言語哲学者の丸山圭三郎は、人間だけが持っている「言分け」能力を「シンボル化能力とその活動」と定義し、「シンボル」は「コトバを操る能力」という、広い意味で使っています(『ソシュールの思想』)。
他方、分析心理学者のC.G.ユングは、夢や幻想の中に現れるイメージを「象徴(シンボル)」と名づけ、言語体系が形成される以前の意味体系、つまり「元型:archetype」と考えて、かなり狭い意味で使っています。元型には大地母、童子、道化、老賢者、仮面、影などがあり、それぞれが人間の基本的な存在形態を〝象徴〟しています(『元型論』)。
こうしてみると、「象徴:シンボル」という言葉は極めて多義的であり、広義では人間の扱う「言語」全般を意味し、狭義では無意識下の「元型」を示しています。ある時にはコトバやイメージなど、人間の取り扱う観念道具全般を意味し、またある時にはエンジェルやサタンなど、幻想的なキャラクターを示すということです。
とすれば、「記号;サイン」という言葉と「象徴:シンボル」という言葉は、広義ではかなり重複した意味で使われています。
そこで、マーケティング戦略で使う場合には、両者を明確に分けても用いるべきだと思います。具体的にいえば、「記号」はボードリヤールのいう、観念や表象などの意識的なコード(記号体系)、また「象徴」とはユングのいうような、夢や幻想といった無意識の中に現れるイメージ、ということです。
生活願望の次元でいえば、言葉⇔感覚の垂直軸において、「記号」とは言語、意識、欲望、理性、観念、記号、物語などに対応するイメージ、「象徴」とは本能、無意識、欲動、感覚、体感、象徴、神話などに対応するイメージということになります。
いいかえれば、ヒトが欲望次元でとらえるイメージが「記号(sign)」であり、欲動次元で環境をとらえるイメージが「象徴(symbol)」ということになります。
その延長線上で、記号次元のイメージ連鎖は「物語(story)」になり、また象徴次元のそれは「神話(mythology)」になっていきます。
2015年8月28日金曜日
2015年8月20日木曜日
差元化とは何か?
差別化、差異化、差延化に続いて、いよいよ新たなマーケティング戦略の一つ、差元化戦略へ踏み込んでいきます。
差元化戦略とは、感覚界の感覚、無意識、欲動、感度、体感、象徴、神話などを求める感覚願望に応えて、言葉や記号をあえて外し、身体性や直感性、原始性や動物性などの「身分け」力を回復させる手法です。
感覚界とは、単なる物質的次元ではなく、感覚や象徴で外界をとらえた次元です。現象学の「エポケ」をまねて、まずコト界の欲望や生理的な欲求を捨て、そのうえで無意識的な欲動の次元へ降りていきます。
そこに見えてくるのは象徴や神話の世界であり、さらにその下には無意識や本能の世界が広がり、もっと下には感覚や体感の世界が広がっています。感覚界はおおむねこの3層で構成されていますから、差元化戦略はそれぞれに向けて対応していきます。
①象徴次元へのアプローチ
この次元では、シンボルや元型(アーキタイプ)の動きに注意を払うべきでしょう。後述しますが、「シンボル」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系です。私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現します。
そこで、新たな戦略では、象徴や元型を拡大させていきます。始原的なキャラクターに触れ合ったり、それらを幾つか組み合わせた神話やおとぎ話を振り返ることで、私たちの心の深層にある沃野に立ち戻って、個人を超えた集合的無意識を再確認することができるでしょう。
②無意識次元へのアプローチ
この次元では、身分けと言分けの接点から生まれてくる無意識や本能の動きに、こまめに注意をはらっていきます。それらは通常、意識下の暗い深淵に潜んでいますが、時折、夢や幻想などの形をとって噴出し、記号で覆われた欲望の厚い膜を突き破ります。
とすれば、無意識や本能が見えやすい環境を、積極的に作り出すことが求められます。眠り、酩酊、陶酔といった状況に自らを追い込んで、その中でたっぷりと夢や幻想を味わい、そこから生来の直感力や超能力を回復させる。それができれば、外部から誘導された欲望の虚構性が自覚され、生身の生活願望が見えてくるはずです。
③感覚次元へのアプローチ
ここでは、個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚をいっそう鋭敏にすることが求められます。マーケティングやマスメディアの作り出す幻想を超えて、生活者の感覚を研ぎ澄ますことで、それぞれの生活行動をリフレッシュさせます。
最近の消費行動では、一方で「みせかけ消費」や「あこがれ消費」が、他方では「身の丈消費」や「実質消費」が広がるなど、二極化が進行していますが、どちらにしても、モノ選びの基準として頼れるのは、惑わされやすい視覚よりも、触覚や嗅覚など自分自身の感覚です。
こうした感覚を取り戻すには、一旦は理性的、合理的な鎧を脱ぎ捨てて、直感的、感覚的な裸身をさらけ出していくことが必要です。野性的な動物性や出生直後の乳児性などの次元に立ち戻って、触覚、嗅覚、聴覚など視覚以外の感覚、つまり肌触り、快感、快汗、芳香、悪臭、瀬音、騒音などに敏感になることです。
以上のように、差元化戦略は、一見、「モノづくり」への回帰のように見えますが、決してそうではありません。例えば、記号を剥いで象徴を求め、物語を捨てて神話に遊び、意識よりも無意識へ接近するなど、表層的なコトを除いたうえで、深層的なコトや感覚の世界へアプローチしていく手法なのです。
差元化戦略とは、感覚界の感覚、無意識、欲動、感度、体感、象徴、神話などを求める感覚願望に応えて、言葉や記号をあえて外し、身体性や直感性、原始性や動物性などの「身分け」力を回復させる手法です。
感覚界とは、単なる物質的次元ではなく、感覚や象徴で外界をとらえた次元です。現象学の「エポケ」をまねて、まずコト界の欲望や生理的な欲求を捨て、そのうえで無意識的な欲動の次元へ降りていきます。
そこに見えてくるのは象徴や神話の世界であり、さらにその下には無意識や本能の世界が広がり、もっと下には感覚や体感の世界が広がっています。感覚界はおおむねこの3層で構成されていますから、差元化戦略はそれぞれに向けて対応していきます。
①象徴次元へのアプローチ
この次元では、シンボルや元型(アーキタイプ)の動きに注意を払うべきでしょう。後述しますが、「シンボル」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系です。私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現します。
そこで、新たな戦略では、象徴や元型を拡大させていきます。始原的なキャラクターに触れ合ったり、それらを幾つか組み合わせた神話やおとぎ話を振り返ることで、私たちの心の深層にある沃野に立ち戻って、個人を超えた集合的無意識を再確認することができるでしょう。
②無意識次元へのアプローチ
この次元では、身分けと言分けの接点から生まれてくる無意識や本能の動きに、こまめに注意をはらっていきます。それらは通常、意識下の暗い深淵に潜んでいますが、時折、夢や幻想などの形をとって噴出し、記号で覆われた欲望の厚い膜を突き破ります。
とすれば、無意識や本能が見えやすい環境を、積極的に作り出すことが求められます。眠り、酩酊、陶酔といった状況に自らを追い込んで、その中でたっぷりと夢や幻想を味わい、そこから生来の直感力や超能力を回復させる。それができれば、外部から誘導された欲望の虚構性が自覚され、生身の生活願望が見えてくるはずです。
③感覚次元へのアプローチ
ここでは、個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚をいっそう鋭敏にすることが求められます。マーケティングやマスメディアの作り出す幻想を超えて、生活者の感覚を研ぎ澄ますことで、それぞれの生活行動をリフレッシュさせます。
最近の消費行動では、一方で「みせかけ消費」や「あこがれ消費」が、他方では「身の丈消費」や「実質消費」が広がるなど、二極化が進行していますが、どちらにしても、モノ選びの基準として頼れるのは、惑わされやすい視覚よりも、触覚や嗅覚など自分自身の感覚です。
こうした感覚を取り戻すには、一旦は理性的、合理的な鎧を脱ぎ捨てて、直感的、感覚的な裸身をさらけ出していくことが必要です。野性的な動物性や出生直後の乳児性などの次元に立ち戻って、触覚、嗅覚、聴覚など視覚以外の感覚、つまり肌触り、快感、快汗、芳香、悪臭、瀬音、騒音などに敏感になることです。
以上のように、差元化戦略は、一見、「モノづくり」への回帰のように見えますが、決してそうではありません。例えば、記号を剥いで象徴を求め、物語を捨てて神話に遊び、意識よりも無意識へ接近するなど、表層的なコトを除いたうえで、深層的なコトや感覚の世界へアプローチしていく手法なのです。
2015年8月9日日曜日
差延化戦略はなぜ有効か
「差延化」という発想は、現象学や記号学を生み出した現代思想の文脈の中に見つけることができます。
J.デリダは、フランス語の「différence(差異)」の動詞形(différer)に含まれる「延期する」という意味を踏まえて、「différance(差延)」という同音異議語を作りました。「差延」とは、言葉の意味を生み出す「差異」に対して、結果として差異を生み出す“動き”を意味しています(『声と現象』)。
具体的にいうと、パロール(parole:話し言葉)では、言葉の意味が話し手と聞き手の間で同一性を保っているケースが多いのですが、エクリチュール(écriture:書き言葉)になると、書き手の文章が読み手によって多様に解釈できる場合が多くなります。
なぜなら、会話で使う話し言葉では、話し手が抑揚や表情やジェスチュアなどを加えますから、単語の意味が一義的に受け手に伝わります。
しかし、手紙や文書で使う書き言葉では、文字でしか表現できませんからともすれば曖昧になりますが、逆に受け手はその意味を多義的に解釈できます。その結果、一つの言葉は新たな意味を持つようになります。
こうした言葉の開かれた機能が「差延」です。言い換えれば、差延とは「予め作られた差異ではなく、送り手と受け手の間で時間とともに作られていく差異」といえるでしょう。
以上の視点をモノや商品に当てはめてみますと、モノにおける差延とは、予め作られたモノの“価値(value)”や“効用(utility)”ではなく、売り手と買い手の間で時間とともに作られていく、私的な効用、つまり“私効(private utility)”ということになります。
価値や効用は社会的なネウチですが、私効は純私的なネウチです。つまり、参加性、変換性、編集性、あるいは「インタラクティブ」といった情報行動まで広く含んでいます。
「差延化(différarize)」とは、生活者のこうした生活行動に積極的に対応しようとするものです。量産された市場的な「価値」や「効用」の差を増すのが「差別化」や「差異化」であるとすれば、個々のユーザーにとっての独自の「私効」の差を増すのが「差延化」ということになります。
さらにいえば、モノの「差別化」や「差異化」が、売り手側が予め決定した、売買時の「価値」や「効用」に関する戦略であるのに対し、「差延化」とはユーザーが使用中に自ら作り出す「私効」に関する戦略です。
もっと突き詰めれば、メーカーや流通業が差し出す「価値」や「効用」を超えて、ユーザー1人1人に独自の「私効」を積極的に創りださせる戦略といえるでしょう。
J.デリダは、フランス語の「différence(差異)」の動詞形(différer)に含まれる「延期する」という意味を踏まえて、「différance(差延)」という同音異議語を作りました。「差延」とは、言葉の意味を生み出す「差異」に対して、結果として差異を生み出す“動き”を意味しています(『声と現象』)。
具体的にいうと、パロール(parole:話し言葉)では、言葉の意味が話し手と聞き手の間で同一性を保っているケースが多いのですが、エクリチュール(écriture:書き言葉)になると、書き手の文章が読み手によって多様に解釈できる場合が多くなります。
なぜなら、会話で使う話し言葉では、話し手が抑揚や表情やジェスチュアなどを加えますから、単語の意味が一義的に受け手に伝わります。
しかし、手紙や文書で使う書き言葉では、文字でしか表現できませんからともすれば曖昧になりますが、逆に受け手はその意味を多義的に解釈できます。その結果、一つの言葉は新たな意味を持つようになります。
こうした言葉の開かれた機能が「差延」です。言い換えれば、差延とは「予め作られた差異ではなく、送り手と受け手の間で時間とともに作られていく差異」といえるでしょう。
以上の視点をモノや商品に当てはめてみますと、モノにおける差延とは、予め作られたモノの“価値(value)”や“効用(utility)”ではなく、売り手と買い手の間で時間とともに作られていく、私的な効用、つまり“私効(private utility)”ということになります。
価値や効用は社会的なネウチですが、私効は純私的なネウチです。つまり、参加性、変換性、編集性、あるいは「インタラクティブ」といった情報行動まで広く含んでいます。
「差延化(différarize)」とは、生活者のこうした生活行動に積極的に対応しようとするものです。量産された市場的な「価値」や「効用」の差を増すのが「差別化」や「差異化」であるとすれば、個々のユーザーにとっての独自の「私効」の差を増すのが「差延化」ということになります。
さらにいえば、モノの「差別化」や「差異化」が、売り手側が予め決定した、売買時の「価値」や「効用」に関する戦略であるのに対し、「差延化」とはユーザーが使用中に自ら作り出す「私効」に関する戦略です。
もっと突き詰めれば、メーカーや流通業が差し出す「価値」や「効用」を超えて、ユーザー1人1人に独自の「私効」を積極的に創りださせる戦略といえるでしょう。
2015年8月1日土曜日
〝差延化〟を初めて提唱した論文の要旨です!
21年前の日本経済新聞(1994年4月29日)の経済教室に掲載された拙論「消費、〝効用〟創造型に移行」について、大略を再掲しておきましょう。
マーケティングや商品学の分野でも、次の時代をリードする新しい消費理論への期待が高まっている。
振り返れば、1980年代の高度消費社会の構造を解明し、付加価値中心のマーケティングをリードした消費理論は、記号学や構造主義という、現代思想の最先端であった。「消費されるのはモノではなく、記号である」というJ・ボードリヤールの主張のように、それは色、デザイン、ネーミング、ブランドといった“記号”消費を解明する最適の方法だったからである。
その意味で、80年代は身近な消費行動と高邁な哲学が連動した、まことに幸せな時代であったといえる。
ところが、90年代に入ると、バブルが崩壊し、それに伴って消費者の間に低価格志向や実質志向が強まり、こうした理論はほとんど説明力を失った。代わって復権してきたのが、旧来の数理科学や行動科学などの科学的実証主義である。
それはまさしく、付加価値優先から基本価値復権へ移行した消費傾向と軌を一にした、消費理論そのものの定番回帰であった。
しかし、科学的実証主義は、消費行動の過去の分析や現状の意味づけには役立つものの、急速に転換しつつある今後の展望となると、いささか力不足だ。なぜなら、すでに消費市場の最前線では、生活者主導型の商品、マルチメディアを投入できる需要分野などの模索が始めている。
厳しさを増す地球環境問題、先進国間の競争激化や途上国の追い上げなどに耐えられる商品作りが、厳しく問われ始めているからだ。この期待に創造的にこたえるためには、哲学なき科学主義や仮説なき実証主義を越える新たな理論が必要になってくる。
では、その理論をどこに求めたらいいのか。実をいえば、それはすでに80年代の消費理論の中に示唆されていた。
記号学や構造主義の消費理論とは、一方では確かにデザインやブランド消費の深層を解明するものであったが、他方ではそれらを超えて、人間の生活や消費の本質に迫るものだった。例えば、F・ソシュールの記号学の本質は、記号に支配される人間の描写ではなく、それを操作し、生成していく個人の力を見つけだすことにあった。
レヴィ・ストロースの構造主義は、構造への「服従」ではなく、構造の「変換」に力点が置かれていた。さらにはJ・クリステヴァの「記号生成論」や丸山圭三郎の「欲動論」なども、記号化社会の分析というより脱記号化への展望を強力に主張するものだった。
こうした思想を統合する立場から、ポスト構造主義の主導者、G・デリダは「差異化」の延長上に「差延化」を展望している。差延化とは「差異とはあらかじめ作られたものではなく、時間とともに作られていく」という考え方に基づく。これを商品のレベルでいえば、「差異」があらかじめ決定された売買時の「価値」であるのに対し、「差延」とは使用している間に作られていく「効用」ということだろう。
このように、現代思想はいち早く、記号化社会や差異化社会のかなたに、来るべき脱記号化社会や差延化社会を予想していた。
そこで、この視点からこれまでの消費社会を振り返ってみると、これからの展望が表に示したように開けてくる。
まず1960~70年代は、供給側が商品を作れば必ず売れるという生産者主導社会であり、消費者は生理的な「欲求」に基づいて商品に飛びつく時代であった。従って、マーケティングの核心は商品の基本機能を「差別化」することにあった。
80年代になると、商品の過剰供給が進む中で、消費者は一通りの欲求を満たした。今度は文化的・情報的な「欲望」に基づいて商品を購買する消費者主導社会に進んだ。そこで、マーケティングのポンイトは、色、デザイン、ネーミング、ブランドなど付加価値の「差異化」に代わった。
しかし、好況と深刻な不況を経験した後の消費社会は、その経験を生かして、生活者自らが「効用」の創造者となって生活を構成していく生活者主導社会へ移行していく。このため、マーケティングの方法も、時間とともに効用を生み出していく「差延化」に代わる。
なお、ここでいう「生活者」とは、次のような特性を持つ人のことである。
- 市場の提供する商品の価値をそのまま受け入れる消費者ではなく、商品を素材として購入し、自ら再編集して独自の効用をつくり出すユーザーである。言い換えれば、生活は、企業の差し出す社会的な商品を材料にして、自ら個人的な道具を作り替える人である。
- 生理的次元の「欲求」でも、文化的次元の「欲望」でもない、より根源的な生命の動き、つまり「欲動」に基づいてモノの「効用」を求める人である。
- 購入した商品を「消費」するのではなく、それを「常用」する人である。つまり、商品の購入とは、「常用」という時間的関係に入ることを意味している。
それゆえ、このような社会では、商品とは万人に共通の価値から、1人のユーザーにとっての効用“素”に変わる。また流通市場とは価値を売る場所から、柔軟な効用“素”を提案する場所に変わる。
さらに流通市場は、単なる商品の売り切りの場から、生活の使い切りまでを対象にした、長期的な需給の場に転換していくことが予想できる。
これこそ、究極の生活者の立場に立つ商品であり、究極の生活財市場のイメージなのである。
今後の消費市場が以上のような方向へ向かうとすれば、これからのマーケティングや商品開発も、当然大きく変わらねばならない。そのポイントは、生活者の「創造効用」や「愛用効用」などを的確に把握することだと思われる。具体的にはいくつかの先行事例の示す、次のようなマーケティング対応が必要になる。
創造効用に関しては、まず2~3割程度の素材を提供する「手作り」対応がある。例えば手作りビール、ミニチュアの家を作る人形の家、デコラティブ(装飾的)・ペインティングやデコパージュなどのニュー手芸、場所を変えて開くフリーディスコ、個人手配海外旅行などがあげられる。
次に7~8割程度の素材を提供する「参加」対応がある。このタイプとしては雑誌の読者記者制度、組み替えスーツ、キット家具製作クラブ、自由設計プレハブ住宅、ログハウスなどが考えられる。
あるいは、“自主編集権”を満足させる「編集」対応。各社の衣料を組み合わせて独自のスタイルをつくり出すいわば消費者編集ファッション、各社の部品を編集して独自の車をつくり出す改造車や改造バイクなどが考えられる。
最後に商品の用途を自由に作り出せるような「変換」対応で、ポケットベルの用途の多様化、冷蔵庫の総合保管庫化などがこの仲間になる。
こうしてみると、差延化対応とは、一面では従来の付加価値を超えた“超”付加価値の創造を意味しているが、他面では単なる「価格革命」や「価値革命」を超えた「効用革命」をめざすものといえよう。
現在の時点で読み返すと、やや雑駁な感じもあり、修正すべき点も幾つかありますが、基本的な論旨については、このまま通用するのではないか、と思います。
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