18世紀の言語論を振り返ってきましたので、続いて19世紀の動向を眺めてみます。
この世紀の言語論を代表するのは、なんといってもスイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure:1859-1913)でしょう。
ソシュール言語学の特徴は、18世紀に深まった言語起源論や歴史的推移論などを「通時言語学」と位置づけたうえで、時代を超える言語の全体的な構造を研究する「共時言語学」を提唱したところにあります。
積年の講義録をまとめた『一般言語学講義』(Cours
de linguistique générale :1916)は、筆者もほぼ半世紀前から愛読してきた一冊であり、すでに【音分けとは・・・言分けの限界を考える!】【言分けは恣意的なのか?】【「言分け」階層の「下分け」を考える!】などで紹介してきたように、極めて多彩な言語論が展開されています。
以下では、言語3階層論の視点から改めて整理しておきます。
ソシュールは、人間の言語に関する行動には、ランガージュ、ラング、パロールの、3つの側面があると言っています。
●ランガージュ(langage:言語活動)
言語をはじめ、さまざまな記号を造って使いこなす、さまざまな能力、およびそれによって実現されるさまざまな行動を意味します。
この能力や行動には、発声、調音、連辞など言語の運用に直接関係する行動とともに、抽象化やカテゴリー化といった論理的な行動も含まれます。
言語活動(ランガージュ)は、ぜんたいとして見れば、多様であり混質的である。いくつもの領域にまたがり、同時に物理的、生理的、かつ心的であり、なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする。それは人間的事象のどの部類にも収めることができない。その単位を引きだすすべを知らぬからである。 ・・・『一般言語学講義』小林英夫訳:1940~1984年 |
●ラング((langue:言語)
民族や国家などさまざまな集団のなかで、個々の記号の造り方やそれが示す対象、あるいは記号の使い方や結び付け方などが社会集団の中で共有され、制度化されたものを意味します。
言語(langue)とはなんであるか? われわれにしたがえば、それは言語活動(langage)とは別物である。それはこれの一定部分にすぎない。ただし本質的ではあるが、それは言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である。 われわれはみのりすくない字義的定義をさけて、まず言語活動の呈する総体的現象の内部に、二個の要因、言語と言に識別した。言語は、われわれにしたがえば、言語活動から言を差し引いたものである。それは、話し手をしてひとを理解し・おのれをひとに理解させることをゆるす言語習慣の総体である。 ・・・同上 |
●パロール(parole:言)
個人がランガージュ能力を機能させて、ラングという枠組みのなかで、具体的に発せられる個々の言葉を意味します。
心的部分にしても、そのぜんぶが働いているわけではない。遂行的側面は関与しない。遂行が大衆によってなされることは絶対にないからである。それはつねに個人的なものであり、個人はつねにそれの主である。われわれはこれを言(parole)とよぼうとおもう。 ・・・同上 |
以上のように、ソシュールは人間の言語行動を3つの関係で説明したうえで、言語は記号(signe)の一つである、としています。
われわれは、記号(signe)という語を、ぜんたいを示すために保存し、概念(concept)と聴覚映像(image acoustique)をそれぞれ所記(signifié)と能記(signifiant)にかえることを提唱する。このあとの二つの術語は、両者間の対立をしるすにも、それらが部分をなす全体との対立をしるすにも、有利である。 ・・・同上 |
記号とは、能記(シニフィアン:意味するもの=音や文字など)と所記(シニフィエ:意味されるもの=モノや概念など)が連合して一つの意味を示すものであり、両者を結びつける紐帯はまったく恣意的である、というのです。
◆能記(シニフィアン:意味するもの=音や文字など)と所記(シニフィエ:意味されるもの=モノや概念など)を結びつける紐帯は、恣意的である。 ●記号とは、能記と所記との連合から生じた全体を意味するものである以上、言語記号は恣意的である。 ●言語の間に差異のあることが、いや、諸言語の存在そのものが、その証拠である。所記としての「牡牛」は、国境のこちら側では能記がb-ö-f(boeuf)であり、あちら側では o₋k₋s(ochs)である。 ●恣意性(arbitraire)という語にも注意が必要である。それは能記が話し手の自由選択に任されているもののように思わせてはならないということだ。一言語集団のうちでいったん成立した記号にたいしては、個人はこれに寸毫の変化をも与える力はない。 ●我々が言いたいのは、それ(恣意性)は無縁(immotivé)であるということだ。つまり能記と所記の関係は恣意的であり、現実においてなんの自然的契合をも持たない。 ・・・同上 |
そのうえで、凝音語(onomatopée)と感嘆詞(Exclamation)などでは、恣意性を否定する意見のあることを指摘し、それについても反論しています。
●フランス語のOuaOuaもドイツ語のWauWauも、ひとたび言語体系のなかに導入されるや、他の語もこうむる音韻進化や形態進化などの中へ引きずり込まれる。このことは、それらの言葉が最初の特質の幾分かを失って、本来は無縁である言語記号一般の特質を具えるに到ったことの、明白な証拠である。 ●感嘆詞(Exclamation)も擬音語とよく似たもので、同じような注意をよびおこすが、われわれの提説にとってはやはり危険なものではない。人はとかくこれらの言葉に、実在の自発的な、いわば自然の口述した表現をみようとする。しかしながら、それらの大部分についていえば、所記と能記との間に必然的連結のあることを否定できる。 ・・・同上 |
以上のようなソシュールの言語論を言語3階層論で眺めて見ると、下図のようになります。
極めて精緻な言語論ですが、このあたりに限界があるのかもしれません。