生活構造論の「3分け」論を確かめるため、「言葉」の3次元を考えています。
これまで見てきたアウグスティヌスの3次元論や、井筒俊彦の言語阿頼耶識説などを参考にすると、このブログの【言語化とはいかなる行為なのか?】などで主張してきた言葉の3階層説(表層言語・日常言語・深層言語)も、以下のように修正されるでしょう。
◆思考言語(観念言語)・・・観念や概念など抽象化した記号として、脳内で使用している言葉。 ◆日常言語(交信言語)・・・日常的に脳内で思考し、それらを会話や文通などの交信手段として使用している言葉。 ◆深層言語(象徴言語)・・・日常言語が生まれる前の、脳内イメージ(元型)やオノマトペ(擬声語)など、無意識的な"象徴"に載って表される言葉。 |
アウグスティヌスのいう、外向き会話(locutio foris) は日常言語、思考向き会話(cognitativium in similitudine soni)は思考言語、内向き会話(locutio interior)は深層言語であり、内向き会話は、井筒のいう言語阿頼耶識は深層言語ということになるでしょう。
この3次元については、言語学、言語哲学、心理学などでも、さまざまな議論が行われてきました。言葉とは何かを考える、最も基本的な次元だと思いますので、古今東西の先学諸賢がどのように思考されてきたのか、一通り振り返っておきましょう。
しかし、彼らの著作には、言語3次元論に関わる言説はほとんどなく、わずかにアリストテレスの『命題論』に次のような見解が述べられていました。
発声されて言葉となっているものはといえば、これは、心の中に浮んできている思いを、それから更に、字にされて書き綴られるものは、発声されて言葉となっているものを、それぞれ、しきたりに従ってぴったりとあらわすものなのである。 それからまた、皆のひとの使っている文字が同じだというわけでないのはもちろんのこと、その発声された言葉もやはり同じではない。 けれども、発声された言葉が直々にそれを言い表わすしるしなのだといえるあの当のもの、つまり心に浮かんできている思いは、皆のひとにとって同じであり、更に、心に浮んできている思いがそれに似たものであるそのもとの実物、これはもうなんといっても同じなのである。 ーーアリストテレス『命題論』第1章:水野有庸訳:世界古典文学全集:筑摩書房:1966 |
発声も書き文字も使い手によってそれぞれ異なりますが、それらで表そうとしている心象風景は現実を映しているがゆえにまったく同じになる、というのでしょう。
そこでまず名指し言葉であるが、これは、取り決めにもとづいてものを表わすことが出来て、時というものには係わりがないような、発声された言葉のことである。 更に言えば、それは、そのいかなる一部分といえども、それだけが別に切り離されてしまうと、そこがものを表わすことは出末なくなってくる、そういうものなのである。 ――同、第2章 |
いわゆる名詞は、慣習(συνθήκην)に基づいて定められた事物を表す、一連の音声であり、一つ一つの音が切り離されると、もはや表わすことができなくなる、ということでしょう。
取りきめにもとづいて、とさきに言ったのは、名指し言葉のうちには、ただの自然によってはじめからできていたものは一つとしてなく、まずしきたりによるぴったりとしたしるしとなったうえではじめて、名指し言葉だといえるものができるからなのである。 つまりここでは、禽獣どもが発するような、字ではっきりと書きあらわせない種々の鳴声でさえも、なにかのことを指しあらわしていることはいるが、それらのうちに名指し言葉だと言えるものは一つもない、というようなことを思いおこしてみればよい。 ――同、第2章 |
名詞という言葉は必ず人間のしきたりによって生まれるものであり、動物の鳴き声のような、何かを意味してはいるものの、決して言葉とは言えないことと比較すればいい、というのでしょう。
以上のようにざっと見てくると、アリストテレスの著作に見られる、古代ギリシアの言語観は、日常言語という基礎的な思考の充実に向けられていたように思われます。
0 件のコメント:
コメントを投稿