R.デカルトは普遍言語の実現を望みつつも、その前提として「普遍観念」の構築が必要だ、と考えていましたが、この発想を継承したドイツの哲学・数学者G.M.ライブニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz:1646~1716)は、「記号」の確立によって「普遍言語」は実現できる、と考えていたようです。
ライプニッツは、前回紹介したデカルトの手紙の余白に、次のような書き込みをしていました。
この言語(普遍言語)が真の哲学に依存するとしても、その哲学の完成に依存するのではない。すなわち、哲学が完全なものでなくとも、この言語は確立されるのであり、人間の学問が進歩するにつれて、この言語もまた進歩するのである。 La Logigue de Leibniz d’aprés des documents inédits.1901 |
そのうえで、自著の中で次のように述べています。
ある卓越した人たちが以前ある種の言語ないし普遍的記号法を思いつき、それによってあらゆる概念と事物が見事に秩序づけられ、その助けによってさまざまな国々が自分たちの考えを伝えることができ、それぞれの国のものが他国で書かれたものを自分の言語で読むことができるようになったともいえる。 しかしながら、同時に発見術と判断術とを含む言語ないし記号法、すなわち、その表記ないし記号が、数論上の表記が数に関して、また代数学上の表記が抽象的に扱われる量に関して果たすのと同じ役割を果たすような言語ないし記号法を手がけようとしたものは誰もいなかった。 「普遍的記号法―その起源と価値」ライプニッツ著作集10:小林道夫訳:工作舎:1999 |
それならばと、ライプニッツ自身が「普遍的記号(Characteristica universalis)」の実現をめざしはしましたが、簡単には達成できない試みであったためか、限定的なものに終わっています。
ともあれ、ライプニッツの主張するところを、関連する資料や先学諸賢の研究成果に基づいて、おおまかに整理しておきましょう。
●人間の思考は、音声を使った「話し言葉」では、アルファベットの26文字で全てが表現されて、外部へ語られている。これと同様に、人間の思考もまた、精神の中では観念(idea)の組み合わせによって生まれているから、その複合観念を構成要素に分解してしまえば、「思考のアルファベット」とよべるような、究極の「単純観念」が発見できるはずだ。 ●デカルトは、精神と言葉は乖離したもので、記号と観念は区別され、両者の結びつきは習慣や制度などによって恣意的・任意的に行われている、と考えていた。これに対し、ライプニッツは、言語とは「精神の最良の鏡」「理性の真の鏡」であって、「語の意味の厳密な分析は知性の働きを、他の何よりも正しく我々に認識させる」ものであるから、記号と観念には連動性がある、と考えた。 ●デカルトと異なり、ライプニッツは、人間は自然言語を無意識的に想起できると考えた。認識可能な世界は全て自然言語によって表現できるうえ、認識された世界は、人間精神の「進歩」、つまりは「歴史」とともに広がっていくものと考えた。 ●対象を認識する方法には、直観的認識と記号的認識がある。直観的認識とは、対象に対して抱いた観念の原初的な内容を、一度かつ明確に把握することだが、それはごく稀なことだ。とりわけ、そこに潜む真理などを掴むのは、ほとんど不可能である。そこで人間は、これに代わる役割として「記号的認識:cognitio symbolics」を行う。記号的認識は、直観的認識に限界をもつ人間知性の実質的な認識行動とならざるをえないが、これを推し進めれば、人間の知性の中に神と宇宙の表出が可能になる。 |
以上のようなライプニッツの「普遍言語」説は、数理的科学思想の基盤となり、現代のAI技術を生み出すまでに発展してきました。まさしく当ブログが分類した「思考・観念言語」の典型といえるでしょう。
しかし、このような普遍言語には、次のような弱点が付きまとっています。
例えば囲碁は碁盤のうえで、人間が観念上で定めたルール、つまり普遍言語のシンタックス(統辞法)に基づいて勝敗を競うゲームですが、その効果を応用して、実際の戦闘に臨むこともあります。その意味では、言語が現実を動かしているともいえるでしょう。
ところが、実際の戦場では天変地異から人事動静まで、ルールの前提を大きく超えた事態が次々と発生し、シンタックス通りには到底対応できないこともあります。
そうした事態もまた次々とルールに組み入れていけば、やがて完全に近づくというのがライプニッツの論理ですが、いつまでいっても完璧には至らないケースも多々あります。
そのあたりに普遍言語の限界、つまり現代科学論理の限界があるのではないでしょうか。