2020年1月21日火曜日

「脱・真実」でブランドは無視される!

生活民の立場からブランドの功罪を眺めていますが、3番めの検証は、生活民とは「真実」よりも、「虚構」から「日常」や「真実」を眺める主体である【供給者は真実言語には介入するな!:2017年12月10日】という視点からです。

このように書くとかなり違和感があると思いますが、当ブログの過去のコラムを読んでいただければ、納得していただけると思います。

例えば【
「脱・真実」へ対応する!2017年5月23日】や【SNSにどう向き合うか?2017年5月11日】などで指摘しているように、生活民という主体は、言語という識知装置によって周りの環境世界を完璧に把握しているわけではなく、不完全なしくみとみなしている、という前提に立っているからです。

こうした視点から見れば、図に示したように、ブランドの立場はかなり不確かなものとなります


①言語を識知用の仮装置にすぎないとする虚構界では、言葉はすべて虚構であることを前提としていますから、商品やサービスの信用や権威を表示するブランドの意味はまったく無視されます。

②日常的な交信が行われている日常界では、言葉はまさに虚実の入り混じったものですから、ブランドの意味もまた信頼性と欺瞞性の入り混じったものとなります

③言語の示すものを全て真実と見なそうとする真実界では、あらゆる言葉が真実を表象していますから、供給者の提示するブランドもまたそのままの形で信頼性を現ことになります。

逆に言えば、ブランドとは、「真実」界では確かに意味を持つものの、日常」界ではまあまあの意義となり、「虚構」界に至ってはほとんど無意味なマークとなる、ということです。

言語空間を曖昧なものと見なしている生活民の立場からみれば、信用や権威を示すブランドという記号は、「言葉の示すものは全て真実だ」という、限られた前提の中でのみ通用するものということになるでしょう。

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