ハイテクツールの8番めは、アンドロイド(android)を取り上げます。
アンドロイドとは、人間型ロボット、つまりヒューマノイドロボットの一種です。
古典ギリシャ語の「andros:人間、男性」と「eidos :そっくり」を組み合わせた造語で、機械仕掛けの人間型ロボットのうち、外観が人間の姿に似ているものを意味します。
未だ開発途上にあり、先行している事例として、受付業務、説明業務、介護補助業務など、主に会話交流手段として使われ始めています。
その効用と限界を評価するのはいささか早すぎるかと思いますが、現在の時点で、アンドロイドの特性を、私たち生活民の生活構造(「生活体」の3つの軸)の立場から展望しておきましょう。
①感覚・言語軸(縦軸)
❶アンドロイドの会話や動作に使われている言葉は、言分け・網分けによって得られた情報に限定されている。 ❷自然人の得ている情報は、身分け・識分け・言分け・網分けの全てのプロセスを通じて得られたものである。 ❸両者が会話や動作で情報を交換する場合、言知界と理知界の情報に限られる。 |
②個人・社会軸(横軸)
❶アンドロイドの会話や動作に使われている言葉は、ラングとパロール1に限定されており、パロール2には届いていない。 ❷自然人の使う言葉や動作は、ラング、パロール1はもとより、パロール2に及んでいる。 ❸両者が会話や動作で情報を交換する場合、ラング、パロール1に限られる。 |
③真実・虚構軸(前後軸)
❶アンドロイドの行う会話や行動は、あくまでも虚構である。 ❷自然人が行う会話や動作には、虚構と真実、両者の混在した曖昧の、いずれも含まれている。 ❸両者が会話や動作で情報を交換する場合、虚構と虚実混交を前提にして行なわれる。 |
以上にあげた3次元を前提にすると、アンドロイドの限界が見えてきます。
50年も前、米国のSF作家P.K.ディックが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 』(1968年)と問いかけていましたが、本当に見られたのでしょうか。
自然人が夢を見られるのは、身分け・識分けで得られた情報を、言分けする前の無意識として、心の底に沈潜させ、意識が薄まった時に浮上させるからです。
自然人には識分けを行う主体、例えば仏教・唯識論上の末那識が備わっており、これによって、無意識の中からイメージや音声を浮上させているのです。
ところが、アンドロイドとなると、末那識を持たせることなど、かなり困難だと思います。膨大なイメージ、音声、言語などは貯蔵していますが、それらを選別する主体となると、これまた予め設計されたプログラムに頼ることになります。これでは、意識された対象の選別はできたとしても、意識されない対象の選別まではとても無理ではないでしょうか。
アンドロイドもまた、人工知能のクオリア(qualia:感覚質)を持っているから、それが望む時には蓄積情報を選別し、意識上へ浮上させ得るだろう、という意見もありますが、クオリア自体の“望む”こと、それこそが難しいのです。
とすれば、「アンドロイドは夢を見られない」のではないでしょうか。
最先端技術としてアンドロイドを開発しておられる方々には、失礼かとは思いますが、「アンドロイドは夢など見られない!」と敢えて申し上げておきましょう。
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